10 女子生徒江川さくらの事情
10 女子生徒江川さくらの事情
江川さくらはどこにでもいる女子中学生である。天真爛漫で、授業が終わると毎回のように白鳥に質問をした。だが、特段勉強ができるわけでもなく、成績はいたって普通である。彼女は誰とでも屈託なく話をし、誰からも好かれているようだったが、それかと言って、親友と呼ぶような親しい友達がいるわけでもなかった。
今の江川からは少しもうかがい知れることはできないだろうが、彼女は過酷な幼少時を過ごした。実の母親は二人の子供を部屋に置いて一日中遊びまわっていた。弟は3歳の時、母から暴力を振るわれて死んだ。当然のごとく母は世間から猛烈な批判を浴び、逮捕されて今は刑務所に服役している。当時5歳の江川は他県に住んでいた叔母夫婦に引き取られ、そこで小学校に入学した。彼女の過去を知っているのは叔母夫婦くらいだ。
なにがきっかけかわからないが、江川は死ぬまでに人生をプラスマイナスゼロにしようと考え、健気にも明るく振る舞って生きてきた。
だって、ほんの少しでも自分の暗い心をこの世界に残して置きたくないじゃない。良い事して明るい心になればプラス、嫌なことがあって暗い心になればマイナスよ。では、現在プラスマイナスで足し引きするとどのくらいになるかって? ちょっと待ってね、手帳を見るから。きちんと手帳につけてんだ。マイナス9,978。弟が死んだことの暗い心が1万点もあるのよ。そこからスタートだったからね。それを帳消しにするのは、嫌になるほど長い時間がかかるわね。小学校5年生の時に、手帳を付け始めたんだけど、この4年間で22点しか返せてないのよ。もっと頑張っていいことをしなくっちゃあ。
弟のことをそこまで背負わなくたっていいんじゃないかって? そうかも知れないけど、考えてしまうんだよね。弟の死んだ顔を思い出すかって? 思い出さないよ。忘れちゃった。ごめんね。覚えているのは、ぐだっと横たわっていた姿ね。小便ちびっていたよ。私が引きずって布団の上に寝かせたんだ。でもどうしたわけか顔は思い出せない。殴られて思い出してはいけない悲惨な顔をしていたのかもしれないわね。それとも私を恨んで怖い顔をしていたのかもね。
弟が死んだ時のことを覚えているかって? お母さんは、弟が死んで動かくなってから、いつもようにパチンコ屋行って、アパートに帰ってこなかったの。数日経って警察の人がたくさんアパートに来たけど、お母さんは部屋にはいなかったの。どこかでお母さんは捕まったそうなんだけど、どこで捕まったかしらないわ。弟が死んだ日から今日まで母に会ったことはないわ。私は警察が来た日に養護施設に預けられたの。それからすぐに叔母さんと叔父さんが迎えに来てくれたわ。
良い思い出を作らないとね。弟の死を忘れることができるくらいにね。弟を殺したのは母であって、5歳の私にはどうしようもなかったのはわかっているんだけどね。でも、一緒に住んでいたものね。姉弟っていったい何だろうね。今は叔母さんと叔父さんのことをママとパパと呼んでいるわ。実の母と混同しないように、ママって呼ばされたんじゃないかな。決して嫌じゃないわ。二人ともとても良い人よ。私のことを実の娘として育ててくれているの。二人に子供はいなかったから。一緒に住んでても、誰も昔の事に触れないんだ。
何と言ったって、子殺しだからね。私たち家族で完結している話だからね。こんな負債を親から引き受けたくないよね。本当は人生プラスマイナスゼロではなく、小数点以下00000000000000000000000000000000000000000000000000、もっと0が続いていいから、その先にぽつんと1があって、トータルでプラスで死にたいよね。この1があの世への希望の1になると思っているんだよね。きっと。
なんでこんなことに拘っているんだろうね。クラスのみんなはこんなことを考えているんだろうか? いや、考えていなくったって、同級生の顔を見れば、この人たちは何の努力をしなくったって、みんな死ぬ時は万分の1でも絶対にプラスで死ねることが保証されていると思うんだ。本人たちは無意識にそう確信しているよ。私だけそう思えないのかもしれないね。僻み根性かしら。不幸に育つと僻み根性が大きいのかもね。あっ、マイナス1点だ。
