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私立獣耳学園  作者: 御門屋運命
第04話「華咲け、獣耳学園」
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二十五時限目『後ろに立つ少女……』

 ~ 二十五時限目『後ろに立つ少女……』 ~


 その日はとても晴れた日で、三月上旬と言うこともあってかまだ空気が冷たい感じがしたが、もう冬は終り春が近い事を感じさせるに十分な朝であった。

 各々様々な思いはあれど、今日は何となく良い事がありそうな気分で学園へ登校していた。



 私立獣耳学園、13クラス。

「退院早々後期末試験なんて、一体どういう拷問だよ……」

 机に突っ伏しながらそう死んだ目でぼやく犬人ケン。

「大体入院してた生徒と毎日学園に通っていた生徒との学力の差を考慮してないと思わねぇか?」

「入院中に勉強する時間は幾らでもあっただろ。それに学園に通っていたとしても学力が付くとは限らない。大切なのは個人個人の努力だ。まぁ、経過ではなく結果が大事って事だな。それに今日で試験も終わりだ。愚痴を言う暇があったら単語の一つでも覚えとけ」

「……お前さ。何でそうもスラスラ正論を述べられるんだ?」

「それが正論だからだろ」

 とは言え、一般男子生徒にはそうそうできない所業である。

「違うだろ。そりゃ出来るやつの言葉だ」

 そう反論するケン。

 ご尤もな反論である。

「こちとら入院期間中バイト出来なかったせいで金銭面で辛いってのに勉強なんてやってられるかよ」

「学生の本分は学業にある。バイトを行うあまり学業を疎かにしては意味がないからバイトが禁止されているんだ」

 学校等の教育機関が学生のバイトを禁じる理由は一般的にハヤトが述べた通りである。

「暗黙の了解で許可されているとはいえ、禁止されている事をやっていると口にするのは止めた方がいいぞ」

「ご忠告痛み入ります生徒会長様」

 そう皮肉を返すケン。

「兎に角試験は今日までだ。これを乗り切れば終業式まで休み」

 私立と言う事もあってか、獣耳学園では基本的に試験の前後に休みが設けている。

 前期末試験では試験前と後に休日があったため休みと言う枠は設けられなかったが、今回は事前に前後二日間の所謂試験休みが用意されていた。

 二学期末の冬期休暇と同じように、新設校と言うこともあり先生方の各方面への書類作りも難航しており、生徒達には終業式の日まで試験休みが続く形となったのだ。

「俺も少しはゆっくりできる」

「ゆっくりつったって、次の休みには新入生の体験入学があるんだろ?」

「ああ」

 次の休みと言っても後三日後の話だ。

「休んでいる暇なんて無いんじゃないのか?」

「いや、関係各所には手続きの書類やスケジュール表をすでに渡している。流石に、試験を挟んで作業を持ち越す程の余裕はない……と言うか肉体面で結構ギリギリでな」

 珍しく、弱音を吐くハヤト。

「何だ? 寝不足か?」

「生徒会発足の書類作成に体験入学の準備、新入生歓迎のイベントの企画に来年度の学園のスケジュール決め、睡眠時間を多少削ってここまで色々やり繰りしてきたが……流石にそろそろ限界だ」

