あの日のこと(死因:出血死)
「何を、言っているの」
「聖女になれば、君は孤児ではなくなる。もっと偉大なものにーー神の寵児になるんだ」
「狂っているの……?」
血の気が引いていく。頭を支配していた怒りがぞっとするほどひいていった。
正気の言葉とはとても思えない。
ドロシーが神の寵児となるとはどういうことなのか。
ドロシーは呪われているはずなのに。
「そうすればもう君は魔女などと呼ばれない。ねえ、ドロシー。それこそが正しく、天国に迎えられる方法なんだ」
「天国? なんの、話を」
「俺や君がモナーク神から許されるにはそれしかない。どうか、俺と一緒に救国をなそう。そうすれば、きっとこの業を取り払い、正しく君が評価されるはずなんだ」
「やめ」
「魔王を倒し、再び聖女となる。一度成したことを、再び成すだけだ。必ず出来る。どうか、また手伝わせてくれないだろうか、俺の聖女。俺は君のためならば今度こそ、何でもしよう」
もう聞きたくもなかった。首を掴む。動脈を圧迫すると、ジルは笑いながらドロシーの頬を撫でた。
「頭が、おかしくなる」
「ああ、でも、それでは納得できない? ならば君に殺されるのも、たまにはいいか。ほら、力が足りないよ。もっと力を込めなくては俺は死なない」
「やめて、もうやめて下さい」
「きちんと握って。俺を殺したいのだろう?」
「もう、これ以上、私の頭をおかしくしないで……」
力が抜ける。もう何もかも放り投げてしまいたい。
ジルは未来と言った。
未来だって!
ドロシーにはもうない。オズが死んでしまった。シャイロックもいない。聖女になるなんて、酔っ払いの戯言以下の言葉だ。
なれるはずもない。
「私は、聖女ではないんです」
「聖女だ」
「違う。人違いなんです。許して下さい。もう、何も……何も考えたくない」
どれだけ似ていれば聖女だと言われるのか。孤児の自分と聖女。
何の関連もないものを結びつけ、強いられる。
恐怖以外の言葉はなかった。怖いのはこの目の前の男だ。
天国に迎えられる?
聖職者達は皆、天国に行くと決まっている。
けれど、ドロシーのような人間は善行を積み、神を疑うことなく信仰を捧げなくてはならない。
神を呪ったドロシーにはもやは空疎な妄言にしか聞こえない。
そもそも、神だってドロシーが嫌いだろう。
そうでなければ、こんな地獄を味合わせることはない。
「君は俺を殺せないのか。優しいから。ねえ、ドロシー。君が考える必要はないよ。……俺が導いてあげる」
「……導く?」
「そうだ。君は俺の言うとおりにすればいい」
転がった帽子が泥に汚れている。ずぶ濡れになったドロシーとジルは見つめ合った。
青い瞳がキラキラと星のように輝いている。
狂人の煌めきだと分かっているのに魅せられた。
頭を空っぽにして言われたとおりに動く。頭が溶けていくような快感だった。もう悩む必要はない。
誰が犯人だとか、オズがなぜ死んだのかとか、小難しいことを考えなくて済む。
そもそも、オズはもう死んでしまったのだ。
この世界のどこにもいない。墓の下に埋まって、声も聞こえない。
馬鹿馬鹿しい悪夢から覚めて、ドロシーとして生きていけばいいじゃないか。
ジルが言うには憧れていた聖女にもなれるらしい。
あの、聖女様。
――聖女様になりたい!
