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第六章:『楽園の提督と、ホワイトハウスのパニック』

1853年7月下旬(新暦) 神奈川県湘南海岸・大磯ロングビーチ


横須賀での公式会談から始まった、およそ1週間に及ぶ近代日本の国内視察を終えた直後のこと。ペリー提督一行は、真夏の太陽が容赦なく降り注ぐ『大磯ロングビーチ』へと案内された。日本政府は彼らのために、オープン直後の巨大施設を丸一日だけ「完全貸切」にするという手配を行ったのだった。


「提督、こちらが我が国の海洋休養施設でございます」


経産省の神崎怜奈が、サングラスの奥から涼しい顔でエスコートする。


一般客が一人もいない広大な敷地に広がっていたのは、19世紀の地球上のどこにも存在しない、近代プールリゾートだった。太陽の光を反射してエメラルドグリーンに輝く水面が、どこまでも平坦に広がっている。


「て、提督……水流が自ら円を描いて動いています! 滝のように高所から落ちるわけでもない、完全に平坦な溝なのに、なぜ水が止まらずに流れ続けているのですか!? 地下に一体どれほど巨大な隠し水車と蒸気機関を仕込めば、これほどの水量を循環させられるというのですか……!」


副官のチェスターが恐怖で引きつった顔でペリーの袖を引いた。原発からの潤沢な電力で回る大型電動ポンプの仕業なのだが、彼らの常識では測りきれない。


「落ち着け、チェスター。取り乱すな」


ペリーは虚勢を張ったが、その視線はプールの向こうにそびえ立つ、天をも突くような巨大遊具の青いウォータースライダーとその背後の10階建てのホテル(大磯プリンスホテル)に釘付けになっていた。


貸切の特権を勧められたペリーは、重厚な軍服を脱ぎ捨て、日本政府から支給された最新の海パンに身を包み、専用の浮き輪に乗って流れるプールにぷかぷかと浮いていた。黒船の石炭の煤煙と真夏の暑さに晒され続けた体には、冷たく清らかな水流があまりにも心地よい。


ふと見上げると、黒船の艦橋より高いあの巨大遊具の青いウォータースライダーの頂上から、同行を許された数名のアメリカ船の乗組員たちが、「ヒッハー!」と声をあげながら凄まじい水しぶきを立てて滑り降りてくるのが見えた。普段は厳格な水兵たちが、子供のように理性を失ってはしゃいでいる。


「ワンダフル……」


プールから上がったペリーの前に、赤い鉄の箱――自動販売機が立っていた。神崎がコインを入れると電子音が鳴り、ボタンがピカピカと光る。「セブンティーンアイス(チョコチップミント味)」がゴトンと静かに落ちてきた。


ペリーは手渡された冷たいアイスを口に運び、その次元の違う冷涼な甘みに脳を揺さぶられた。


その時、プールサイドに同行していた現代日本の水着美女たちが、手にしたスマートフォンをペリーに向けた。


「提督、こっち向いてくださーい! はい、チーズ!」


パシャリ、と軽快な音が響く。その画面には、巨大遊具的の青い筒と10階建てのホテルを背景に、水着美女たちに囲まれてアイスを手に最高のご機嫌な笑みを浮かべる、海パン姿のペリーの姿がしっかりと記録されていた。


横須賀での「消えるペン」と「冷えた缶コーヒー」、東京の圧倒的な威容、そしてこの「楽園の貸切」の体験により、ペリーの19世紀的常識は、跡形もなく粉々に破壊されたのだった。


首相官邸・総理執務室(数日後)「


総理、アメリカ東インド艦隊、すべての出港手続きおよび補給を終え、ただいま横須賀を出港いたしました」


岩崎防衛大臣の報告を受け、柳田晴臣総理大臣(63)は、執務室の壁に設置された大型モニターへ視線を向けた。モニターには、自衛隊のイージス艦が上空のドローンを介して捉えた、リアルタイムの鮮明な映像が映し出されている。