 確かに、傍目からでは分かり辛いがハヤトの表情には何時もは無い疲労の色が見え隠れしていた。

「本音を言うと、ケンの姿がすこしぼやけて見えている」

「……おい、それ大丈夫か?」

 それは流石に洒落にならんだろうと、ハヤトを見るケン。

「大丈夫、試験が終わるまでは持たせる。そしたら生徒会室でちょっと仮眠でも取るさ」

 それは自宅に帰る余裕が無いと言っているも同然だった。

「ったく、試験終わったら栄養ドリンクの一本でも買ってきてやるよ」

 ある程度の睡眠欲は仮眠によって紛らわせる事が出来るかもしれないが、肉体の疲れまでもが完全に取れるわけではない。

 そういう場合の疲労回復には物理面と精神面からのサポートが必要であるとケンは考えている。

 つまり家に帰って腹一杯飯食って良く寝ろと言う事だ。

 そこ至るまでに必要なエネルギーとして栄養ドリンクを買ってきてやるとケンは言っているのだった。

「ああ、サンキュー」

 それは有難いと先に礼を言っておくハヤト。

 そんな13クラス男性陣が話す一方で

「むぅ、どう見ますかキユさん」

「ふむ、退院してからのケンの態度の軟化具合は驚くべきものがありますねミアさん」

 そんな会話を交わすミアとキユ。

「いやいや、男同士の友情の深まりを感じますな」

「何かあったとしか考えられませんが、はてさて何があったのやら」

 何時もの井戸端会議を繰り広げるミアとキユだったが、それもだんだん飽きてきたのか

「ねぇ、コゥちゃん的にはあれはどうなの? オッケーな訳?」

 そう、コゥに話を振るミア。

「そうね。別にいいんじゃない」

「ほほぅ、このままケンが親友と言う枠を超えてハヤトとくっついちゃったりなんかしちゃったり……」

 ミアお得意の追いたて話術でコゥの出方を見ようとするが

「それは無いわ」

 にこやかに、ミアの言葉を完全否定するコゥ。

「む……」

 その態度を見てミアの表情が一変する。

「何やら確信めいたものを感じたけど、コゥちゃんもしかして……」

「さぁ、どうかしら?」

 再び、にこやかに質問に対して疑問形で返すコゥ。

「あー、こりゃミアちゃんの負けだね」

「くっ、何やらコゥちゃんが凄くレベルアップしてるよ」

 以前であればもう少し食いついて行けたはずだが、今のコゥはミアの上を行っていた。

「ってかミアちゃんは悪あがきしないの?」

 教科書片手にそう問うキユ。

 先の会話中もキユは教科書を見ながら行っていた。

「私は大丈夫だよ。前回悪い点取っちゃったから今回はしっかり勉強してきたんだ」

「あれで悪い点って言われたら私の立場無いんだけどなぁ……」

 ミアの答えを聞いて肩を落とすキユ。

 残念ながら、キユの学力はそれ程高いとは言えない。

 ……いや、それは言葉があまりにも悪い。

 13クラスにおいて、キユの学力は高い方とは言えないと訂正しておこう。

 それは13クラスに学年トップクラスの学力の持ち主が三人も居るのが原因だった。

「前期末はハヤト君が普通の点しか取らなかったけど……」

 前期末試験はそのお陰でキユはなんとかクラス内で三位の成績を収める事が出来た。

「後期は良い点取るって言ってたもんなぁ」

 それは後期末試験初日の事だった。

 ミアが「今回もわざと普通の点取るの?」とハヤトに聞いたところ「いや、今回は満点を目指してみる」と答えたのだ。

 何でも生徒の頂点に立つべき者が悪い点では示しがつかないとの理由だそうだが、それで学年の順位を変動させられてはたまったものではない。

 以前にも述べたとおり、獣耳学園は学力面で厳しい一面を持つ。