小さい頃の願いが今、ジルの手を取れば叶うのだ。心を殺して、身を任せればいい。
そうすれば何もかも解決する。
そうだ。そうすればいい。ドロシーのことを好きと言ったオズもいないのだから。
「告白、告白の手紙なんだよ! 本当、本当にばか。僕の純情をもて遊んで楽しい!?」
「僕が王都から戻ってきたら、結婚してくれって書いてある」
「絶対に戻ってくる。だから、僕を待っていて欲しい。絶対、ここに帰ってくるから」
「僕と、結婚してよ」
なのに、どうしてだろう。思い浮かぶのは告白の返事をしたときの、オズの目元にいっぱい皺を作って泣きそうになりながら、笑った姿だった。
瞳の下にいっぱいキスをしてくれたオズの姿だった。
涙が溢れる。
あのとき、幸せだった。
あれは恋だった。
何度も諦めようとするのに、あの幸せがずっとこびりついて離れない。
あのとき、ドロシーの夢は聖女になることではなくなった。叶いっこない諦めていた夢。
それが変わった。
オズが叶えてくれるパン屋になりたかった。
大嫌いな自分。
一つだっていいところが思い浮かばない。
独りよがりで、羨んでばかりで、夢だってない。
無価値で、どうしようもない捨て子。
親にだって嫌われた。
誰も愛してくれるはずのないドロシーを、オズは好きだと言ってくれた。
結婚をして欲しいと願われた。
「この世の素晴らしいものを、煌びやかで神聖なものを捧げる。俺の聖女。ただ、この手を取って」
幸せはあの場所に置いてきた。
たとえ、もうどこにもドロシーを好きになってくれたオズがいなくても、ドロシーは忘れられない。
あの幸せは、ドロシーが貰ったたった一つの愛だった。
この世の素晴らしいもの。
ジルはそういうけれど、きっと与えられない。
だって、ドロシーが欲しいのはオズからもらうとっておき。
特別な愛だったから。
オズ。
ドロシーはオズからの愛がいい。
「……分かりました」
「ああ、この手を取ってくれるんだね」
ドロシーは伸ばされた手を振り払った。この手じゃない。
この手では、遅いのだ。導く。なんて、傲慢な言葉だろう。
でも、この男はそう言った。
ドロシーのために、聖女にするために、この手を取れという。
この世の素晴らしいものを、煌びやかで神聖なものを捧げてくれるという。
――オズを、助けるんだ。
真っ赤な傘がある。ドロシーにとっては雨を退けるものではなかった。
勢いをつけて転がる傘の先端に目玉を突き刺した。
痛みに呻きながら、柄を持って深く、深く突き刺す。喉の奥がひりつく。
死にそうなほど痛かった。
片目で捉えたジルは唖然としていた。
雨に濡れる様子は高貴な貴族とは思えないほど荒んでいた。笑顔を浮かべる。
唖然とした顔がとても愉快だった。
「ドロシー!」
名前を呼ばれる。意識が曖昧になっていく。トドメのひと突き。
痛みに耐えながら、大きく息を吸い込んだ。
眼窩を突き破る。その先には脳があり……ドロシーは息絶えた。
◾️◾️◾️
誰もが治せぬと言った。
オズには信じられなかった。ドロシー、ただ一人だけ罹ったその病は、流行り病ゆえ、特効薬もないのだという。
咳の音だけがする。息の詰まるような時間だけが流れる。
オズ……か細い声が名前を呼んだ。慌てて駆け寄ると、みんなのご飯をと、ドロシーはこぼした。
お腹を空かせているから。何か作ってあげて。
オズはたまらなくなって目線を下げる。
そんなこと、どうでもいい。熱があるんだよ。
手を握った。離れないで。死なないで。
ずっと隣で生きてきた。働き者で、弱音ひとつ吐かないドロシー。
子供達を家族だと思っていて、自分の薬代を子供達のご飯にしてしまう女の子。
――死なないで。ドロシーが死ぬならば、僕も死んでやる。
頭のなかに熱がたまるような、苦しさが支配する。
どうしてドロシーが死ななくちゃならないの。
どうして。
オズは傷だらけのドロシーの手をそっと握る。熱くて、オズの冷たい手のひらを気持ちいいと言っている。
薬があれば。
……いや、特効薬はないのだ。
でも、本当に?
金持ち達も、そう?
貴人達の子供が孤児と同じように病気に罹っても誰もが見ないふりをする?