良いことをして幸せな気持ちにならなくっちゃあね。あんなことで無残に死んでしまった弟に申し訳ないでしょう。そりゃあ、弟が生きていたって、弟は多分しょうもない人生を歩んでいたと思うわよ。あんな母親から生まれたんだもの。ゴロツキ、恐喝、覚せい剤、半ぐれ、やくざ、ヒモ、そして喧嘩をして刺されて死ぬのがおちよね。でも、そんなつまらない人生でも少しでも味あわせてやりたかったな。こうして生きて空気を吸っているだけで素晴らしいじゃない。弟にも15歳の空気を吸わせてやりたかったじゃない。少なくとも私はそう思っているのよ。
誰にも言ってこなかったけど、本当は私が死んでもよかったんだから。あの日、お母さんが殴っていたのは私なの。私が哀願するような目で母を見つめたから、母の狂気は弟に向かっていったんだよ、きっと。弟は幼くて哀願する目つきを知らなかったんだよね。弟は恐怖で泣くことしかできなかったんだよ。それが母親の癇に障ったのね。泣くのが止むまで殴ったり蹴ったりが続いたんだから。私が泣いてあげれば、母親の狂気は私に向かって弟は死なずにすんだかも知れないのよ。
私が善行を積もうとしているのは、弟の供養のためもあるけど、本当は自分の心の平安を求めているだけなのかもしれないわね。偽善者かな? それじゃあ、マイナスいっぱいじゃん。救われないね。
みんなと同じように高校に行って、大学に行って、就職して、結婚して、子供を産むの。私に結婚はできるかしら。子供を産むことはできるかしら。子供を育てることはできるかしら。子供を産んできちんと育てられたら弟が死んだことによる負債はすべて返せるって思っているの。こんなこと普通のことでしょう。普通でいいのよ。普通の幸せで。でも私、不器用でしょう。それに母の血が入っているし・・・・・。
いつか仏の道、仏門に入るかもしれないわね。多分、口先だけよ。やっぱり頭なんか剃りたくないものね。いつか、大きな家に住んで、大きな仏壇を買うんだ。そして毎日家で祈るのよ。
実の父親はどうしたかって? 父親はいないんだ。母親は不特定多数の男と関係を持っていたから、誰が父親かわからなかったのよ。母は気の弱い男を騙して私の父親にしたてようと思ったらしいけど、その男の両親の猛烈な反対にあったんだって。そりゃあそうよね。鼻ピアスをして襟元から刺青が見れるような女に子供が育てられる訳がないものね。一目瞭然よ。いつも男を連れ込んでいたわ。もちろん弟の父親は私とは違うわよ。弟の父親も誰かわからないんだから。母は避妊の仕方を知らなかったのかしらね。中学生の私だって知っているのに。いや、勘違いしないでよ、これでも私はバージンなんだから。母親がだらしがなかった分だけ、私はセックスには慎重なの。早くセックスするとマイナスが増えそうだと思うのよ。遅いほどプラスね。別に意味なんかないわ。母親は反面教師よ。ああ、辛気臭い。どうしてこんな暗い話になったわけ。同情なんかいらないからね。色眼鏡で見ないでね。私は不幸を売り物にしたくないの。そんなものを売り物にしたらマイナスがどんどん増えて行くわ。忘れて頂戴。ただの世迷言よ。私のような事情を抱えている女なんてきっとそこらじゅうに掃いて捨てる程いるわよ。ああ、女って言い方は良くなかったわね。マイナスが一つ増えました。やっぱり女の子と言わなくっちゃあね。
プラスとマイナスを毎日手帳につけているのよ。プラスとマイナスの項目もあって、それぞれ点数も違うんだから。毎日プラスになるようにしているの。だって、マイナスからの人生でしょ。いくら毎日プラスを積み上げても負債はなかなか返せないわ。それじゃあ、プラスの点数で高いのは何かって? 人が死にそうになっているのを助けることに決まっているじゃない。川で溺れている人を飛び込んで助けることよ。火事の中で苦しんいる人を飛び込んで助けるのよ。それじゃあ、私も死んでしまうだろうって? そうね、死んでしまうかもしれないわね。でも、それくらいしないと、一万ものマイナス点は帳消しにならないわ。その日のために、毎日体力をつけるために運動しているし、スイミングスクールにも通ってんだから。まだ、目の前に溺れたり火事で死にそうな人に出くわしたことはないわ。残念ね。あら、こんなことを言ったら不謹慎ね。また一つマイナスが増えちゃった。正直に手帳につけておかないと。誤魔化したら何をしているかわからないものね。口には気をつけなくちゃあね。