 良い成績を収めた者にはそれなりの報酬があり、悪い点を収めた者には補修と言う罰が待っている。

 いや、それでも最悪のケースである退学や留年を考えればまだマシな方である。

 兎にも角にも、ハヤト、ミア、コゥと違って普通の成績しか叩きだせないキユにとっては試験前のこの時間は最後の学習のチャンスなのである。

「てか、試験前に勉強してるようじゃダメって感じがするけどね」

「……ケンじゃないけどこう言う切羽詰まってるときに正論言われると何かむかつくよミアちゃん」

 然もあらん。

 だが、反論したところで悪あがきの時間が減るだけなのは明白であるため、ここは我慢である。

 そうこうしているうちに

 キーンコーンカーンコーン。

 試験開始前の予鈴が学園に鳴り響き、後期末試験の最後の一日が始まるのであった。



 試験後。

「あー、次はもう少し前から勉強しとくようにするぜ。俺は」

 机に突っ伏しながらそう述べるケン。

「珍しく同意見です」

 同じく、机に突っ伏しながら同意するキユ。

「そう言う事言う人って次の時には忘れてるってパターンが多いと思うんだけど?」

 そう、二人の台詞にツッコミを入れるコゥ。

「うん……」

 そのツッコミに賛同するミユ。

 どうやら姉の言動に思い当たる所があるらしい。

「ミユちゃんはあんまり成績に拘らないんだ?」

 そんなミユの反応を見たミアがそう質問を投げかける

 ちなみにミユの成績もキユと同程度である。

「私は、とりあえず卒業出来たら良いと思ってるから……」

 キユとミユの成績に対する意気込みの差は進路の差であるとしか言いようがない。

 キユは卒業後大学へと進学するつもりなのだ。

 ジャーナリストと言えどもそれなりの肩書きは必要である。

 そのため、少しでも良い成績を収めておこうと考えているのだ。

 対して、ミユは卒業後調理師専門学校への進学を希望していた。

 自他共に認める彼女の取り得である料理の腕を少しでも上げるためである。

 その後の進路はまだ決めていないが、料理に携わる職を希望している。

 そんな訳で二人の成績に対する意識の差はあるのだが

「双子だからって頭の中まで同じレベルで統一されなくても良いと思わない?」

 結果は先に述べた通りである。

 二人の間に大した成績の差は無かった。

「これじゃ勉強でストレス貯めてる私の方が損してる気分なんだけど……」

 キユがそう愚痴を言うと

「んん? でも、勉強してミユちゃんと同じ成績って事は、普通にしてたらキユちゃんってミユちゃんより成績悪いんじゃ……」

 ミアが今までの話から推測を述べる。

「うーわ、何か今日のミアちゃんむかつくんですけど」

「本当の事言われたからってそりゃないよ」

 相当ご立腹と言うか、ご機嫌斜めであるようだ。

 普段のキユであればこの程度の事では気にしないだろうにとミアは余計なことを言わぬよう口を閉ざす。

「ま、泣いても笑ってももう試験は終わったんだし」

 見かねたのか、フォローを入れるコゥ。

「まぁ、それはそうだけどね……」

 同意見ではあるが一度下がったテンションはなかなか上がらないらしく、キユはまだ不満顔である。

「よし、ここはいっちょパーっと打ち上げにでも行きますか?」

 そう声を上げるミア。

 もはや13クラス定番の打ち上げではあるのだが

「あー、ごめん」

 申し訳なさそうにその申し出を断るキユ。

「私この後部活あるの」

 どうやらその辺りもテンションの低さに関係しているらしい。

 普段であれば部活も苦ではないのだが、試験直後に部活は流石に無いだろうと言った感じだ。

