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第三章:『出島はサッカースタジアムになっておりますが、まぁお茶でもどうぞ』

2026年5月下旬.(転移後5日目) 長崎港外


長崎の海上保安庁、第七管区留置艦艇のレーダーが、港外およそ3マイルの海上に、時速数ノットという「奇妙な低速目標」を捉えたのは、国内のネット空間がまだ動揺に揺れていた転移5日目の朝だった。


「巡視船より港内管制へ。目標を肉眼で確認……。えー、信じられませんが、総マスト、スリーマストの木造帆船です。国籍旗はオランダ。エンジン音は聞こえません。完全に風任せで漂流しています」


巡視船のブリッジでは、海上保安官たちが双眼鏡を覗いたまま固まっていた。ギギギ、と悲鳴を上げるようなマストの音を響かせ、波に揺られているのは、歴史の教科書でしか見たことのない中世のガレオン船そのものだった。船腹には大砲の砲門がずらりと並んでいる。


『こちらは長崎海上保安庁である。貴船の船舶識別信号(AIS)が確認できない。ただちに停船し、無線二チャンネルで応答せよ』


巡視船の巨大な拡声器から放たれた大音量の英語と日本語が、静かな長崎の海に響き渡る。その瞬間、

オランダ帆船の甲板はハチの巣をつついたような騒ぎになった。三角帽子をかぶった青い目の男たちが、「モンスターだ!」「巨大な鉄のクジラが現れた!」と絶叫し、十字を切って右往左往している。


「おい、相手は170年以上前の船だぞ。無線なんか積んでるわけないだろ」急遽、特別アドバイザーとして巡視船に呼び出された長崎大学の歴史学教授、緒方(45)が頭を抱えた。

「彼らはオランダ商館長のヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウスの一行だ。当時の外交交渉なら古典オランダ語かラテン語しか通じない!」


「教授、出番です。拡声器をどうぞ」

保安官からマイクを押し付けられ、緒方は引きつった声で、大学の講義でも使ったことのない古典オランダ語を喉から絞り出した。


「……セーハ、コモ、バーン(そこの船、止まりなさい)。我々は日本の役人である。危害は加えない。誘導に従って入港せよ!」


現代長崎港への入港、あるいは馬のいない馬車


オランダ船長と商館長ドンケル・クルティウスは、極度の恐怖の中で、巡視船に引っ張られるようにして長崎港へと入っていった。彼らが知っている長崎は、長閑な山々に囲まれ、海辺にぽつんと扇形の人工島「出島」が浮かぶ、静かな東洋の港だった。


しかし、湾を曲がった瞬間に彼らが目にしたのは、神の国の光景だった。


「オー、マイ、ゴッド……」

ドンケル・クルティウスは十字架を握りしめ、ガタガタと震え出した。出島があるはずの場所には、二十階建ての巨大なコンクリートの塔が天を突くようにそびえ立ち、その横には、数万人を収容できる最新鋭のサッカースタジアムが、ガラスと鉄の幾何学的な美しさで鎮座している。


港湾には巨大なクレーンがキリンのように首を並べ、背後の山々には、信じられないほどの密度で四角い人工の家々がへばりつき、その間を「馬が引いていない奇妙な鉄の馬車(自動車)」が静かに走り抜けていく。


「出島が……出島が巨大な鉄の城に押し潰されている……! 日本はいつの間に世界を征服したのだ……!」


木造船から降ろされ、長崎港ターミナルの特設会談所に案内される間も、彼らは床のタイルの滑らかさに驚き、自動ドアが開くたびに短い悲鳴を上げた。


余裕のスタンス


案内された会議室で、緒方教授が、冷蔵庫から取り出してきたキンキンに冷えたペットボトルの緑茶を差し出した。透明なプラスチックという未知の物質、そして完璧に密封されたキャップ。ドンケル・クルティウスがそれをひねると「パキッ」と心地よい音がして、中から極上の冷たい茶の香りが漂う。


「美味い……。いや、それどころではない。緒方殿とお呼びすれば良いか? 我々は、江戸の将軍家に『アメリカのペリーという男が、近々黒船を率いて浦賀に現れる』という重大な警告を伝えに来たのだ。だが、この街は一体何なのだ!?」


緒方教授は微笑みながら、流暢なオランダ語で話し始めた。


「ドンケルさん。情報提供は感謝します。ですが、そのペリーの件、我が国はすでに知っています。あと一ヶ月ちょっとで来るんですよね」


「な、なぜそれを……!? オランダの極秘情報だぞ!」


「我が国の情報収集力を侮らないでいただきたい」

緒方は、懐から支給されたタブレット端末を取り出し、画面をタップした。端末内の大容量ストレージには、防衛省から提供された19世紀の地球の資源・地政学データがすべて事前ダウンロードされている。日本側は、自分たちが未来の知識を持っているという機密は1ミリも表に出さず、あくまで「買い取ってあげてもいい」という余裕のスタンスを崩さない。



「ドンケルさん。我が国は、あなた方の領土である中国大陸や東インドのジャワバタヴィアに眠る資源、あるいはバンカ島のスズや希少鉱山から、物資をトレードする形で買い取ってあげてもいいと考えています」


「な……! なぜ我が国の植民地拠点の詳細まで正確に把握しているのだ……!」


「もし、そのルートで資源を我が国へ集めてくれるなら――」緒方は、机の上に1つの小さな黒い物体を置いた。ポータブルのソーラー充電式LEDランタンである。スイッチを入れると、1853年の地球上には存在しない、直視できないほどの純白の爆光が会議室を照らした。


「ヒャッ!?」

オランダ人一同が椅子ごと後ろにとび上がる。


「これを、オランダ王室や総督府への取引材料として差し上げます。油も火も要りません。太陽の光に当てておくだけで、夜の宮殿が昼間になります。これ以上の富があるでしょうか?」


ドンケル・クルティウスは、眩いLEDの光と、目の前の謎の超大国を見つめた。アメリカのペリーなどという男が開国を迫りに来るらしいが、大笑いだ。あのアメリカ人どもは、この未知の帝国の前にひれ伏すことになるのだ。


「わ、分かった……。我がオランダ総督府は、全力を挙げて貴国に資源を運ぶ。だから、その取引条件を詳しく教えてくれ……」


長崎港に静かな潮風が吹く中、現代日本は未来人であることを完全に隠匿したまま、欧州の国を最初の貿易相手として手懐けることに成功したのである。

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