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第9話 天才作家は、詐欺の台本を書いた

『黒瀬恒一郎の小説の通りに、全部、やったって』


仙石美咲の声が、一晩中、凛音の耳に残った。


黒瀬は、構造なら読める。


詐欺の金も、建物の通路も、人が信じる物語も。


ならば、最初から自分で構造を作り、凛音に解かせることもできる。


教祖の金庫にあった、凛音の写真。


『黒瀬恒一郎が接触した場合、第二稿へ移行せよ』


幽霊ホテルで、十年前の真実を小説へ変えた男。


そして今度は、その男の小説が、現実の詐欺になっている。


偶然と言うには、材料が揃いすぎていた。


翌朝。


凛音は黒瀬のマンションへ行った。


インターホンを一度だけ押す。


扉は、すぐに開いた。


黒瀬は、寝ていない顔をしていた。


「入れ」


「説明してください」


「そのつもりだ」


応接室のテーブルに、古いノートパソコンと、紙の束が置かれていた。


表紙に題名がある。


『その水は、命を救うふりをする』


作者、黒瀬恒一郎。


十年前の日付。


凛音は、一ページ目から読んだ。


奇跡の水、一瓶三十万円。


三瓶一組。


全国三十七の代理店。


故人の声を出す壺。


座卓の裏の振動板。


患者が患者を勧誘し、信じた人間ほど損をする販売網。


数字まで、現実の事件と一致している。


小説の主人公は、妻を亡くした元医師だった。


「救えなかった一人より、救えた百人を数えろ」と、謎の編集者に言われる。主人公は、その言葉にすがり、水を売り始める。


仙石玄一と同じだった。


違うのは、名前だけ。


凛音は、ページをめくる手を止めた。


「先生。仙石さんを知ってたんですか」


「知らない。父から、『妻を救えなかった医者が、奇跡へ逃げたら何をする』という題材を渡された」


「お父様が、筋を」


「入口だけだ。壺も、水も、販売網も、俺が考えた」


黒瀬は、そこを他人のせいにしなかった。


「新人賞では、『犯罪の仕組みが現実離れしている』と落とされた」


「現実が、あとから追いついた」


「違う。誰かが、追いつかせた」


凛音は原稿を閉じなかった。


この男の頭の中には、人を追い詰める方法が、いくつもある。今までは、それを頼もしいと思っていた。


同じ能力を、怖いと思ったのは初めてだった。


「先生が、書いたんですよね」


「書いた」


「じゃあ、先生が始めたんですか」


「違う」


「人の嘘が読めない人の『違う』を、どう信じればいいんですか」


黒瀬は怒らなかった。


代わりに、机の引き出しから鍵束を出した。書斎、資料庫、貸金庫。自分の過去を閉じていた鍵を、全部テーブルへ置く。


「必要なら、印税の入金記録も、取材費も、十年前の予定表も見ろ」


「そこまでして、何を証明したいんですか」


「俺が無実だと、言葉で信じさせる気はない。俺の言葉も、作品も、使われている。なら、残っているものを、お前が読め」


古いパソコンを、凛音の前へ押した。


「信じなくていい。調べろ」


「……いいんですか」


「お前が納得しない限り、何を説明しても同じだ」


黒瀬は、紙の原稿も渡した。


赤い修正。青い書き込み。余白に、見慣れない記号。


丸の中へ斜め線。三角を二つ重ねた印。


「父の直しだ」


「黒瀬誠司さん」


「ああ。当時、俺の原稿を読んだのは、父だけだ。この作品は新人賞の最終で落ち、出版されていない」


「データは」


「このパソコンと、父が預かった外部媒体だけ」


「お父様は、そのあと失踪した」


「翌日だ」


凛音は顔を上げた。


「翌日?」


「原稿を返さないまま、消えた」


黒瀬は窓の外を見た。


「俺は、父がこの作品を嫌ったと思っていた。人を救うふりをして、人生を商品にする話だったからな。いま思えば、逆だ。あの人は、使えると思ったのかもしれない」


「どうして、昨日まで黙ってたんですか」


「確証がなかった」


「私が先生を疑うまで、言わないつもりだった?」


黒瀬の返事が、半拍遅れた。


「……そうかもしれない」


嘘ではなかった。


それで、許せるわけでもなかった。


原稿の終盤に、折り目が付いている。


凛音は、そのページを開いた。


公開販売会の場面だった。


壇上の男が、観客へ言う。


『三本の水は、あなたの身体と、心と、まだ見えない未来を救います。信じられないのは、身体ではない。あなた自身です』


欄外に、日付が書き足されていた。


明日。


「これ、いつ書いたんですか」


「本文は十年前。日付は、俺の字じゃない」


「明日の販売会で、この台詞を言う?」


「言えば、小説が未来を当てたことになる」


「言わせる人が、いる」