私18歳になったら定期的に献血に行くわ。骨髄バンクにも登録するし、必要な人がいたら片方の腎臓も上げちゃうわ。一日も早く負債を返したいの。借金のある人生なんていやなのよ。でも、高額の借金を一発で返すなんてばくちみたいなものよね。日々こんなことを考えていると心がさもしいんじゃないかと思えてマイナスが増えて行くと思うの。やっぱり堅実に借金を返していくことが最良の方法よね。堅実さこそが善人のすることでしょう。
実の母は今どこにいるんでしょう? ずっと刑務所にいると思い込んでいたけど、十年経ったから、もしかすると仮出所したかもしれないわね。もしかしたら模範囚だったりして。お笑い草ね。出所しても、もう私の前に現れないで欲しいわね。人生再び狂っちゃいそうで。
弟のお墓はないのよ。ママやパパの家のお墓もないようだから、弟の小さなお骨は今は押入れの中のどこかにあるんじゃないかしら。私、お骨には執着がないの。大事なのは心でしょう。
白鳥は江川の質問に対して優しく答えてくれる。真の教員の姿がここに現れていて、周りに自分の良き教師ぶりを見ていてくれている人間がいないかと、顔を上げて周囲を見回すことがある。もし見ている人がいたら、その人の目には間違いなく最善の教育者に映ったことだろう。
白鳥は江川から阿久津に好意を持っているけれど、どうしたらいいかと相談を受けたことがある。どこに阿久津の魅力があるのかと訊いたら、優しいところと答えた。阿久津のどこに優しさを感じるのかと聞くと、阿久津は少し頬を赤らめて「全部」と言った。白鳥は子供達との断絶を感じた。
白鳥には隠していたが、江川が阿久津を好きな理由は、むかし阿久津の家に大きな仏壇があるという噂を聞いたことがあるからだ。小学校に入学した頃、線香のにおいがするといって阿久津は同級生からからかわれていたが、江川も同じように線香のにおいがするといってからかわれていた。その時期、ママとパパと一緒に、弟のお骨の前で毎日線香を焚いて祈っていたからだ。からかわれてからしばらくして、お骨はどこかにしまわれ、線香を焚いて祈ることはなくなった。
阿久津の家に仏壇があるということは、その前で毎日手を合わせているということだろう。手を合わせている彼の姿を想像すると、阿久津が素晴らしく優しい人に思えた。それに家に大きな仏壇があるくらいだから、当然大きなお墓もあるのだろう。阿久津と結婚すれば、仏壇や墓を買う必要はない。仏壇の中に弟の位牌を入れよう。まだ、位牌はないので、結婚したら作ろう。阿久津と並んで毎日仏壇の前で手を合わせることができる。そんな他愛ない夢を江川は描いていた。
白鳥は何かのきっかけで、生徒たちとカラオケに行ったことがある。江川はAdoの『うっせぇわ』を激しく体を揺らして絶叫し、居合わせたみんなを唖然とさせた。いつも底抜けに明るく振舞っている江川にも心のどこかに深い闇を潜ませていることがわかって、白鳥には嬉しく感じられた。
江川は白鳥に色目を使って近寄っている若葉のことが気になっている。
多分、若葉先生は白鳥先生が好きなんだ。あんな好色な女に白鳥先生を取られてたまるか。そもそも白鳥先生は誰にでも優し過ぎる。嫌いならば嫌いとはっきりと意思表示すればいいのに。甘やかしたらのぼせあがるんだから。意外と若葉先生みたいなぶりっ子然とした教師が、変態教師なのかもしれない。付き合っている男がいっぱいいるのかもしれない。私のお母さんと同類の人間なのかもしれないわ。
こんなことを考えている時、江川の頭にはマイナスのことは浮かんでこなかった。




