第1話:その海賊、週給制につき
海賊船の朝というのは、本来であれば怒号とラム酒の臭い、そして二日酔いの呻き声で始まるものだ。
だが、スループ船『リベンジ号』の朝は違った。
「おはよう、諸君! 素晴らしい風だとは思わないか?」
船長室から現れたスティード・ボネットは、完璧に整えられたモーニングコートを身に纏い、片手には湯気の立つティーカップを持っていた。
甲板でダラダラとロープを直していた乗組員たちは、まるで珍獣でも見るような目で彼を見た。
「……あー、おはようございます、船長」
操舵手のビリーが、やる気のなさそうな声で返事をする。彼は口の端から噛みタバコの汁を海へ吐き捨てた。「で、今日の予定は? また読書会ですかい?」
「まさか! 今日は記念すべき初仕事の日だよ、ビリー君」
スティードは優雅に微笑んだ。「我々は海賊だ。海賊らしく、獲物を探しに行こうじゃないか」
乗組員たちの間に、微妙な空気が流れた。
彼らはバルバドスの酒場で雇われた荒くれ者たちだ。本来なら、こんなナヨナヨした男が船長だと名乗った瞬間に、喉を切り裂いて船を奪っていただろう。
だが、彼らはそうしなかった。理由は単純だ。
「そうですね。で、確認なんですが船長。今週分の『給料』は、ちゃんと出るんでしょうな?」
そう、金だ。
スティード・ボネットは海賊の歴史上、前代未聞のシステムを採用していた。
略奪品の分配ではなく、完全固定給。
獲物が捕れようが捕れまいが、毎週金貨が支払われる。しかも、食事付き。酒場のごろつき達にとって、これほど条件の良い「就職先」はなかった。
「もちろんだとも。私の帳簿に間違いはない。ただし!」
スティードは表情を引き締め、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「この船に乗る以上、私のルールに従ってもらう。名付けて『ボネットの進歩的・海賊協定』だ」
彼は羊皮紙を広げ、朗々と読み上げ始めた。
「第一条、船内での賭博は禁止する。金銭トラブルはチームワークの敵だからね」
「はあ?」甲板長の男が素っ頓狂な声を上げる。「博打なしで、夜に何をやれってんだ?」
「読書だよ。私の書庫はいつでも開放している。教養こそが紳士を作るのだ」
「俺たちは海賊だぞ……」
「第二条、夜八時の消灯厳守。健康第一だ」
「子供かよ!」
「第三条、略奪の際は、相手に対して礼節を持って接すること。無益な殺生は避けるべし」
乗組員たちは顔を見合わせた。
こいつは本物の馬鹿だ。あるいは、頭のネジが完全に吹き飛んでいる。
だが、ビリーは肩をすくめて仲間たちに目配せをした。(まあいい、金さえ貰えれば、こいつの道楽に付き合ってやるさ)という合図だ。
「了解です、船長。素晴らしいルールだ」ビリーは棒読みで言った。「で、獲物はどこに?」
その時、マストの上から見張り番の声が降ってきた。
「船だ! 右舷前方に商船発見!」
スティードの目が輝いた。彼はティーカップを近くの樽に置くと(コースターがないことに少し眉をひそめたが)、腰のサーベルに手をかけた。
「素晴らしい! 諸君、出番だ! 全速前進、リベンジ号の恐ろしさを世界に知らしめる時が来たぞ!」
乗組員たちはダラダラと立ち上がり、あくびを噛み殺しながら配置についた。
緊張感のかけらもない。まるで工場の始業チャイムを聞いた労働者のようだ。
リベンジ号は風を掴み、その商船へと近づいていく。
相手は小型の貿易船だ。武装も貧弱で、逃げ足も遅い。初心者の練習台としては申し分ない。
スティードは心臓が高鳴るのを感じた。本で読んだ通りだ。ドレイクも、モーガンも、こうやって伝説を築いてきたのだ。
彼は大きく息を吸い込み、叫んだ。
「よし、誰か威嚇射撃を! そして恐怖の海賊旗を掲げるんだ!」
「へいへい」
砲手が気のない様子で小砲を撃つ。ドカン、という音とともに水柱が上がった。
そして、マストにするりと旗が揚がる。
……しかし、それは通常の海賊旗とは少し違っていた。
スティードが夜なべしてデザインしたその旗は、ドクロの横に「天秤」と「ハート」が描かれていたのだ。『公平さと愛』を意味しているらしいが、遠目に見れば、何かの呪術的な落書きにしか見えなかった。