「あ、私も今日は……」

 キユと同じように、申し訳なさそうな表情で申し出を断るミユ。

「今度の休みに新入生の体験入学があるでしょ。それのリハーサルをやるの」

「私もそれ関連、パンフ作るの頼まれちゃってさ」

「ありゃ、不参加続発?」

 そう言う事ならば仕方がないと思う反面、現状で参加者が居ない事となる。

「コゥちゃんやケンは?」

「悪いがバイトだ」

 先に述べていた通り入院やらなんやらで生活資金が足りないらしく、今月はバイト漬けであるらしい。

「ごめんなさい。私も今日は用事があって……」

 どうやらコゥも不参加であるらしい。

「むむ、ハヤトは……って」

 ハヤトの方を振り向き、参加不参加の意思を聞こうとするが

「……ん」

 何かに気づいたように、皆の方を向くハヤト。

「何だ?」

 明らかに、朝より顔色が悪くなっているのが解る状態だった。

 どうやら今も意識が半分飛んでいたらしい。

 ハヤトにしては非常に珍しい状態である。

「ミア、今日は諦めろ」

「そうだね」

 流石に今の状態のハヤトを連れまわすのは人道的に問題があるだろうと、泣く泣く諦めるミアであった。

 そんな訳で、珍しくその日はそれにて解散と言う形となったのであった。



 科学室。

 放課後はもっぱら新聞部の部室として使われる場所である。

 その科学室にてせっせとパンフレット用の書類を作り上げる新聞部員達。

 ある程度の作業は試験前に済ませておいたためか、原本を作り上げるのにそれ程の時間は掛からなかった。

 トントンッ……

 最後の一枚を完成させ、出来上がった原本を皆でチェックする。

「よし、後は刷って製本にかかるだけだな」

 小柄な鼠人の少年が声を上げる。

 少年と言ってもここに居る以上は同学年なのだが、やはりどう見ても皆より若く見えてしまうのは基本的に小柄な体格である鼠人の宿命であろう。

「っと、その前に一息入れようか」

 試験後、しかも昼食の時間と言う事もあり、皆の空腹はピークに達していた。

「一時ぐらいにまた集合しよう。印刷は俺がしとくよ」

 彼が部長である理由は行動派や実力以外にもそう言った気配りが要因となっていた。

「さて……」

 そんな訳で、昼食を取るべく部室を後にしたキユであったが

「(学食は閉まってるし……どうしよっかな)」

 試験中は基本的に学園内の売店や学食は開いていなかった。

「(そう言えば料理部が体験入学のリハやるって言ってたっけ、行けば何かあるかな? ……いや、でもそれは流石に厚かましいか。仕方がない。コンビニにでも行って適当に何か買って……ん?)」

 そう結論を出しかけた時、ふと、ある人物が視界に入った。

「ん、よぉ」

 ケンである。

「あれ? バイト行ったんじゃなかったっけ?」

 午前中の会話で確かにケンはバイトだと言っていた。

「ああ、ちょっと時間あったんで飯食ってきたんだ」

 ケンのその言葉を聞き、キユは再び頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。

 それはそうだろう。

 バイトがあり、学園の外に食事に出たのなら、何故戻ってきたのか疑問に思う。

「いや、バイトはあるんだが、あいつに栄養ドリンクと飯買ってきてやったんだ」

 そう言って、コンビニの買い物を見せるケン。

 経緯としては、ハヤトを生徒会室まで連れて行き「お前は寝てろ」と言った後に買い物に出たのは良いが、買ってすぐ戻ったのではハヤトは眠りたてであろう。寝てすぐの奴を起こすのも可哀想だと言う事で、食事をして時間を潰していたのだとケンは説明する。

