12 阿久津の親の告白
12 阿久津の親の告白
白鳥はネットの書き込みを毎日注意深くチェックしてみたが、最初に「変態教師」と書き込んだ人間の続報はどこにも見当たらなかった。彼は「変態教師」の書き込みは特定の人にあてたものではなく、ただのいたずらだと思うようになってきた。だが、学校の人たちは誰も知らないが、「変態教師」の書き込みがある以前に自分に向けて「あなたの正体をばらします」の書き込みがあったことも事実だ。自分あてにこれを書き込んだ人間がいることは確かだが、この二つを書き込んだ人間が同一犯なのか、それとも別にいるのかは定かではなかった。もしかすると、「正体」と書き込んだ人間もただのはったりをかましたのかもしれない。本当はネットモンスターの「Tレックス」の正体を知らないんだろう。そう思いつつも、7月に入り、変態教師が生徒や教師の間でそれほど話題に上らなくなった頃、白鳥一人だけが一抹の不安を拭いきれない日々を過ごしていた。
生徒の阿久津漣はホームルームが終わった後に教壇まで来て、白鳥に「父から手紙を預かってきました」と言って、彼に白い封筒を渡した。白鳥は爽やかさを崩さないようににっこりと微笑み、その封筒を受け取った。終始無表情の阿久津は頭を少し下げて、席に戻った。白鳥は、廊下でさよならの挨拶をしながらすれ違って行く生徒一人ひとりに丁寧な挨拶を返し、それでもいつもより少し足早になって職員室に戻って、封筒から一枚の便せんを取り出した。万年筆で書かれた達筆な文字があった。
「拝啓 いつも漣がお世話になっております。先生に折り入ってお話したいことがあります。ご多忙の事とは存じますが、お時間を取っていただければ幸いです。拙宅にてお話できないでしょうか。誠に勝手ながら、明日7月5日(金)17時からではいかがでしょうか? もしご都合が悪ければ、漣にその旨お知らせください。よろしくお願いいたします。 敬具」
一応丁寧な文言で書かれていたが、白鳥に有無を言わせない命令口調の文面であることも確かだった。直感的に、この手紙が彼にとって何か不吉な知らせであることが分かった。
阿久津の父親はいったい俺に何の話をしようとしているのだろうか? 漣が父親に俺が変態教師だということを何か吹き込んだのだろうか? やっぱり漣は俺の尻尾を捕まえているのだろうか? それともただ単に漣の成績や日頃の行いについての相談だろうか? もしかすると、漣には何かの障害があるのかもしれない? 体の、それとも心の? 彼のどことない暗さはそこから来ているのかもしれない。そのことの相談だろうか? いや、そんなわけがない。俺自身について何かを掴んでいるんだ。父親が何を知っているかわからないが、明日会ってみるしかないだろう。逃げ出すことはできない。
若菜は、朝から日頃とは打って変わって、落ち着きのない白鳥をそれとなく観察していた。昨日の放課後に、江川から阿久津が親の手紙を白鳥に渡し、それから白鳥の様子が少しおかしくなったという報告を受けていた。さすがに、江川だと思った。自分と同じくらい野次馬根性に溢れているし、観察眼は確かだ。最後に残された変態教師は、もはや白鳥しかいない。変態教師はもっとも意外性のある白鳥かも知れない、と若菜は思った。最後にどんでん返しが待っているかもしれないと、若菜の胸は高鳴った。そこで、江川のカバンに盗聴器をそっと忍ばせた。それから白鳥が阿久津のアパートに向かうのを車で追いかけて、阿久津のアパートの下で車を停め、車の中で彼らの会話を盗聴し始めた。もはや若菜も常人ではなくなっていた。
白鳥は予定の時間を5分遅れて、阿久津のアパートに着いた。父親一人が待っていて、四畳半に通された。
「お忙しいところ、我が家にお越しいただきありがとうございます。漣がいつもお世話になっております」と父親が丁重に頭を下げた。「漣君は口数が少ないですが、しっかりしたお子さまです」ととりあえず子供を褒めた。子供を褒められて嬉しくない親はいない。これが白鳥のさりげない懐柔策だった。
「いえ、先生に今日お越しいただいたのは漣のことではないのです」
やっぱり漣のことではなかった。では、いったい何のことで俺を呼び出したんだ。阿久津の父親とはこれまで面識はなかったはずだし、二人に共通する話題など何もないはずだ。
「先生、いつも『学級通信』を読ませていただいております。子供たちのことが生き生きと書かれていて、夫婦二人して毎回読むのを楽しみにしているんです」
「お読みいただいていますか。それはありがとうございます」
「『学級通信』で先生がお書きになっている文章は、どれも簡潔でリズムがいいので、とても読みやすいです」
