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僕はそっとドアノブに手をかけた。金属の冷たさが指先に伝わり、呼吸がわずかに深くなる。
扉を押し開けた瞬間、カラン──小さな鈴の音が響いた。外の雨音とは違う、やさしく澄んだ音色。
ふっくらとしたブルーポイントバイカラーという毛色の猫クリスティーナはカウベルの音を聞くと同時にそっぽを向いて歩いて行った。
「こんにちは」の声はない。普段なら気になることも、今日に限って言えば、執行猶予を与えられたようで少し安堵した。
耳よりも先に鼻が知らせる。ふわりと漂ってきたのは、シャンプーと木材が混ざった清潔な香り。十坪ほどの小さな店舗。けれど、このわずかな湿気を帯びた木の匂いが、心地よかった。
──そのとき、足元を柔らかな毛並みが横切る。別の一匹の猫が、尻尾をぴんと立て、当然のように彼女を迎えに来たのだ。
うちのお店には猫が3匹いる。先程の優雅なラグドールが次女のクリスティーナ。この子はアメリカンショートヘアー特有の灰色と黒縞に茶色の差し色が入った離珠。もう1匹は...そのうち出てくるだろう。みな女の子だ。
彼女は立ち止まり、息を呑む。さっきまで揺れていた瞳に、かすかな光が宿った“気がした”。
やがて、二階から降りてくる足音が響く。店内にいなかったのは、お風呂の支度をしていたからだろう。お客様の出迎えがないことを一瞬疑ってしまった自分が、少しだけ恥ずかしくなった。
「こんにち……あ、パパか」
少し大きな足音を立てて階段を降りてきたのは、中学一年になる娘の美波だった。うちのサロンでは「いらっしゃいませ」ではなく、時間に関係なく「こんにちは!」が挨拶だ。その声が響くだけで、店内の空気が一段明るくなる。
美波は妻とはもうほとんど変わらない背丈になり、将来は美容師になると決めている。部活や習い事には目もくれず、代わりにサロンの手伝いを欠かさない。小学生の頃からシャンプーやマッサージを一通り身につけていて、常連のお客様たちにもよく知られている存在だった。
そんな彼女が目を丸くして、新しい来訪者に視線を向ける。──濡れた髪、そして場違いなほど目を引くメイド服。
「メイド服っ! 可愛い!」美波の高らかな声に、店内の空気が一瞬はじけるように揺れた。
「お客様? こんにちは〜。あ、髪も服もベタベタですね!」そう言いながら、美波は背伸びして棚からタオルを取り出し、少女に差し出す。
「……あ、ありがと」小さな声で応じる彼女に、美波は満足げに笑った。
「こちらどうぞ〜」軽やかに椅子のパイプを踏み、くるりと彼女の方へ椅子を向ける。その動作はもう一人前のアシスタントで、流れるようにお客様を誘導する娘の姿に、胸の奥がじんわりと熱くなる。──もう、こんなことまでできるようになったのか。
そのとき、彼女の足元にふわりと柔らかな毛並みが触れた。先ほど顔を見せたアメリカンショートヘアーの長女の離珠が、当然のように歩み寄り、彼女の足に身をすり寄せていた。
「……っ」驚いたように彼女はタオルを胸にきゅっと抱え込む。けれど離珠は離れない。丸い琥珀色の瞳でじっと彼女を見上げ、尾をぴんと立てている。まるで「ここにいていい」と告げているように。
美波が椅子を勧めても、彼女は立ち尽くしたままだった。──猫が足元を離さなかったからだ。
店内に、雨音さえ遠のくような静かな間が落ちた。離珠の尾がゆるやかに揺れ、少女の足首をそっと撫でる。彼女は息を呑んだまま動けない。
──そのとき、二階から別の足音が聞こえてきた。姿を現したのは、袖を捲り上げていた妻・撫子だった。
肩よりも長く伸ばした髪はゆるやかに波打ち、明るめの色が階段の灯りを受けてやわらかく揺れる。捲った袖からのぞく腕の白さと、その仕草が生む空気は、いかにも撫子らしいおっとりとした雰囲気だった。
濡れたメイド服の少女を目にしても、眉をひそめることはない。「あら……お客さん? うち、こう見えても猫カフェじゃなくて美容院なのよ〜」くすりと笑いながら、捲り上げていた袖をゆっくり戻す。
その言葉に美波が思わず吹き出す。場の緊張がふっとほどけて、少女の肩も少しだけ下がったように見えた。
撫子は一歩近づき、柔らかく首を傾げる。「よく来てくれたわね。寒かったでしょう? 大丈夫、ここなら温まれるから」
何も言わなくてもある程度察してくれたのか。車の中で色んな言い訳を考えていた事が無駄になったな。悩みのほとんどが考えすぎだと言うことは知っているが撫子の対応に密かに安心を覚えた自分がいた。
「お風呂温めてあるわよ」と撫子が濡れた彼女を二階へ促す。
捨て猫を迎え入れるような声音。おっとりとした調子の中に、芯の強さが混じる。それは誰にでも開かれた優しさであり、この家が“普通じゃない安心感”を持っている理由そのものだった。
その足元で、離珠が小さく鳴いた。まるで「こっちだよ」とでも言うように、しなやかな尻尾を揺らして少女の足元に絡ませる。子猫を案内するかのように、迷いのない足取りで階段へ向かっていった。
「じゃあ、私がお風呂案内するね!」美波が撫子に意味深な笑みを浮かべながら、彼女の手を軽く引っ張る。
少女は一瞬ためらったが、撫子の美波の優しい笑みに背中を押され、タオルを抱きしめたまま、その後を追って二階へと上がっていった。
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