天啓
その日から、オズはドロシーのことを幸せにするのだと、そう誓ったのだ。
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「なんと、小汚い女だ! 伯爵の帽子を落とすなんて!」
強烈な痛みに体が縮こまる。けれど、顔だけは上げていた。
視線が絡む。鞭で叩かれるたびに舌が縺れる。
さっきまで感じていたはずの目の奥の痛みを、幻視して動けなくなる。
弱い自分自身が痛みに負けそうなっている。
燃え盛る炎を、頭を砕いた石の感触を、貫かれた体の痛みを思い出す。
痛みを反復させて、嫌なことを増長させる。
大丈夫、大丈夫。
拳を握りしめて痛みを振り切る。
帽子が落ちている。そういえば。悴む指を動かすように蠢く。
ここから、ドロシーの全てが変わった。
全ての苦痛はここから始まった。だから、変えるのはここからだ。
見上げると、溶けた黄金のような髪が見えた。
彼がいない世界でいたぶり殺されていたことを思い出した。
老僧に殺された、生々しい骨が砕ける音がよみがえる。
何度も繰り返す地獄。痛みばかりの生。そうだと分かっているのに、戻ってきた。
我ながら、賭けのようなものだった。
ジルはいつもここにいるわけではなかった。側にいてもドロシーを助けることもしないことも多い。
いつも終わってから、顔を覗き込んでくる。
貴族の戯れだと、最初は思っていた。
けれど、今は違うとわかる。ジルはドロシーのことを覗き込んで、確かめていたのだ。
ジルが望むドロシーであるかどうかを。
蒼い瞳がドロシーを射抜いた。
ドロシーは覚悟を決めた。
オズ……。
心のなかで、名前を呼ぶ。今のドロシーは彼から好かれていたドロシーのままだろうか。
もういない、オズの姿を追おうとしてやめた。感傷は今は必要ない。
「ジル」
名前を呼ぶと、大きく目が見開かれる。
ゆっくりとした喋り方を意識した。そうすることでしか、神聖さを出す方法を知らない。
「……天啓を、聞きました」
喜ぶと思ったのに、ジルは絶望したような顔をしていた。
聖女にと言っていたとは思えない。
あんなに執着していたものにドロシーがなるというのがおかしいのだろうか。
「――ドロシー?」
「はい」
「本当に、ドロシーなのか」
「それは貴方が一番よく分かっているのでは?」
「……天使の声をきいた?」
怪しんでいるのだろうか。
あれほど熱望していた聖女だというのに、ジルの表情は曇ったままだ。
揺らぐ瞳に苛立ちが灯った。
オズが死んだ時は嬉々として聖女になれと言っていたのに、ドロシーがいざ覚悟を決めた途端、これだ。
不愉快で、最低な男。
綺麗で、美しいのに、……いやだからこそ、心の底から嫌いだった。
それでも、この男でなくてはいけないのだ。
ドロシーはゆっくりと頷いた。鞭を入れるロズウェルが動きを止める。ドロシーとジルの間を視線が行き来した。
「……この無作法者は伯爵のお知り合いですかな」
老僧の問いかけを無視して、ジルはドロシーに手を伸ばした。真っ白な手袋だ。ドロシーは一度躊躇した。
これから始める全てのことを、この真っ白な手袋が叶えてくれるだろうか。
いいや。ドロシーは首を振った。
叶えてくれる、ではない。利用して叶えるのだ。
幸せな手紙。オズの顔。もう手に入らないだろう初恋が、勇気を与えてくれた。
絶望も与えた恋なのに、なんだかおかしかった。
「ジル、私を聖女にしてくれますか」
手を取った。瞳が細まる。小さな呻き声のようなものをあげて、ジルがドロシーを引っ張り上げる。
「俺の聖女」
抱きしめられたとき、とてもいい匂いがした。
高貴な人間から漂う高潔な香り。
貴人というのは匂いから違うのだ。そう思っていた。けれど、匂いなんてもう気にする必要もない。
ドロシーにはジルが必要だ。彼を、利用する。
彼をドロシーのものにする。
そのために、自分を殺して戻ってきたのだ。
魔王を殺した聖女様は今のドロシーを見てどう思うだろうか。
聖女の生まれ変わりだなんて馬鹿げたことを演じようとしているのを。
……滑稽だと笑われるだろうか。憐れまれるだろうか。
ドロシーは聖女じゃない。
けれど、聖女になりきるのだと、誓ったのだ。
価値のある人になりきる。価値もないドロシーが。
でも、しょうがない。
だって誰もドロシーのことなんて必要じゃないのだから。
孤児で、知恵もなくて、整った容姿があるわけじゃない。諦め癖があるドロシーなんて、誰も好きになんてなってくれない。
自分を変えるんだ。誰からも求められる聖女になる。
誰かが必要としてくれる自分にならないと、大切なことは一つも守れない。
天使の声をきいたのだ。
思い込むために目を閉じる。
聖女になるのだ。
もう、後戻りはできなかった。