「それはどうも」
父親は何が言いたいのだろうか? この話の前段に耐えなければいけない。
「そして、時々、同じ単語を反復して強調なさっていらっしゃる。「寛容、寛容」というように」
「ああ、それは大事なことが子供たちの心の奥深くに届くようにです」
「そうですか・・・。心の奥深くにですか。きっと先生の言葉は生徒のみなさんの心の奥深くに届いていますよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ところで、先生が毎回文末に入れておられる「WhiteSwann」は白鳥先生の英語読みで、しゃれていますね。でも、スワンのスペルはs、w、a、nで、先生のはnが一つ多いんじゃありませんか?」
「ああ、あれですか? Swanにもう一つnを足して名前に特徴を持たせてみたのですけど、子供たちが間違ったスペルを覚えてはいけませんね。今度、きちんと生徒に説明して、これからはnを一つ減らしておきます。ご指摘ありがとうございます」
もしかして、俺を呼んだのはこんなスペルの間違いを指摘することだったのか? まさか、そんなことはないよな。
「不躾なことをお伺いしますが、先生はおいくつになられますか?」
「31歳です」
「16年前に、ネットのハンドルネームをBlackSwannとされていませんでしたか? 黒鳥ですよ。あのBlackSwannのスペルもnが一つ多かったのです」
白鳥は考えた。16年前と言えば、俺が中学3年生の頃だ。そんなハンドルネームを名乗った事があるかもしれないが思い出せない。
「いえ、覚えていませんね。中学生の頃のことでしょう。さすがに思い出せません」
「先生、ちょっと隣の部屋に移動してもらえませんか」
阿久津の父親がふすまを開けた。暗い部屋に巨大な仏壇があり、仏壇に向かって小さな老婆がじっと座っていた。白鳥は一瞬たじろいだ。阿久津の父親が、老婆だと思った女性が漣の母親だと紹介してくれたが、彼女は身じろぎ一つしなかった。言われて彼女を見ると、老婆と言うには若すぎた。阿久津の父親がそうするので、白鳥も同じように母親の後方に二手に分かれて仏壇の方に向かって座った。
阿久津の父親が口を開いた。
「先生、16年前に妻が交通事故を起こしました」
「えっ、それは大変でしたね」
「わき見運転をして、横断歩道を渡っていた小学一年生のお嬢さんをひいてしまったんです」
白鳥は言葉を継ぐことができなかった。
「それからは、私たち夫婦は地獄の日々でした。それは致し方のないことです。どんなに償っても償いきれない罪を犯したのですから」
白鳥は無言だった。
「インターネットに無数の誹謗中傷の書き込みがあり、妻はそれを読んで心が病んでいきました。妻は一日中何度も何度も書き込みをチェックするのです。まるで禁断症状に陥った麻薬の中毒患者のようでした。私が止めるように言っても、憑りつかれたように書き込みをチェックするのです。彼女のことはもちろんのこと、我々夫婦、我々の両親、親戚、友達、知人、そうした人たちの過去についてまで、事実だけでなく好き勝手なデマが書き込まれ、更にそれを材料にして数多の誹謗中傷が重ねられて行きました。それを読むごとに妻は深い闇に落ちていったのです。十年経って、随分回復しました。
誹謗中傷を重ねる人の中で、特にひどかったのがBlackSwannと名乗る人でした。nが一つ多かったのでよく覚えています。「死ね、死ね、死ね」、「地獄、地獄、地獄」と惨い言葉を繰り返し載せていました。妻はBlackSwannの書き込みを極度に恐れながらも、毎回真剣に見ていました」
その時、白鳥はそのBlackSwannが自分だということを思い出し、はっとした。阿久津は白鳥の表情の変化を見逃さなかった。
「先生、思い出していただけましたでしょうか。当時中学3年生の先生がそのBlackSwannだったということを」
白鳥は口を開けなかった。阿久津の母親は微動だにしなかった。それが白鳥には怖かった。できるならば、この場を走って逃げ出したいと思った。
「先生がBlackSwannとして妻を攻撃していた中学生の頃、先生の担任が、BlackSwannというハンドルネームで誹謗中傷を行っている生徒がクラスの中にいることを発見されて、その生徒に書き込みを止めさせたそうです。その先生はわざわざ我が家にいらっしゃって、泣いて謝られました。先生が、未来のある生徒なので名前を出すのはお許しください、と畳に頭をこすり付けてお願いされました。もう二度とあんな書き込みはさせませんと約束されました。以後、確かにBlackSwannの書き込みは止まりました。思い出されたでしょうか?」