近代的な防波堤を離れ、漆黒の1853年の太平洋へと滑り出していく4隻の黒船。


「……行ったか」


柳田総理は、手元の冷めかけた緑茶をすする。


「無事に本国へ帰ってくれよ。半年以上の長い船旅になるが、アメリカ大統領に、我が国の状況を上手く伝えてくれればいいが」


「神崎たちの『おもてなし』は完璧でしたからね」


岩崎は苦笑交じりに腕を組んだ。


「ペリーの船倉は、日本政府から贈られた『フリクションペン、A4コピー用紙の束、缶コーヒー、抗生物質、災害時用手回し発電付き懐中電灯』で満載です。極めつけは、大磯ロングビーチのあの写真。あれを見せつけられて、なお我が国に大砲を向けようと思う大統領なら、本物の狂人でしょう」


「頼むぞ、ペリー提督。我が国の未来のエネルギーは、君のレポートにかかっているんだ」


柳田は心から願うように、モニターの中で小さくなっていくサスケハナ号を見つめ、深く息を吐き出すのだった。


1854年1月(新暦・転移から約半年後)


 アメリカ合衆国・ホワイトハウス


ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が、お土産の近代物資を船倉に満載して横須賀を出港してから、およそ半年の月日が流れていた。荒れ狂う大海原を蒸気と帆だけで進む黒船艦隊にとって、地球を半周する帰路は半年以上に及ぶ過酷な航海だったが、彼らはついにワシントンのホワイトハウスに辿り着いた。年が明け、時代は1854年1月となっていた。


第13代大統領ミラード・フィルモアは、ペリーから提出された「横須賀・東京の街の景観写真」と「ロングビーチの写真」を前に、冷や汗を流していた。


先に見せられたパンフレットに描かれていた、常識を遥かに超越した巨大な近代建造物の数々。大統領はそれを「ニッポンが我々を脅かすために描いた、絵空事のおとぎ話」だと信じようとしていた。しかし、これらの写真がすべてを打ち砕いた。そこには、1853年の地球には存在しない未知の色彩再現技術によって、「巨大遊具の青い筒と、その背後にそびえ立つ10階建てのホテルが紛れもない現実として存在し、そこに自軍の将軍が確かに立っている姿」が克明に写し出されていたのだ。写真が示す絶望的なまでの文明の格差が、大統領の脳裏に冷たい恐怖を植え付けていた。


軍服の正装に身を包んだペリーは、大統領の前に立ち、冷や汗をかきながら直立不動で言った。


「大統領閣下、私は正気です。ニッポンは、未開の国などではありません。あそこは……我々の想像を遥かに絶する『未知の超大国』です」


ペリーは机の上に置かれた、異様なほど真っ白で滑らかな『A4コピー用紙の束』から一枚を抜き出し、フリクションペンを走らせて文字を書いた。後ろのラバーで擦る。摩擦熱により、黒いインクの文字が煙のように消え去った。


「消え……消えた!?」


大統領はそう言ったきり、しばらくの間、額から脂汗を流しながら沈黙した。横須賀・東京の街の写真、ロングビーチの写真、そして目の前の紙とペン。すべてが「絶対に勝てない文明の差」を示していることを、大統領は静まり返った執務室の中で、骨の髄まで理解させられていた。


さらにペリーは、クランクを回して『災害時用手回し発電付き懐中電灯』のスイッチを入れ、薄暗い執務室を純白のLEDの爆光で容赦なく貫いた。「……彼らは、我々が要求した蒸気船用の石炭など、いくらでも引き渡すと笑っていました。その代わり――彼らは我が国の地面に眠っている『原油』を求めています。ペンシルベニアやテキサスを深く掘れば、黒い油が無限に湧き出ることを、彼らはすべて把握していました。もし、これを拒絶すれば、我が合衆国は大砲を一発も撃ち合うことなく、地図から消し去られるでしょう」


大統領は机の上の写真をもう一度見た。巨大遊具の青い筒と10階建てのホテルの前に立つペリーの笑顔が、今はニッポンの実在を示す恐ろしい証拠に見えた。大統領は冷徹な政治的判断として、陸軍を総動員してペンシルベニアの地面に穴(油田)を掘り、プラントを稼働させる国家命令を下した。


こうして、1854年のアメリカ合衆国は、現代日本の圧倒的な国力と便利すぎる工業製品の前に屈服。日本を喜ばせるために、国を挙げての「大・採掘時代」へと突入していくのだった。

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