第15話:掟の執行者、裏切りの終焉
「全艦、帆を斜め45度に固定! 敵の二番艦と三番艦の間、あの『死の隙間』へ突っ込む!」
黒髭の赤いコートを翻し、スティード・ボネットの声が荒れ狂う海を切り裂いた。その手には、もはや扇子や詩集はない。あるのは、風向きと潮目を読み解くための海図と、血に汚れた一冊の「掟の書」だけだった。
イギリス艦隊の提督モーガンは、旗艦の艦橋からその光景を冷ややかに見つめていた。
「……無知な貴族が、指揮官の真似事か。全門、斉射用意。あの赤いコートを海の藻屑にしろ」
だが、モーガンの予測は外れた。
ボネットが命じたのは、鄭一嫂のジャンク船による、捨て身の「自爆戦法」だった。無数の小型船がイギリス艦隊の死角に潜り込み、火薬を積んだ火船を次々と解き放つ。
「あいつら、死ぬ気か!?」
イギリス軍の士官が叫ぶ。規律で動く正規軍にとって、個人の生存本能を捨てた「掟による死の合意」は、理解不可能な恐怖だった。
一方、海面では、裏切り者イジー・ハンズが瓦礫に掴まりながら、荒い息をついていた。その懐には、濡れた「キッドの秘密文書」がある。
そこへ、ボネットの乗る小型ボートが接近した。
「……助けに来たか、お坊ちゃん」
イジーが血を吐きながら嘲笑う。「それとも、俺を殺してその紙きれを奪うか?」
ボネットは無言でイジーを見下ろした。その瞳には、かつての迷いも、甘い同情もなかった。
「ミスター・ハンズ。あなたは『恐怖が海を統べる』と言いましたね。ですが、恐怖で結ばれた絆は、より大きな力(権力)の前に容易く崩れる。……今のあなたのように」
「……黙れ……ッ!」
「モーガンはあなたを救わなかった。それは、あなたが『海賊の掟』を裏切り、彼らの『支配』に魂を売ったからです」
ボネットは、腰のピストルをゆっくりと抜いた。それは、黒髭から預かった重い一挺だった。
「掟の第十条――『戦いにおいて仲間を裏切り、敵に通じた者は、海にその命を返さねばならない』。……これは、私が作ったルールではありません。あなたたちが、自由であるために守り続けてきた『血の契約』です」
イジーは、ボネットの背後に、マダガスカルの火柱を背負って戦う『復讐号』とジャンク船団の雄姿を見た。そこには、東西の壁を超え、一人の「紳士海賊」を旗印に結束した、真に自由な男たちの姿があった。
「……ハッ。皮肉だな」
イジーは空を見上げ、力なく笑った。「俺が教えたかった『本当の黒髭』に……一番遠かったお前が、一番近くなっちまうとはな」
イジーは懐の文書を、波間に放り投げた。
「持っていけ。……それは、この海の自由を奪おうとしている『文明の怪物』たちの名簿だ。……エドによろしくな、ボネット」
一発の銃声が、波音に消えた。
海賊として生き、海賊としての誇りを拗らせた男の、それが彼なりの「ケジメ」だった。
ボネットは漂う文書を回収し、再び戦場へと目を向けた。
文書の中身を盗み見た彼の顔が、驚愕と怒りで歪む。そこには、モーガンやイギリス王室、さらには各国の有力者たちが裏で行っていた、海賊を利用した奴隷貿易と汚職の証拠が網羅されていた。
「これこそが、キッドが命を懸けて守った『毒』か……」
ボネットはマストの頂上へと駆け上がった。
モーガンの旗艦『レヴァイアサン号』が、目の前に迫っている。
「野郎ども、聞け! 敵は我々を『無法者』と呼ぶが、真の法を破っているのは、あの大理石の城に住む連中だ!」
ボネットは掲げた「掟の書」を、空高く突き上げた。
「私たちは自由だ! 誰の命令も受けない! 私たちが従うのは、この海で、私たちが自ら定めた『誇り』だけだ!」
その叫びに応えるように、数千の海賊たちが、バラバラの旗を捨て――。
一斉に、漆黒の布に白骨が踊る「ジョリー・ロジャー」を、マストへと駆け上げた。
水平線の端から端までを埋め尽くす、死神の旗。
黄金時代の終焉を目前にして、海賊たちは初めて、一つの「国家」として歴史に牙を剥いた。
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