第4話 苺のカラミティ
朝。快晴である。
現在、朝食の最中であったが、この場に父の姿は見当たらない。血の繋がらない母だけが、甲斐甲斐しく私の世話をしている。
いない理由。父は死んだ……わけじゃ無い。どうやら近日中に学会があり、まるで夏休み終わり前日の小学生のように、現在は必死に論文作成中であるのだ。徹夜して、徹夜して、たぶん、今は爆睡している。
なので、今、私の世話を焼いているのは、この女だ。私のための餌を作り、並べ、与えている。焼き立てのトーストとベーコンエッグにサラダ、加えて、昨晩の残りのコンソメスープが目の前にある。
「まゆ、しっかり食べなさい。今日は予報だと少し冷え込むみたいよ」
母は春の柔らかな日差しのような笑みを浮かべて、粘性の赤黒い果実が並々と入った瓶を差し出した。私トーストを食べる時は、馬鹿みたいな量のイチゴジャムを乗せることを、彼女は知っていた。
「わかった」
黙々と乗せ、黙々と食べる。その様をニコニコと観察しながら、自分もカフェインを補給していた。
私はこの母を信頼している。皮肉でも何でもない。尊敬して、慕っていた。
無論、ただ優しいからってだけじゃない。彼女は悪辣な実母の元から私を誘拐(比喩)して、育児実績を積んで、ついには養育権を勝ち取った猛者である。私がここで暮らせているのは、彼女のおかげでもあった。
けれど。
「…………」
けれど、だからこそ深い断絶もある。
私は話してない。助け出したはずの子供が、もう手遅れだったなんて、彼女は知る必要は無いのだ。この先も話すつもりはない。ああ、ついでに父も。
——そう言えば、委員長に似ているな。
いや、逆か。勿論容姿は全然違うが、あの委員長は、何処となく母に似ている。その献身的なまでの瑞々しさと大胆な行動力。そして善意の人であることも。
私が面倒と思いながらも無碍に出来ないのは、なるほど、そういうことか。解決。
そんな余計な贅肉を考えていた所為だろうか。
「あ」
手が滑った。
真っ赤な苺ジャムが、私の膝の上にドボドボと落ちた。元がつけすぎなために起こった悲劇だ。
「むむ」
赤黒い不定形の何かが、スカートの上でプルプルしていた。だんだんと、苺の粒々が無数の目に見えてくる。
そのうち、テケリ・リと鳴きそうな雰囲気だ。
まあ、ただのイチゴのジャムだが。
「あら、大変、拭いて。いえ、すぐ脱いで。予備は、えっと——そういえば昨日、クリーニングに出しちゃったわね。そうだ!いい考えがある」
母の対応は早い。私がパンイチでいあいあしている間に、奥のクローゼットから一本の布を持ってきた。
「今日はこれで行きなさい。スラックスなら、暖かくていいわよ」
実は我が校、女子の制服には、スカート以外にスラックスもある。自由選択式である。一時期止むを得ぬ事情で流行った事があったが、基本、可愛く無いという理由で利用者は少ない。無彩色のグレーのスラックスであるから、思春期の女子に人気なくて当然である。
「うーむ………」
悩む。私個人として、可愛い可愛く無いはどうでも良いが、気になるのはやはり、スカートめくられ係である。めくられる媒体自体が無ければ業務にならない。
もちろん、母は私がそんな「係」を担っていることなど、知る由もないので、スラックスを勧めてきたのだ。
どうしようか。
私は少し黙考して、
「わかった。それでいい」
私はスラックスを受け取った。足を通す。
最近の業務実態は、今や一日一回、あるかどうかってのが実情である。田中君たち他男子の興味や執着は、明らかに薄れていた。一日くらい備品が欠品していても実害は無いだろう。あいつらと目の前の母、私がどちらの言葉を優先するか、これも明らかである。
「行ってらっしゃい」
自分もこれから仕事で忙しいだろうに、わざわざ玄関先まで出向いて手を振った。振り返して登校する。
