第13話:死の算術と裏切り者の教本
海は、鉄と火薬の匂いに支配されていた。
マダガスカルの入り江に展開したイギリス艦隊は、まるで巨大な定規で海面を仕切るかのように、一分の隙もない「三日月型」の陣を敷いていた。それは、カリブの海賊たちが最も嫌う、計算し尽くされた殺戮の構えだった。
「……あいつら、戦ってるんじゃねえ」
『アン女王の復讐号』の舵を握る黒髭が、吐き捨てるように言った。彼の額からは、爆発の熱気による汗が滴っている。
「測量してやがる。俺たちの死ぬ場所を、一ヤード単位でな」
「あれは『セント・ジョージの包囲陣』です」
ボネットは、飛来する砲弾の風圧に身を縮めながらも、水平線を凝視した。かつてロンドンのサロンで、退屈しのぎに読まされた海軍の戦術教本。その挿絵にある「完璧な包囲」が、今、目の前で地獄として具現化している。
「エドワード、右翼の三番艦を見てください。わざと帆を畳んで速度を落としている。あそこに誘い込み、十字砲火で一気に殲滅する気だ。……教本通りなら、次は中央が突っ込んできます」
「教本だと?」
黒髭がギラついた目でボネットを見た。
「そんな小理屈で俺たちの首が飛ぶと思ってんのか」
「いいえ。理屈だからこそ、裏をかけます」
ボネットは震える手で、懐の「掟の書」を取り出した。そこには血と酒で汚れた文字で、海賊たちが生き残るための民主的かつ残酷な合意が記されている。
「彼らの規律は上からの命令だ。だが、私たちの掟は『自らの意思』による契約だ。……鄭一嫂のジャンク船団に伝えてください。秩序を捨て、一度だけ『獣の群れ』になれと」
その時、旗艦『レヴァイアサン号』の甲板から、一人の男が望遠鏡を向けていた。
ヘンリー・モーガン。
かつては黒髭と肩を並べた伝説の海賊であり、今は英国の犬に成り下がった男。彼は冷徹な微笑を浮かべ、部下に命じた。
「無駄な足掻きを。……ティーチ、お前は古い。海はもう、個人の武勇で語れる場所ではないのだよ。これからは組織と資本が世界を統べる」
モーガンの合図と共に、イギリス艦隊のライフル砲が一斉に火を噴いた。
海面が爆辞によって沸騰し、鄭一嫂のジャンク船が一隻、また一隻と沈みゆく。東西の海賊連合は、近代の圧倒的な火力の前に、その誇りごと粉砕されようとしていた。
「ボネット! 俺の背中を頼んだぞ!」
黒髭が、腰の四丁のピストルすべてを抜き放ち、接舷の雄叫びを上げる。
だがその時、一発の榴弾が『復讐号』のメインマストを直撃した。
轟音。
そして、黒髭の巨体が、立ち込める硝煙の中に消えた。
「エドワード!!」
ボネットの悲鳴が、戦火の海に空しく響く。
倒れた黒髭。沈みゆく連合艦隊。そして、迫りくるモーガンの白い軍艦。
絶望的な沈黙の中、ボネットは手にした「掟の書」を見つめた。
破られたページ。失われゆく黄金時代。
彼は悟った。今、この瞬間から、自分が守るべきは自分の命ではなく、海賊たちが築き上げてきた「自由の灯火」そのものであることを。
「……まだ、消す訳にはいかない」
ボネットは、黒髭が落とした燃え盛る松明を拾い上げた。
その瞳から、臆病な貴族の影が消え、一人の「海賊」としての覚悟が宿った。
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