オズの心に疑心が生まれる。
金持ちどもは傲慢で、特権を貪っている。
錬金術師になりたかった。小さい頃から。
ならなくてはいけなかった。
けれど、確かな生まれでないと、錬金術師にはなれぬという。
身なりの確かな清らなものだけなれる。
まさに聖職者のようだ。
親の愛を知る子供。聖職者には、愛されたものしかなれない。
修道女達が囁き合っているのを聞いたことがある。
あの子、修道女になりたいんですって。
アハハ、孤児が、なにを。
本当に、馬鹿げてる。
囁き声は棘のよう。孤児を嘲笑う性根が醜い。
ドロシーがあの声を聞いて、どれほど傷付いただろう。
捨てられた、ただそれだけなのに。
愛を知っていたから、なんだと。
親に愛されているから、偉いのか。
モナークは慈悲なき神だとそのとき悟った。
出自だけがモノを言う。そんな世間の不条理をオズは大嫌いだった。
「ドロシー……」
それでも嫌っていても何も変わらない。ドロシーは今、命の灯火が消えかかっていた。助けられるのはオズだけだ。
目を閉じ、息を整える。先生に言われていた。
お前は錬金術師になるべきだ。
そうでなければ、その偉業はーー許されない。
吐息にのせて、力を込める。
魔力を増幅させる誓言はいらない。誓いを立てずとも、力の出し方ならばわかっている。
体を巡る力に意志を持たせる。
――ああ、ドロシー。
黄金が手の中に転がる。オズはゆっくりと瞬きをした。
物心がついた頃、オズは黄金を産む能力があることに気がついた。
綺麗に光る石だと最初思っていたそれは、巨万の富を産む金石だった。
何も知らず、市場で売ろうとしたオズはどこの屋敷で盗みを働いたのだと屋根に逆さ吊りにされた。
手酷い折檻のあと、出会ったのが先生――オリバーだった。
「先生……」
そう言って泣き出した大人を、オズは驚きながら受け入れた。
先生。
オリバーにとっての師とは一人しかいない。彼が罹った不治の病を治した神。
ケンタウロスもどき、彼は自分のことをそう評した。事実、それは事実だった。
世界樹から生まれ落ちた魔物。ケンタウロス。森の賢者が人間の女を陵辱して産まれた存在。
ケンタウロスにもなれず、人間にもなれず、業病に燃やされ、死を待つばかり。
そんな彼を、医者が救った。
魔王、オズマ。それが救い主の名前なのだと。
彼は、オズがオズマとそっくりなのだと告げた。顔の形、目の色、髪の色まで同じだと。
「オズマ先生も、黄金を生み出すことができた。先生の作り上げた壮大な城を今でも思い出せる。お前はいずれ、黄金の城を築くだろうね」
そして、殺されるのだ。
オズは目が覚めるような思いでそれをきいた。盗んだと思われるのならばまだ良かった。真実、オズが大きくなり、身なりを整えればいいと思っていたからだ。足りないのは時間だけ。
聡明な彼はそう結論付けようとしていた。
けれど、違うのか。
「黄金の魔王、オズマ。教会はその名前を今でも異端審問官達に伝えている。いずれ復活する王を、滅ぼすのだと、固く決意をしている。黄金を生み出すなど、どんな錬金術師も到達できぬ偉業である。だから、すぐに気付かれる」
「じゃあ、僕はずっと貧乏なまま?」
貴族が孤児を嫌う。寄付金はなく、大人達は素知らぬ顔で粥を差し出す。
腹が減っていた。いつも。
本には病気に罹らない麦の育て方の話が載っていて、それを買おうとしたこともあったけれど、その種を買うにも金がいる。
金がない。その一点だけが問題だった。
「魔王オズマは富んでいたのに?」
「……方法はある。錬金術師になればいい。彼らの永遠のテーマ。真理の追求のなかに、黄金の錬成がある」
「そんなの、僕には息を吐くように簡単だ」
「だからこそ、貴方は殺されぬように、賢く立ち回らなくてはならない」
「錬金術師になればそれが叶う?」
「命は狙われはするだろう。けれど、高名な錬金術師となれば殺すことも容易くはない。だが、容易ではないよ。錬金術師になるためには理不尽にも屈さぬことも求められる。それでも、私が庇護することはできる。魔王として、殺されたい?」
そうやって、説得され、オズはオリバーの弟子となった。力を隠し、認められるために錬金術師の勉強に励んだ。知識欲は旺盛な方だったので、オズは水をえた魚のように楽しかった。
……だが。
手の中の黄金を握り締める。
これでドロシーの薬を買う。
イヤ。オズは目を瞑り、息を吐き出す。
オズは自分の中に、自分自身でドロシーを治したいと思う気持ちがあることに気が付いていた。治したい。助けたい。
オズこそが治すことができる唯一でありたい。
治らないなら死にたい?