思い返すと、ジャムのせいだ。
ジャムでジャムった。
————
教室の扉を開けると、空気の密度が変わった。自称モブ子が難しくなってきた今日この頃、空気は空気だが、ある者は避け、ある者は執着する阿片窟の空気である。
最も、最近は自然派生的に換気が進んで、後者の方は浄化されつつある。スカートはお休みである。さて。
委員長の場合。
登校した私を見つけた佐藤さんは駆け寄り、まずは朝の挨拶。当然だけど、すぐに訊いてきた。
「それ、どうしたの?」
身につけているスラックスを指差して言う。
「ん。洗濯中」
隠す必要もないので、そのまま答えた。
「そう………いいんじゃない」
スカートめくられ係は、ある意味、彼女が始めた物語である。怒られるとまでは言わずとも、小言ぐらいは覚悟していたが、反応はさっぱりしたものだった。
「そうよ。いつまでもアイツに付き合ってやる義理なんて、ないんだから、それでいいのよ」
私にというより、自分に言い聞かせているような台詞を吐き出した後、目に見えて、安堵したような、肩の荷を下ろしたような表情の緩め方をした。
半端な女である。公共の平和、自分の正しさの為に、私を閲覧自由な備品にした張本人は、小さな棘のような罪悪感を抱えていたのが、今の態度で透けて見えた。要するに、まだ未熟ってことである。
しかし、これで終わりかな。私を構い倒していたのはやはり罪悪感があったからであって、解消されれば解放される。そんなふうに考えた時期が私にもありました。
「そうだ。数学の宿題、ちゃんとやってきた? あなた、ぼんやりしてたから、いや、いつもぼんやりしてるけど、ちゃんと聞いてなかったんじゃゃない? 内申に響くから、忘れたら大変よ。ほら、見せて」
「むぅ」
それとこれとは別らしい。
田中君他、サル軍団の場合。
「うぃーす」
やつらがやってきた。
「まゆちんは?」
どうやら癖になっているのか、私の姿を探す。で、
「あれ? ズボン?」
「どうして?」
「なんか、あったの?」
当然、そういう疑問が噴出する。
どう答えるべきか、悩んでいると、
「察しなさい」
委員長が割り込んで来て、答えた。
「女の子には、そういう日もあるの。察しなさい」
そんな彼女の言い分に、
「そ、そうか。悪かった」
どうやら何かを察したらしい彼らは、私に理由を追求することなく、謝罪までして引いた。
制服にうっかりジャムを落としてしまう失敗は、何も女の子限定ではないのだが、都合良く解釈してくれたらしい。因みに、私は軽めで期間も短く、傍目からは先ず気付かれないタイプである。
何故か勝ち誇った様子の委員長。対し、身長が半分ぐらいになったように見えるサル軍団。それを見た私は、思わず餌を与えてしまう。
「また今度」
「お、おぅ、また今度な」
ウキっキィと去って行く彼らを見守る私たち。
「前から思ってたけど、まゆ、アイツらに甘くない?」
「そうかな」
そうかもしれない。内なる衝動が詳らかな彼らの振る舞いは、純真無垢な処女にとって、それは忌避感が強いものだろう。しかし、そうではない私にとって、あの程度、微笑ましくさえある。
彼らは何だかんだ言っても、一線引いており、スカートをめくる以上のことに踏み込んで来ない。ママのオトモダチとは違う。だから無視も出来る。ラクチンだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
誰だっけ? ああ、環か。委員長か。彼女が心配そうに私を覗き込んでいた。そういう感じだったのか。
「大丈夫」
答えて、切り離した。
今日の私は、らしくない。余計なことを考える。
このスラックスの所為だろうか。私の下肢に纏わりついている灰色の布は、中の換気を許さず停滞させていて、気持ち悪い。ヌルリとした質感も。
