第四章:『サスケハナ号の悲劇、あるいは横須賀特設会談所の缶コーヒー』
1853年7月8日(新暦・ペリー来航当日) 東京湾
午前5時、夏の朝の眩しい太陽が照らす浦賀沖に、ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊の4隻の黒船が現れた 。
彼らは大砲の煙で未開の国を脅すつもりだったが、その目論見は現れた巨大な鉄の城――海上自衛隊のイージス艦によって初手から挫かれた。マストも帆もない灰色の巨体に威圧され、拡声器から流れる流暢な英語の指示に従って誘導されるまま、艦隊は東京湾内へと入港し、指定の海域に停泊することを余儀なくされた。
そして、その日の夜。サスケハナ号の甲板に立ったペリー提督は、かつてない激しい動悸に襲われることとなった。
「……あれは、本当に我が国と同じ人類の作った世界なのか?」
望遠鏡を覗くペリーの手が小刻みに震える。1853年の地球の夜は暗黒のはずだった。しかし、湾内から見渡す地平線の彼方一帯は、夜空を黄金色に焼き尽くすほどまばゆい、昼間のような輝きに満ちていた。2027年の横浜や東京の大都市群が放つ、一千万人以上の生活の光。その暴力的なまでの光の壁が真夏の洋上に爆発し、天空にはカラフルな光を放つ細長い塔の先端が刺さっていた。彼らは完全に、自分たちの常識が通用しない未知の超大国に囲まれているのだと、夜の闇の中で思い知らされたのだった。
1853年7月9日(新暦) 横須賀特設桟橋・公式会談所翌朝、
上陸したペリー一行を迎えたのは、仕立てのいいスーツを着た現代日本の交渉団だった。隙間風一つないプレハブの特設会談所に案内され、ペリーと副官はソファーに腰掛けた。部屋に入った瞬間に誰もが驚いた。日本の厳しい盛夏の屋外から一歩入っただけで、部屋の中が信じられないほど涼しいのだ。
「遠路はるばるお越しいただき感謝します、ペリー提督」外務省の交渉官が微笑み、パチリと指を鳴らした。運ばれてきたのは、ガラスのコップに入った、よく冷えた「微糖の缶コーヒー」だった。経産省の神崎怜奈がそれを差し出す。
ペリーは意を決して一口、口に含む。「っ……!?!?!?!?」
濃厚なミルクのコクと、香ばしい苦味、そして絶妙な甘み。それがキンキンに冷えた状態で喉を駆け抜けていく。その圧倒的な美味さに、ペリーの脳裏に衝撃が走った。
「コホン。……では、本題に入ろう」
ペリーは気を取り直し、大統領からの親書を取り出した。
「我が国の蒸気船の運行、および捕鯨船の安全な航海のため、日本国内での『石炭』と水の補給拠点、そして通商を求める――」
「石炭、および水ですね。分かりました。全面的にお認めしましょう」日本の交渉官はあっさりと頷き、メモ用紙を開いた。そして、1本のプラスチック製のペン――フリクションペンを取り出した。男は滑らかに文字を書いたが、「あ、スペルを間違えました」と言うと、ペンの後ろに付いている透明なラバーで文字をごしごしと擦った。
摩擦熱により、黒いインクの文字が、煙のように消え去った。
「ひっ……!?」副官が短い悲鳴を上げて固まった。紙を傷つけず、インクの痕跡すら残さず、文字だけが消滅したのだ。アメリカ側がその技術差に言葉を失って沈黙する中、日本側は静かに本題を切り出した。
「提督、我が国はアメリカが必要とする石炭など、いくらでも提供します。その代わり――我が国は、あなた方の国の地面に眠っている『原油』を求めています。ペンシルベニアやテキサスを深く掘れば、黒い油が無限に湧き出るはずです。我が国の高度な医薬品や、この文字の消える魔法のペンの製造権と引き換えに、アメリカ本国での原油の採掘権と、我が国への定期供給契約を結びませんか?」
ペリーは、手元の冷えた缶コーヒーと、先ほど文字が綺麗に消えた真っ白な紙を交互に見た。
自分たちが誇る最新鋭の黒船をまるで前時代の遺物のように扱い、自分たちすらまだその真の価値に気づいていない「地底の黒い油」の存在をすべて見透かした上で、あくまで対等な共同ビジネスとして優雅に逆提案してきたのだ。
「……その、原油の取引についてだが。我が国が提供できる量を、もう少し詳しく話し合いたい」
神崎の眩しいビジネススマイルの前に、1853年のアメリカ帝国主義は、初日の交渉で完全にへし折られたのだった。