「んー、それってどうよ?」

「時間の有効活用って言ってくれ」

「違うと思うなぁ」

 ともあれ、ハヤトの体調を気遣っていると言う点ではケンの配慮は全面否定できない。

「まぁ、あれから一時間経ってるし、そろそろ起こしても大丈夫だろ」

 とりあえず動けるぐらいには睡眠も取れているはずだとケンは言う。

「早く家に連れてってあげなよ」

 流石に試験直後のハヤトの姿は見るに堪えないものがあった。

「解ってるって……」

 そう答え、生徒会室に向かおうとするケンだったが

 プルルルル、プルルルル……

 突如、そんな電子音が鳴り響く。

「ん?」

 どうやらケンの携帯電話が鳴っているらしい。

 ピッ

 携帯電話を取り出し、通話ボタンを押すケン。

「はい? あ、店長、どうしたんですか? はい。……え? 今から入れないかって? ええ、別に構いませんよ」

 電話越しとは言え、礼儀正しいケンの受け答えが新鮮だったのか、その電話の姿をキユが見ていると

「何時に店に行けば……え、今すぐって今すぐですか? はい、ああ、そうですか。……えっと」

 ケンは手に持っている買い物袋を一目見て、続いてキユと目が合う。

「……解りました。すぐに行きます」

 この時点で、キユは次にケンが何を頼んでくるのかが解ってしまった。

 ピッ

 携帯電話の通話を切り、キユの方を向くケン。

「あー、悪い。頼みがあるんだけどよ」

「はいはい。ハヤト君に渡せばいいんでしょ」

 先の電話から急用が入った事は明確だ。

 しかも一刻を争うような。

 ならば、その場の人材を有効に活用したいと考えるのは当然のことである。

「すまん。言い訳はまた今度するから」

「はいはい」

 どうやら本当に急ぎの用であるらしく、ケンはキユに買い物袋を手渡すと猛ダッシュで走り去ってしまう。

「やれやれ」

 そんなケンの後ろ姿を見送り、少し苦笑する。

 キユとていい加減ケンの性格が解ってきている。

 彼が人に頼み事をする時は決まって何か事が起こった時だけである。

 先の電話ではその内容までは解らないが、何かしら店でトラブルがあったのだろう。

 その辺りを頼む理由として口にしないのが実に彼らしい。

「さて……」

 食事に行くつもりだったが用事が出来てしまった。

 ちょっとした頼まれ事を済ます。

 そんなつもりで生徒会室に向かうキユだったが、その考えが余りにも甘い考えであった事をキユは後々後悔する事となる。



 生徒会室。

 ある程度、事前情報から予測は出来ていたが、生徒会室に入って見たのは珍しい光景だった。

「(……寝てる)」

 椅子に背を預け、頭を少し下に向け目を閉じて眠るハヤト。

 ハヤトが学園で眠っている姿を見る事になるのはこれが二回目だ。

 一度目は秋が始まろうとした時期の頃。

 色々と忘れられない出来事の連発であった秋だが、あの出来事が全ての発端だった事は間違いないだろう。

「(調子悪そうだったけど……)」

 机を迂回するように横から回りこむキユ。

 正面から行くとあの日の惨劇が再び繰り返されてしまう恐れがあったからだ。

 横から、ハヤトの顔色を伺う。

 特に問題は無いように見えた。

 寧ろ試験直後から考えれば良くなっているように見える。

「(……とりあえず緊急を要する状況ではないか)」

 前科ありのハヤトである。

 眠っているように見えて「実は危篤な状態でした」では笑い話にもならない。

 とりあえず騒ぎ立てるような状況でない事が解ってホッとするキユ。

「(……さて、これからどうしたものか)」

 手に持っている買い物袋を見る。

 起こすのはおそらく簡単だが、ハヤトの寝起きの悪さは折り紙つきである。

 栄養ドリンクを机の上に置いて立ち去る事も可能ではあるのだが

「(……それにしても)」

 ハヤトの寝顔を見るキユ。

「(ほんと、寝てる時は無防備なんだ。この人)」

 以前もそうだったが、今の状態のハヤトに何かしてもおそらく起きないであろうと言うぐらいの眠り具合である。

「(普段警戒強い人がこうも無防備だと……)」

 少し悪戯心が芽生えてしまう。

 この姿を写真にとって学園の女生徒に売れば良い小遣いになりそうだ。

 特に、クラスメートの猫人などは喜んで買いそうである。

「(いやいや、でもそれは人としてどうよ……)」

 そこで、自制心が働いたのかそう思いとどまるキユ。

 だが

「(本当に起きない……のかな?)」

 ほんの僅かな悪戯心だ。

 その時は、本当にハヤトが起きないのかを確かめるだけだったはずだった。

「……ハヤト君?」