或いは、天気の所為か。肌寒いのに、日差しは強い。高緯度特有とも言えるこの天気が気持ち悪い。
チャイムが鳴った。一日が始まる。
女子たちの場合。
排尿しよう。昼休み、私はトイレに向かった。
恥ずるところはない。この星で生まれたLUCAの子孫なら、当たり前に行われる生命活動である。こうして大気に満ちる酸素も、元を糺せば、シアノばーさんのオナラみたいなものだ。余計なことは考えない。
私は教室からいちばん近い女子トイレに赴き、いちばん遠いところの個室に入った。
「ねえ、見た? つるつるちゃん、今日スラックスだよ」
「見た見た。あの日なのかな?」
「ないない。だって、つるつるちゃんだよ? 毛が生えてないんだから、きっと初潮もまだじゃないかな」
「うぇ~、この年でまだって、キツいね」
「頭おかしいから、体もおかしいのよ」
クラスの女子数名が井戸端ならぬ、洗面台前の会話が聞こえて来た。酷い言われようである。
「つるつるちゃん」とは私に付けられた綽名というか、悪口、陰口だった。事実ではあるんだが、あの時口走ったのは失敗だったかもしれない。彼女たちにわかりやすい記号を与えてしまった。で、その「つるつるちゃん」が個室に入って行ったのを見ていて、敢えての聞かせるための陰口、大したものである。
「じゃ、何でスラックスなの? やっと『人間』に戻る気にでもなったのかな?」
「それだと、今更感すごくない? 散々見せ物になってヘラヘラ喜んでた癖に、今更ガード固くして何様のつもり?って思っちゃう」
「汚いよね。あんな風に平気でいられる神経が信じられない。私なら、あんなことされたら死ぬまで学校来られないよ。中身が腐ってるか、壊れてるかのどっちかよ」
たぶん両方です。
「もしかして、男子トイレに行くための変装………だったりしてね」
「うわーっ、そう言われたら、露出狂のヘンタイだし、あり得そうな気がして来た」
「だったら、今度から『便器ちゃん』だね」
「あはは、それは言い過ぎよ。ね、便器ちゃん?」
そこで会話を止めて、彼女らは去って行った。私はそれから数分待って、個室から出た。
便器ちゃん……か。
懐かしいけど、それはイヤだな。
酷く頭が痛い。
何とか沢君の場合。
頭痛が痛い。されど、次の教室に行かねばならぬ。
この頭痛の正体は、大脳や小脳、脳幹といった場所に巡る血流の何処がジャムったことが原因じゃない。おそらくはバグったからだ。いつもの調子を取り戻せば治る、そういった類いのものである。
ゆっくりと一歩ずつ、前を向いて歩く。上肢は頭部を抑え、下肢は交互に前方開脚を繰り返す。そうしていると、何か見覚えのある霊長類が、私の前に立ち塞がった。えーと、名前は……何とか沢くん。
ああ、このパターンは、スラックスのこと訊かれるな。小粋なファルスを演じたいのは山々だが、ちょっと今は余裕ない。無視でいこう。訊かれたら、全力でコミュ障を発揮して、やり過ごす。だが、
「頭、痛いのか?」
と、言われた。
「ん………まあ、少し。すぐに治る」
「そうか」
会話終わり。それから、
「うへっ?」
変な声が出た。突然、頭をわしゃわしゃして、そのまま何処かに行ってしまった。
やつはいったい、何だったのだろう?
私の下半身についても、何も言わなかった。
何を考えているか、やっぱりさっぱりである。
でも、治ったので、良し。
私の場合。
これで終わっていれば、どんなにか良かっただろう。
私が私と定義する有機物に世界は厳しくて、むしろ恨みでもあるんじゃないかと訝しむ昨今、事件は放課後の掃除の時間に起きた。
一言で申せば、苺である。
それはもう、見事なイチゴパンツだった。
被害者は、ウサギちゃんこと、葛西さん。
加害者は、おサルさんこと、田中君。
そして。
断罪されたのは私。
彼女たちが呼ぶところの、つるつるちゃんである。