翌日。


北辰メディカルの公開販売会は、郊外の文化会館で開かれた。


三百席が、ほとんど埋まっている。


壇上には仙石玄一。


背後のスクリーンに、透明な水が光っていた。


凛音と黒瀬は最後列に座った。


会場の入口では、水の三本セットが山のように積まれていた。


『本日限定』


『家族割引』


『紹介者には次回一本無料』


受付係は、以前『安寧の光』の礼拝堂で見た女性だった。白い衣の代わりに、淡い緑の制服を着ている。


彼女は凛音に気づかなかった。役が変われば、観客も変わると思っている顔だった。


客席には、教団で泣いていた老人もいた。首から下げる札が、信者証から販売代理店証へ変わっている。


仙石は、自分の言葉で患者の話をした。


妻を救えなかったこと。


病院で、もうできることはないと言われた夜。


水を飲んで眠れた人。


もう一度、立ち上がった人。


その声には、いつもの揺れがある。


悲しみ。高揚。迷い。


やがて、仙石の右耳で、小さな音がした。


チッ。


仙石の呼吸が止まる。


半拍後。


「三本の水は、あなたの身体と、心と、まだ見えない未来を救います」


スクリーンの文字が、一行遅れて同じ文章を映した。


原稿には、その演出まで書いてある。


次のページ。


『観客はここで拍手する』


実際に、前列の代理店員が立ち上がり、拍手を始めた。後ろの患者が続く。


『仙石は右手を胸へ置く』


仙石の右手が、胸へ上がる。


『一秒、目を閉じる』


一秒だった。


小説が未来を当てているのではない。


会場全体が、小説の舞台指示に従っている。


凛音の指が冷えた。


原稿と、一字一句、同じだった。


「信じられないのは、身体ではない。あなた自身です」


会場から拍手が上がる。


黒瀬は、原稿の該当箇所へ線を引いた。


「予言じゃない」


「読まされてます」


仙石の耳には、肌色の小さな受信機が入っている。


声が漏れるほどではない。


それでも凛音には、仙石の呼吸が、見えない誰かの呼吸を追っていることがわかった。


他人の言葉を復唱する人間は、自分で話す人間より、息を吸うのが遅れる。


販売会の休憩。


凛音は、仙石が通る舞台袖へ立った。


耳元へ届く程度の小さな声で、受信機の指示役を真似る。


性別を曖昧にした、乾いた声。


「この水は、効かない人もいます」


仙石の口が動いた。


「この水は――」


途中で止まる。


仙石は凛音を見た。


「いま、何をした」


「先生が、聞こえた言葉を、そのまま話すか試しました」


「私は、誰の指示も受けていない」


「では、その耳の中のものを見せてください」


仙石は、反射的に右耳を押さえた。


美咲が走ってくる。


彼女は仙石の右耳から受信機を外し、掌に隠した。


「父に近づかないで」


その声に押され、凛音は一歩下がった。


声で再現できた。


だからといって、黒瀬の原稿を誰が読み、仙石へ送っているかの証拠にはならない。


また、同じ壁だった。


凛音たちが会場を出ると、美咲が裏口から追ってきた。


掌には、さっきの受信機がある。


「これは、私が管理していました」


「指示を読んでいたのは、あなた?」


美咲は首を振った。


「販売会が始まると、勝手に音声が届くんです。父は、あれを『監修の先生』だと思ってる。疑うと不安になるから、私は……」


「外さなかった」


「父が、自分の言葉だけで話したら、何を言うかわからない。水が効かないかもしれないって、認めるかもしれない。そうしたら、父は、また」


美咲は、その先を言わなかった。


「端末を調べさせてください」


黒瀬が手を出す。


美咲は、すぐには渡さなかった。


「父を、犯罪者にしますか」


「既にした行為は消せない。だが、誰に台詞を読まされているかは分けられる」


美咲は、黒瀬の声を確かめるように見た。


やがて、受信機と、小さな指示端末を差し出した。


「父には、私が渡したって言わないでください」


それも、父を守るための嘘だった。


その夜。


凛音の部屋に、古いパソコンが持ち込まれた。


黒瀬、凛音、雛形。そして、雛形が手配したデジタル鑑識の専門家。


田所は、玄関へ今月分の家賃請求書を置いた。


「大事件なのは結構だが、今月の七万六千円は、事件の外に出ないからね」


「田所さん、あとで」


「先月も聞いた」


黒瀬が、古い画面から目を上げる。


「この男だけは、脚本家でも動かせないな」


「家賃は、物語じゃないからね」


田所は、黒瀬の靴を一度見た。


「先生。あんたが払ってもいいんだよ」


「契約上、本人の責任だ」


「人として最低ですね」


凛音と田所の声が揃った。


黒瀬は黙った。


