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第九章:『清国使節団、赤坂で未知の世界を体験する』

1854年1月 東京・赤坂の高級料亭


「ふん、東夷の小国が。アメリカの大砲の音に怯えて、身の程知らずな幻術のからくりを並べていると聞いたが……。この大清帝国の全権大使、崇綸すうりんの目を欺けると思うなよ」


赤坂の老舗料亭の一室。狐の毛皮の外套を羽織った崇綸は、長煙管を燻らせながら、上座で尊大に踏んぞり返っていた。


アメリカの艦隊が、東洋の果てでパニックを起こして国を挙げて泥まみれで油田を掘り始めたという不穏な噂。清朝政府はそれを「アメリカ人が日本人の奇妙な詐術に引っかかっただけだ」と冷笑し、確かめるべく使節団を派遣した。しかし、東京湾に入港した瞬間から、崇綸のプライドは削られ続けていた。夜をも昼間に変える大都市の爆光、天を衝くガラスの巨塔群。だが、彼は「小国が見栄を張って作ったハリボテだ」と自分に言い聞かせ、大国としての尊大な態度を維持しようと必死だった。


部屋は、崇綸が体験したことのない「均一な暖かさ」に満ちていた。彼が不機嫌そうに外套を脱ぐと、対面に座る現代日本の交渉団――外務省の全権交渉官と、農林水産省の実務担当官が、息の合った美しい所作で同時に深く、丁寧にお辞儀をした。


「遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます、崇綸閣下」


外務省の交渉官が、洗練された極上の笑みで声をかける。


「まずは長旅の疲れを癒していただくため、我が国の温かい食事をお召し上がりください。黒毛和牛の『すき焼き』でございます。我が国の高度な品質管理技術で、最も美味しい状態を維持した極上品でございます」


彼ら官僚たちは今、責任感と使命感をその背に背負っていた。圧倒的なアドバンテージを握る現代日本が、この先200年以上にわたって世界経済のリーダーとなり、まるで大人が子供を慈しみ育てるように、世界各国と共存共栄しながら地球全体を平和に発展させていく。その崇高な挑戦の第一歩が、いま始まったのだ。


目の前の鉄鍋から、甘辛い醤油と割り下の極上の香りが立ち上る。崇綸は「ふん、肉など我が国の方が美味い」と鼻で笑いながら、箸で牛肉を口に運んだ。


「――っ!!!???」


崇綸の長煙管が、手から滑り落ちて畳を焦がした。口に入れた瞬間、肉が噛む必要もなく、濃厚な脂の旨味を残して溶けて消えたのだ。1854年当時、世界のどこを探しても、肉といえば固くて臭みをスパイスで誤魔化すものが当たり前だった。この一切の臭みがなく、絹のように滑らかな肉の味は、まさに皇帝の宮廷料理すら泥水に思えるほどの衝撃だった。


「こ、これは……いかなる肉だ……。日本は、このような料理を日常的に食しているのか……?」


先ほどまでの尊大な口調が、驚きのあまりわずかに震え始める。


「ええ、我が国ではごく一般的な食事でございます」


外務省の交渉官が、どこまでも礼儀正しく微笑んだ。操作の手順を心得た彼らは、相手への敬意を最大限に表しながら、極めて知的な共同事業の提案書を机に滑らせた。


「さて、崇綸閣下。大清帝国という偉大な豊穣の国と、我が国との間で、栄えある『相互貿易の取引』を始めさせていただきたく存じます。我が国は、あなた方の広大な領土から産出される『リン鉱石』『カリ塩』などの肥料原料、そして『大豆や小麦などの穀物』を、適正な価格で継続的に買い付けさせていただきたいのです」