相手の商船はパニックに陥ったようだ。帆を下ろし、停船する。
「よし、接舷するぞ!」
船体がぶつかる鈍い音。スティードは意気揚々と、一番乗りで相手の甲板へと飛び移った。
「動くな! 我々は海賊だ!」
スティードは剣を抜いた。その剣先は震えているし、足元はおぼつかない。
商船の船長と思しき太った男が、怯えた様子で出てきた。
「ひ、命だけは助けてくれ! 積荷は砂糖とタバコだ、好きに持って行ってくれ!」
相手が抵抗しないことに、スティードは安堵した。そして同時に、湧き上がる奇妙な罪悪感と戦った。
彼は咳払いを一つして、帽子を脱いだ。
「あー、ごきげんよう。驚かせてすまない。その、我々はあなたの財産を少々……いや、全て頂戴したいのだが、構わないかね?」
商船の船長は、ポカンと口を開けた。
剣を突きつけている海賊が、まるで舞踏会の招待状を渡すような口調で話しているからだ。
「は、はあ……。構わない、というか、持って行くんだろう?」
「そう! その通りだ。ありがとう、話が早くて助かる」
スティードは振り返り、自船の部下たちに指示を出した。
「おい、聞いたか? 許可を頂いたぞ。砂糖とタバコだ。丁寧に運び出すんだぞ、こぼさないように!」
リベンジ号の乗組員たちは、呆れ顔で作業を開始した。略奪というよりは、引越し業者の作業風景に近い。
スティードはその間、商船の船長と世間話を始めた。
「いい船だね。この木材はマホガニーかね? 手入れが行き届いている」
「あ、ああ。三年前に造船所で……って、あんた一体何なんだ? 本当に海賊か?」
「失礼な。私はスティード・ボネット。覚えておいてくれたまえ。これからこの海を震撼させる男の名だ」
スティードは胸を張った。
その時、船倉から数冊の本を見つけ出し、目を輝かせた。
「おや、これは最新の詩集じゃないか! これも頂いていいかね?」
「……好きにしろよ」
略奪――と呼ぶにはあまりに平和的な物資の移動――は、一時間ほどで終了した。
砂糖樽が十個、タバコの葉が数箱、そして数冊の本。
スティードは満足げに頷き、去り際に商船の船長の手を握った。
「協力感謝する。今後の航海の安全を祈っているよ」
「二度と会いたくないね」
リベンジ号が商船から離れると、スティードは甲板で勝利の余韻に浸った。
「見たか、諸君! これが海賊だ! 血を流さず、知性で勝利を掴む。これこそが新しい時代の略奪モデルだよ!」
乗組員たちは砂糖樽の周りに座り込み、冷ややかな視線を送っていた。
「なあ、船長」ビリーが低い声で言った。「砂糖なんかより、金貨はないのか? 俺たちのボーナスは?」
「焦るな。砂糖を港で売れば金になる」
「面倒くせえなあ……」
スティードは彼らの不満に気づかないふりをして、船長室へと戻ろうとした。
今日の冒険を、日誌に書き留めなければならない。『記念すべき初勝利。私は海賊の才能があるようだ』と。
だが、その時だった。
見張り台から、先ほどとは全く違う、切迫した叫び声が響いた。
「船長! また船だ! こっちに向かってくる!」
「おや、今日は忙しいな。また商船かね?」
「いや……違う!」
見張りの男の声が震えていた。
「帆が黒い! それに……あの旗は!」
スティードは振り返り、望遠鏡を覗き込んだ。
水平線の彼方から、風を切り裂くように接近してくる船があった。
リベンジ号よりも遥かに速く、そして鋭い殺気を纏っている。
マストに翻るのは、先ほどの自分が掲げた可愛らしい旗とは違う。
二本の剣が交差した上に、不気味に笑うドクロ。
「……あれは?」
スティードが呟くと、そばにいたビリーが顔面蒼白で答えた。
「キャリコ・ジャック(更紗のジャック)だ……! ジョン・ラカムの船だぞ!」
本物の海賊。
ごっこ遊びではない、死と暴力の象徴。
スティード・ボネットの「優雅な海賊ごっこ」は、開始からわずか半日で、最悪の形で終わりを告げようとしていた。
「えーと」
スティードは望遠鏡を下ろし、震える声で言った。
「彼らとも、話し合えば分かるかな?」
ビリーは唾を吐き捨て、サーベルを抜いた。
「遺言の準備をしときな、旦那。給料分の働きはしてやるが、死ぬのは御免だぜ」
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