自分が治せないなら、死にたいの間違いだろう。
ドロドロとした感情を押し留める。
今更、薬の開発を始めてもドロシーに効くものを見つけられるかどうか。そんな一か八かを選択したくなかった。
死ぬという選択肢は当たり前にそこにある。
ドロシーが死ぬのならばオズも死ぬ。それは決まりきった覚悟だった。
この黄金でオズマではないかと疑われ、殺されかけたとしても構わなかった。
数年間の全てを捨ててもいいほど狂っていた。
ドロシーを失うことがどうしても認められなかった。
金を売り、金を作った。
西の街にいる裏路地の男。
人には言えぬようなことを売り買いしている男に、顔を隠して近寄った。男はオズのことを知っていて、オリバーのところから盗んできたのかと笑った。
金など孤児には作り出せぬと本気で思っているのだ。
オズは笑って、金塊を金に変えた。変えた金で薬を買う。流行り病の特効薬。
金のない奴らが身銭を叩いてこぞって手に入れる眉唾物を、オズも同じように手に入れた。
一つだって、きちんとしたものはない。迷信、嘘。金があっても、手に入るのは偽物ばかり。
オズはたまらず、情報を買うようになった。ドロシーを助けるための時間はあまり残されていなかった。
結局、本物が手に入ったのは散々偽物を買ったあと。
街の薬師が憐れに思って声をかけてきたからだった。
魔法使い。
そう言われるような男だった。薬師とはそういうものがつく仕事で、だから街の人々は遠巻きに彼と接していた。
「高名な薬師様からいただいたものだ」
「高名な……薬師?」
そんな奴ら、ごまんといた。
その全てが、偽物だった。
馬鹿げてる。オズは手を振った。もう、うんざりだった。
「もう、騙されるのはこりごりだ。もう時間がないんだよ。ドロシーが死んでしまう!」
「そういう人間に、人は容易く付け入る。医神オズマは、それを許さなかった。医師は必ず評価を受け、詐欺師まがいのものはことごとく命を絶った。今、詐欺師をしているのは薬師ばかりだ。お前が頼るべきは医者だった」
手に握らされた薬はオズが縋って裏切られてきたものと同じ形をしていた。
どうせ、また。
声が出せずに喉がつまる。
裏切られるのはもう。
いっそのこと、ドロシーとこのまま死んでしまおうか。絶望が、希望をおかして思考が偏っていく。
「汗を拭いて、息がしやすいように枕をあげてやれ。安静にさせるように」
男はオズと目線をあわせて、そう言った。
硬く、それなのによく通る声だった。
「おい、金……」
「子供から取るほど、困っていない。下さった方が言っていらっしゃった。生きるというのは容易く、生かすというのはとても難しい。……あまり、金を見せびらかすな。品がないし、悪きものを呼ぶ」
頭をひと撫でされて、男は立ち去った。オズは逡巡しながらーードロシーに薬を飲ませた。
疑心が心を支配し、眠れない夜を過ごした。
――その夜明け。
ドロシーはかすかに起き上がり、喘鳴をこぼしながらオズに笑いかけた。
「オズ、ありがとう。世話を、焼いてくれて」
はやく元気になるね。
頬はこけ、眼窩は落ち窪んでいる。喉が腫れているからと、食事もままならなかったのに、少しだけ顔色が戻っていた。
「うつるかもしれなかったのに。本当に、ありがとう」
そんなこと、どうでもいいよ。
抱きしめて、そういうと驚いていた。
ドロシー。名前を呼ぶ。眠いのか、目蓋が閉じていく。
ゆっくり、ゆっくり。うたた寝でもするように。
オズはドロシーの寝息を聞きながら、横になった。
金なんていくらあってもダメだ。必要なのは正しいものに触れる機会を得ること。そうでなければ、また偽物を掴まされて、大切なときに破滅する。
目を閉じる。オリバーにバレたら大目玉を食うだけでは済まないだろう。
けれど、それでもよかった。
大切なのは、ドロシーが生きていることだ。
ねえ、ドロシー。
起きたら、ご飯をつくるから。今だけは、隣で眠らせてね。
寝息を聞きながら、体がとけるような眠気に襲われる。
夢は見た。誰かに喧嘩を売る夢。
一世一代の決意。使命。
言えなかった、答え。
けれど、どんな夢かは思い出せなかった。