崇綸はハッと我に返り、脂汗を流した。日本側は焦りを1ミリも表に出さず、どこまでも誠実なビジネスパートナーとして、対等な取引を提案してくる。


「我が国の資源を、か。……しかし、我が国にはそれを長崎まで大量に運ぶような、巨大な鉄の蒸気船などないぞ」


ここで農水省の担当官が、スマートに補足の資料を開いた。


「ご安心ください、閣下。我が国の独自のインフォメーションによれば、大英帝国の極東艦隊がそちらの近海にいるはずです。彼らの優れた航海技術を活かし、あなた方の港から我が国へのピストン輸送(下請け業務)を、我が国から正式に発注いたします。あなた方はただ、港に資源を集めておくだけで結構でございます」


清国の全権大使は絶句した。あの傲慢極まる大英帝国を、確かな契約のもとで輸送の担い手として組み込む段取りを、この国は笑顔のまま整えている。


「我が国の資源を差し出せば……日本は、我々に何をくれるのだ?」


崇綸の語尾から、完全に覇気が消え失せていた。目の前の丁寧な男たちが提示する、あまりにも巨大で平和的なグランドデザインそのものに圧倒されているのだ。


「我が国の高度な技術を用いた、『最新の農業指導』と『高収穫な特製種子』を無償で提供いたします」


外務省の交渉官はどこまでも誠実に、頭を下げながら言った。


「我が国の技術を導入すれば、あなた方の国の飢饉は一瞬で消え去り、米も麦も今の数倍は獲れるようになります。大清帝国の何千万もの民を救う、互いにとって大変豊かな取引かと存じます。……いかがでしょうか? こちらの書面に、お調印を」


170年先の改良種子は、清国にとっても喉から手が出るほど欲しい救世主だった。拒絶すればこの未知の超大国を敵に回す恐怖。しかし契約すれば、国が劇的に豊かになるという莫大な実利。崇綸の尊大なプライドは、あまりにも誠実で完璧な提案の前に、完全にしぼみきっていた。


「……交渉の前に、少々席を外したい。緊張のあまり、腹が……」


「おや、お手洗いですか? では、廊下の奥の個室へどうぞ」


案内された料亭のトイレから戻ってきた崇綸は、もはや魂が抜けたような顔をしていた。温かい便座、ボタン一つでお尻を完璧に洗浄する未知の体験ウォッシュレットに、彼は個室の中で涙目を浮かべて立ち尽くしていたのだ。


「……緒方殿。あの、お尻を洗う椅子だが。あれは我が国の北京の邸宅には持ち帰れぬのか? あそこには、あなた方の国のような『電気』も『水道』もないのだが……」


崇綸は、すがるような目で交渉官たちを見つめた。


「ご安心ください、閣下」


農水省の担当官がにっこりと微笑み、1つの小さなプラスチックの筒を机に置いた。現代日本の災害用お土産の定番、『乾電池式の携帯用ウォッシュレット』である。


「こちらは、電気の通っていない場所でも機能いたします。現地の綺麗な水をこの筒に注ぎ、ボタンを押すだけで、あなた方のお尻をピンポイントで完璧に洗浄いたします。我が国の『特製乾電池』の束を10年分、お土産としてあなた方の船にお積みいたしましょう」


崇綸は震える手でペンを握ると、農水省と外務省が提示した契約書に、流れるような署名を一瞬で書き込んだ。未来人である事実を完璧に隠匿され、しかし提示された莫大な利益と、何より携帯ウォッシュレットの感動に心打たれながら、彼は日本のシーパワー戦略の網に自ら喜んでかかったのだ。


「……ニッポンの皆様。我が国は、喜んであなた方の良き貿易相手になろう。その代わり、その携帯用の洗う道具、私の親族の分も含めて、あと50本ほど譲ってくれぬか……」


この先200年の地球の共存共栄、世界経済を平和に導くリーダーとなるための栄えある第一歩。現代日本のエリート官僚たちが凄まじい使命感を胸に取り組んだその記念すべき巨大条約は、「携帯ウォッシュレット50本」という最高のユーモアと実利に包まれて、完璧に成立したのだった。






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