解析には、三時間かかった。


古いパソコンの記録は、十年前のある夜、外部媒体が接続されたことを示していた。


小説、取材メモ、人物設定。


黒瀬が当時書いていた全ての原稿が、二十一分で複製されている。


時刻は、黒瀬が新人賞の授賞式へ出席していた時間だった。


複製されたデータは、その後、一度も書き換えられていない。現在の原稿と同じ内容だった。十年後に黒瀬が事件へ合わせて直した可能性は、消えた。


接続に使われた利用者名は、『SEIJI』。


黒瀬誠司。


「父が、持ち出した」


黒瀬の声は静かだった。


「少なくとも、父の名前で」


凛音は、その言い直しを聞いた。


名前があることと、本人であることは別だ。


声と同じだった。


「これで、先生が実行した可能性は下がりました」


雛形が言う。


「下がっただけです」


凛音は、画面を見たまま返した。


雛形は反論しなかった。


黒瀬も、助けを求めなかった。


父の名前で持ち出された原稿が、人を騙す道具になった。その原稿を書いた責任まで、無実の一言で片づける気はないらしい。


「俺は、使われるところまで想像せずに書いた」


黒瀬が言った。


「小説なら、最後に犯人を捕まえれば終わる。現実で真似る人間のことは、読者の良識へ押しつけた」


「先生が悪いから、事件が起きたとは言いません」


凛音は、ようやく黒瀬を見た。


「でも、書いたものが人を傷つけたとき、先生がどうする人かは見ています」


「ああ。見ていろ」


声は揺れなかった。


凛音は、それを証拠にはしなかった。


さらに、北辰メディカルの登記を開く。


会社の設立日は、原稿が複製された翌日。


登記の申請は、さらに一週間前から準備されていた。


つまり、誰かは原稿を読む前から会社を作るつもりだった。小説を見つけて犯罪を思いついたのではない。必要な台本として、黒瀬の作品を待っていた。


最初の事業目的には、『健康関連商品の販売』『音声教材の制作』『行動指導用脚本の提供』とある。


「小説を盗んで、会社にした」


凛音が言う。


「それだけじゃない」


黒瀬は、雛形から渡された小型端末を机へ置いた。


美咲が、販売会のあと、父の上着から抜き取り、雛形へ預けたものだった。


仙石の受信機へ台詞を送る指示端末。


中には、黒瀬の未発表原稿が章ごとに分けて保存されていた。


各台詞の横には、丸に斜線。重なった三角。


黒瀬誠司が原稿へ使っていた編集記号と同じ。


「先生が、設計者じゃない可能性は認めます」


凛音は言った。


「可能性?」


「お父様の記号だって、真似できます。先生の原稿を渡したのが先生じゃない証拠には近づいた。でも、先生が私に黙ってたことは、別です」


「礼を言う場面か」


「言ったら、今月の家賃を払ってください」


「それとこれは別だ」


「では、礼も別です」


「ああ」


黒瀬は、反論しなかった。


「まだ、信用してません」


「調べ続けろ」


「言われなくても。普通は、ここで『信じてくれ』って言うんですよ」


「普通の言葉で信じるなら、お前を雇っていない」


「感じが悪い」


「知っている」


凛音は、その返事に少しだけ息を抜いた。


疑いが消えたわけではない。


疑ったまま、同じ画面を覗ける距離へ戻っただけだった。


深夜一時。


作業を終え、黒瀬が自分の現在のパソコンを開いた。


古い原稿と照合するため、保存フォルダを表示する。


見覚えのない項目が、一つあった。


黒い鍵の印が付いた、暗号化フォルダ。


ファイル名は、『時雨凛音』。


「これ、先生が作ったんですか」


「知らない」


「今度は、その言葉を信じろって?」


「俺の記憶にはない。だから、開いて確かめる」


黒瀬がカーソルを重ねた。


凛音のスマートフォンが震えた。


差出人は表示されない。


『第三幕は、まだ開かないでください。観客が揃っていません』


二人は、同時に窓を見た。


向かいのビル。


消えた事務所の窓が並ぶ中で、一つだけ、赤いランプが点いていた。


録画中を示す、小さな光だった。


黒瀬が部屋の照明を消す。


赤い点だけが、夜の向こうに残った。


凛音は、自分の名前のフォルダと、向こうの光を交互に見た。


事件を調べていると思っていた。


いつからか、自分たちのほうが、資料として観察されている。


その事実が、パソコンの冷たい画面より、はっきり見えた。


最初の事件。


教団の天井で、凛音が最初に見つけたものと同じ色。


あのときから、観客は、舞台の外にいた。


赤い光は隠れていない。


二人に見つけさせるため、こちらを向いていた。


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