プロローグ:楽園という名の牢獄
バルバドスの夜風は、熟れすぎた果実のように甘く、そして重い。
窓枠に切り取られた闇の向こうからは、絶え間ない虫の音と、遠くでさざめく波の音が聞こえてくる。それは平和の音だ。誰もが羨む、豊かな植民地地主の、何不自由ない生活の音だ。
スティード・ボネット少佐は、書斎の重厚なマホガニーの机に突っ伏したい衝動を、かろうじて抑え込んでいた。
「……それで、あなた。聞いていらっしゃいますの?」
背後から響く妻の声は、まるで錆びついたノコギリで神経を引くような響きを持っていた。
「昨日の晩餐会でのあなたの態度、あれは何ですの? 総督の前で海図の話ばかりして。皆様、あなたのことを『陸の船長さん』だと笑っていましたわよ。ボネット家の恥ですわ」
スティードはゆっくりと振り返った。蝋燭の灯りに照らされた彼の顔は、年齢よりも少し老けて見える。丸みを帯びた体型と、仕立ての良いシルクの部屋着。どこからどう見ても、彼は成功した紳士だった。
だが、その瞳だけが、この部屋にはない遠い場所を見つめていた。
「メアリー」
「何ですの」
「僕は……ただ、海が好きなんだ」
「ええ、知っていますとも。だからこそ恥ずかしいのです。いい歳をして、まるで冒険小説にかぶれた子供みたいで」
妻はふん、と鼻を鳴らして寝室へと去っていった。ドアが閉まる音が、重い鉄格子の音のようにスティードの胸に響いた。
彼は一人残された書斎で、震える手で引き出しを開けた。
そこに入っているのは、帳簿でも遺言書でもない。
一冊の古びた本――『フランシス・ドレイクの世界周航記』と、一枚のボロボロの地図だった。
このバルバドスの屋敷は、楽園だ。
飢えることもない。凍えることもない。命を狙われることもない。
だが、ここは牢獄だ。
退屈という名の看守が、スティードの魂を毎日少しずつ削り取っていく。死ぬまで、この「良き夫」「良き地主」という役割を演じ続け、誰の記憶にも残らず、安らかなベッドの上で腐っていくだけの人生。
(……嫌だ)
心の奥底で、何かが爆ぜた音がした。
それは導火線に火がついた音だったかもしれないし、自分を繋ぎ止めていた最後の鎖が千切れた音だったかもしれない。
スティードは立ち上がった。
本棚に並ぶ数千冊の蔵書を見渡す。哲学書、歴史書、詩集。彼の唯一の友人たち。
「すまない」
彼は一番気に入っている数冊だけを小脇に抱え、それ以外に背を向けた。
そして、壁にかけてあったサーベルを手に取る。飾り物として購入し、一度も抜いたことのない、ピカピカの剣だ。
夜の庭へ出ると、湿った空気が肌にまとわりつく。彼は走った。息を切らし、泥で高価な靴を汚しながら、港へと向かった。
心臓が早鐘を打っている。恐怖ではない。これは、興奮だ。
港の端、月の光を浴びて、その船は停泊していた。
スループ船『リベンジ(復讐)号』。
スティードが私財を投じ、地元の造船所に極秘裏に注文していた特注の船だ。船首像には槍を持った骸骨が彫られ、マストは天を突くように聳え立っている。
通常の海賊は船を奪うものだが、彼は買った。乗組員も、略奪品の分配ではなく、週給制で雇った。
何もかもが「海賊の流儀」から外れている。
「旦那……いや、船長」
タラップのそばで待っていたのは、薄汚れた男たちだった。金で雇われた荒くれ者たちが、値踏みするような目でスティードを見ている。その目には明らかな侮蔑の色があった。
「本当に出すんですかい? こんな真夜中に。それに、あんたみたいな上流階級のボンボンに、波の上が務まるとは思えねえが」
スティードは息を整え、乱れた襟元を正した。
そして、震える足を必死に地面に踏ん張り、人生で初めて、他人への命令を下した。
「口を慎みたまえ。給料分は働いてもらうよ」
彼はタラップに足をかけた。一歩、また一歩。
木の板を踏む乾いた音が、バルバドスの静寂に響く。
そして、甲板に立った瞬間、風が変わった。島の湿った熱気が消え、塩と自由の匂いが鼻孔をくすぐる。
「出航だ」
スティードの声は裏返っていたかもしれない。だが、それは確かに宣言だった。
「もやを解け! 帆を上げろ! 行き先は……水平線の向こう側だ!」
錨が巻き上げられ、黒い帆が風を孕む。
陸に残してきた富も、名誉も、家族も、すべてが遠ざかっていく。もう戻れない。戻るつもりもない。
今日この瞬間、バルバドスの紳士スティード・ボネットは死んだ。
そして、「海賊紳士」が産声を上げたのだ。
彼はまだ知らなかった。
この海の先には、髭に火をつけた悪魔がいることを。
宝石を纏った冷徹な規律の王がいることを。
そして、世界を揺るがす巨大な陰謀と、血塗られた運命が待ち受けていることを。
船は闇夜の海へと滑り出す。
歴史上、最も奇妙で、最も愚かで、そして最も気高い海賊の航海が、今、始まった。
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