 耳元で小さくそう囁いてみる。

「……」

 反応なし。

「……おーい」

 ツンツン

 続いて腕を少し突いてみる。

「……」

 反応なし。

「起きろー」

 ペチペチ

 今度は軽く頬を叩いてみる。

 普通であればここまですればよっぽどでない限り起きるはずだが

「……」

 反応なしである。

「(うっわー、本当に起きないよこの人)」

 改めて、ハヤトの眠りが深い事が確認された。

「(ほんと、珍しいよねぇ)」

 同時に、こんな状態のハヤトがどれだけ珍しいかを再認識する。

 そんな時

「……」

 ふと、寝顔が目に止まった。

 普段、警戒心が強く、心を人に開かず、こちらが何を言っても平然とやり過ごす。

 そんな男の無垢な寝顔。

 少し、言い換えれば……好きな人の寝顔である。

 トクン……

 心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。

「(えっ……と、はは、何考えてるかな私は……)」

 無防備な彼がそこに居る。

 おそらく、何をしても目覚めないだろう。

 そう、今なら彼に気づかれる事なく何だって出来る。

「(いやいや、それじゃまるで……)」

 彼女みたいではないか。

 そう、考えた瞬間。

「っ……」

 キユの脳裏にこの前見たハヤトとミアの姿がフラッシュバックされる。

 あの時感じた嫌な感覚。

 その正体が今になって解った。

 キユはミアに恨みや憎しみを抱いた事はない。

 彼女は良き友人でありクラスメートだ。

 あの時だって、別段彼女に対して負の感情を抱いてはいなかった。

 あの時感じたあの嫌な感覚。

 それは焦りだ。

 自分だけが取り残される感覚。

 同じ速度で進んでいたはずなのに、何時の間にか追い抜かされ、追い越されていた。

 そんな絶望的な気分。

 それがあの時感じた感覚の正体。

「(私は……)」

 無防備な彼がそこに居る。

 おそらく、何をしても目覚めないだろう。

 何かに突き動かされるようにキユはハヤトの近くへ歩んでいく。

「(こんな事……)」

 心で自制をかける。

 が、感情と言うのは心で自制がかけれるほど甘いものではない。

 ギシッ……

 椅子の肘立てに手を置き少し体を預けると、小さく音が鳴った。

 ここで彼が起きてくれれば、踏みとどまる事も出来ただろう。

 だが、その程度で彼は起きてくれない。

 気づけば、彼の顔が目前まで迫っていた。

 トクントクン……

 心臓の鼓動が早まる。

 落ち着け。

 そう何度も言い聞かせるが、鼓動は高鳴るばかりだ。

「(……ちょっとだけ、ちょっとだけだから……)」

 息を呑む。

 緊張と、興奮と、期待と、不安と。

 色々な感情が頭の中を駆け抜け、麻痺させる。

 そして

「(だから、……いいよね)」

 小さく息を止め

 スッ……

 彼の唇に触れる。

「……」

 それだけの行為だ。

 何てことは無い。

 傍から見ればあまりにも簡単に、あまりにもすんなりとその行為に至れたように見えただろう。

 だと言うのに、その胸の高鳴りは止まる事がなかった。

 心が震える。

 たまらなく心が震え、何だか泣きたくなってきた。

 僅かに数秒。

 その数秒がとても長く感じられた。

 いや、感じていたのだ。

 その間ずっと、彼の温もりを。

 その確かな温もりを感じ、この時がずっと続いて欲しいと思った瞬間。



 カタン……



 音が聞えた。

 後ろから、扉が動く音だ。

 誰か居る。

 扉は、……確か開けたままだったような気がする。

 誰かが扉の所に居る。

 ゾクッ……

 その事実に背筋が凍った。

 自分がやった行為を、自分がしていた行為を、見られた。

 さっきまであんなに高鳴っていた心臓が止まり、血の気が一気に引いてしまったかのように汗が吹き出す。

 開かれた扉から床に伸びる影が見える。

 誰かが、そこに、確実に、居る。

 誰だ。

 誰であろうとこの事態が好転しないのは解かっている。

 でも、ただ一人、どうしてもその人であって欲しくない人物が居た。

 確認しなければならない。

 誰がそこに居るのか。

 考える間も無く、振り向く。

 ゆっくりとだ。

 それは条件反射だ。

 仕方が無い。

 振り向いて……見る。

 そこには……。

「……何、やってるの?」

 そこには、ミアが、立っていた……。


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