白鳥は担任に問い質され、泣いて謝ったことを鮮明に思い出した。
阿久津の母親が白鳥の方を振り向き、白鳥と目が合った。
「あなたがBlackSwannさんだったのですか。私は毎日あなたからの罵詈雑言を読んで、私がひき殺したお嬢さんに謝る日々を過ごしていました。それでもBlackSwannさんが許してくれるということはありませんでした。当然です。私は人殺しなのですから。いくら懺悔しても、許されることはないのです」
白鳥は彼女の顔を見て、涙が溢れ出てきた。
「すみません。すみません。あんな酷い書き込みをして。許していただかなければならないのは、私の方です」
「もう、十年以上の前のことです」と彼女が言った。
白鳥の涙はとまらなかった。白鳥はどうして涙が溢れているのかわからなかった。阿久津の父が再び口を開いた。
「妻が絶望の淵で苦しんでいる時に、我々のところにカルト教団の人たちが接近してきて、親切に色々と我々の話を聞いてくれました。そして我々は救いを求めるように教団に入信し、祈るよう壺を買い、掛軸を買い、仏壇を買いました。我々は誰に言われなくとも、この教団がペテンであることくらいとっくの昔に気づいています。しかし、このカルト教団以外にすがるものを知りませんでした。
仏壇の中には一つの位牌もないのです。ただ、空っぽの仏壇に向かって、お嬢さんがあの世で安らかに眠られるようにひたすら祈ってきたのです。先生、この仏壇に向かって手を合わせていただけませんでしょうか」
白鳥は仏壇に手を合わせた。両隣で二人も手を合わせていた。それまで暗くて見えなかったが、仏壇には女の子の顔写真の載った古い新聞の切り抜きが上っていた。白鳥はこの子が交通事故で死んだ女の子であることがわかったが、写真をじっと見ることはできなかった。白鳥は当時何の事実も知ることなしに、匿名で勝手な書き込みをしていたことを恥じた。新聞記事の写真は日に焼けて変色し、女の子の顔がわからなくなっていた。
「先生、どうしていまでもネットに誹謗中傷の書き込みをしているのですか?」
白鳥はかんねんしていた。阿久津の父が彼の正体を知って書き込みをした人間だということは明らかだった。父親は話を続けた。
「『学級通信』から、先生が当時のBlackSwannであると推測し、失礼ですが先生のことを色々と調べさせていただきました。すると、深夜にネットカフェに行って誹謗中傷の書き込みをされているネットモンスターの「Tレックス」であることがわかりました。ショックでした。書き込みを止めてもらうために、私が先生に脅しの書き込みを送ったのです。どうして今でもあんな酷い書き込みをしているのですか? 先生のような心無い書き込みが、妻のような悲惨な人間をたくさん生むことになっているんです。それはまるで平穏な生活を送っている市民に向けられた、名も知らない飛行士による絨毯爆撃のようなものです」
白鳥は口を開かなかった。なぜひどい書き込みをしているのかと問われれば、楽しいからだという答えしか見つからない。そして阿久津の母親のような被害者のひどい姿を想像できるイマジネーションが完全に欠如していたからだ。目の前の阿久津の母親を前にして、何一つ言い訳はできない。眼前に突き付けられた事実への完膚なきまでの敗北である。
白鳥は畳に頭を擦りつけて謝った。
「金輪際ネットに書き込みは致しません。誓います。これまで漣君たち生徒たちを騙していました。私こそが変態教師です。私は生徒たちみんなの前で謝って、学校を辞めます」
「待ってください。学校で評判になっている変態教師の書き込みをしたのは私ではありませんし、先生に学校を辞めていただきたいとも思っていません。そうだよな」
父親は母親に同意を求めた。
「先生にやめていただきたいとはこれぽっちも思っていません。漣も先生を慕っております。無口な漣がたまに白鳥先生のことを嬉しそうに話すことがあるんです。他の先生の話をすることはこれまでありませんでした」
「でも、私は阿久津さんと同じようにたくさんの人たちを苦しめてきました。その償いをしなくては」
「教師を続けて行って、教師を通して償っていただければいいのではないでしょうか?」
「私に教師を続ける資格があるのでしょうか?」
「教師は聖職ではありませんから。我々もこれを機会にカルト教団を脱退することができます。これから漣に我々の本当の笑顔を見せてやることができます」
阿久津夫婦は不器用な笑い顔をし、つられて白鳥も涙と鼻水でべたべたになった顔で笑顔を作った。
「これでやっとこのばかでかい仏壇ともおさらばです」
晴れ晴れと阿久津の父親が言った。




