第10話 守りの嘘は、誰も救わない
『第三幕は、まだ開かないでください。観客が揃っていません』
向かいのビルで、赤いランプが点いていた。
黒瀬はカーテンを閉めた。
パソコンの通信を切り、暗号化フォルダを外部の記録媒体へ複製する。
「開かないんですか」
凛音が訊く。
「開く。ただし、向こうに言われた瞬間には開かない」
「台本から外れるため?」
「俺たちが決めた時刻に開く」
黒瀬は、画面の『時雨凛音』という文字を見た。
雛形へ連絡すると、向かいの事務所は三か月前から空室になっていた。管理会社の記録では、最後に借りたのは『北辰情報企画』。北辰メディカルと同じ私書箱を使う会社だった。
警備員が確認したとき、室内には三脚だけが残っていた。カメラも、記録媒体もない。
赤いランプは、本当に撮影していたのか。こちらへ見せるためだけに点いていたのか。
どちらでも、目的は同じだった。
見られていると、二人に信じさせること。
「先に、いま生きている人間の事件を終わらせる」
翌朝。
仙石美咲から連絡が来た。
待ち合わせは、診療所の近くにある小さな公園だった。
美咲は、紙袋を両腕で抱えている。
中には、成分検査の結果、販売帳簿、北辰メディカルとのメールを印刷した束が入っていた。
「全部、私が隠していました」
美咲は言った。
「父は、二年前に水の成分を調べようとしたんです。結果は、ただの水だった。北辰メディカルは、検査が間違っていると言った。父は信じようとした。でも、夜になると、私に何度も聞いた。『もし、全部間違いだったら、私は何人を殺したことになる』って」
美咲の指が、紙袋を強く掴んだ。
「奥さんを亡くしたあと、父は一度、死のうとしました。私は見つけた。水を信じて、患者さんに必要とされて、やっと生きる理由を持ったんです。だから、本当の結果を隠した。帳簿も、治療をやめさせる指示も」
「治療を、やめさせた?」
凛音の声が低くなる。
美咲は、メールを一枚出した。
『奇跡を信じさせるには、他の治療を断たせること。改善は水の成果、悪化は病院の毒が残っているためと説明する』
北辰メディカルから、仙石へ送られた指示だった。
「父は、何人かの患者さんに、病院の薬を減らすよう言いました。私は止めた。でも、全部は止められなかった」
「それを隠して、お父様を守ったつもりですか」
凛音の口から出た声は、母・美津子に少し似ていた。
責めたいときほど、自分の声が消える。
美咲は俯いた。
「父が死ぬよりは、いいと思った」
「守るための嘘が、守りたい人を、もっと深く犯人にすることもあります」
言葉が、自分へ返ってきた。
黒瀬へ言っていないこと。
母へ、平気だと嘘をついたこと。
自分の気持ちを、いつも別人の声へ隠すこと。
凛音は続けた。
「本当のことを言えば、壊れるかもしれない。でも、嘘の中でしか生きられないようにするのは、守ることじゃない」
美咲の目から、涙が落ちた。
「あなたは、怖くないんですか」
「何が」
「本当のことを言って、大事な人に嫌われるのが」
凛音は答えられなかった。
怖い。
だから、自分の声が出ない。怒れば母の声、悲しめば昔演じた少女の声、好意を持てば、冗談の上手な誰かの声になる。
黒瀬に『まだ信用していない』とは言えても、『それでも隣にいたい』とは言えない。
「怖いですよ」
出た声は、少しだけ自分のものだった。
「でも、嫌われないために相手を嘘の中へ閉じ込めたら、好きなのは、その人じゃなくて、自分が安心できる役です」
美咲は、長く息を吐いた。
「……父を、助けてもらえますか」
黒瀬が答えた。
「罪を消すことはできない」
美咲の肩が震える。
「だが、誰が何をさせたかは分ける。お前の父親自身が選んだことも、利用されたことも、両方出す」
優しい言い方ではなかった。
それでも、美咲は頷いた。
その日の午後。
仙石玄一は、最後の公開治療を行うと発表した。
北辰メディカルへの疑惑を否定し、奇跡が本物であることを、患者と報道の前で証明するという。
会場には、患者、家族、販売代理店、記者が集まった。
雛形は、弁護士と捜査員を後方へ待機させている。
「先生。勝手に壇上へ上がらないでください」
「俺は説明するだけだ」
「先生の『だけ』は、だいたい会場を壊します」
「必要なら壊す」
「法務担当の胃を先に壊さないでください」
壇上へ、車椅子の女性が上がった。
水島佐和子、五十六歳。
病院で末期の病気と診断され、半年前から仙石の治療を受けている。
仙石は、女性の手を握った。
「佐和子さん。今日は、立てますね」
「はい」
声が、少しだけ裏返った。
女性は水を飲んだ。
仙石と補助者が両側に立つ。
会場が息を止める。
女性は、車椅子の肘掛けを掴み、立ち上がった。
一秒。
二秒。
三秒。
拍手が爆発した。
「痛くありません」
女性は笑った。
「先生の水で、私は立てました」
凛音には、聞こえた。
『痛くありません』の前に、歯を食いしばる音がある。
息を吐けば声が崩れるから、肺へ空気を閉じ込めている。
痛みを隠す人間の声だった。
女性の膝が折れた。
美咲が駆け寄り、身体を支える。
仙石は、マイクへ向かって叫んだ。
「奇跡は起きた! 皆さん、見たでしょう!」
凛音は立ち上がった。
「いまから、同じ言葉を、二つ聞かせます」
壇上へ上がる。
マイクを取った。
最初は、痛みのない人間の声。
「痛くありません」
息は自然に流れ、最後の母音まで開いている。
次に、水島佐和子の声。
歯を噛み、肺を固め、笑うために喉を狭くする。
「痛く、ありません」
同じ声。
同じ言葉。
意味だけが違った。
会場の拍手が止まった。
「私の再現は、証拠ではありません」
凛音は言った。
「でも、さっきの声に無理があったことは、本人へ確かめられます」
美咲に支えられた水島が、目を閉じた。
「……痛かったです」
仙石の顔が、固まった。
「どうして」
「先生に、奇跡を起こさせてあげたかった」
水島は、泣きながら笑った。
「先生は、毎晩、電話をくれた。病院で一人だった私の名前を、何度も呼んでくれた。だから、先生が嘘つきにされるのが嫌だった」
患者が、治療者を守るために奇跡を演じていた。
仙石は、マイクを落とした。
「違う。あなたは、立った。水が」
凛音は、仙石玄一の声を出した。
低く、温かく、患者へ届く声。
「私は、間違っているかもしれない」
仙石が振り向く。
「私の声を使うな」
「先生が、一度も言えなかった言葉です」
「偽物だ。私の声ではない」
「はい。私の声は偽物です」
凛音は地声へ戻った。
「だから、先生自身が言ってください」
仙石は言えなかった。
黒瀬が、会場のスクリーンを点けた。
最初に、水の成分検査。
次に、一本百二十円の仕入れ記録。
三十万円の販売価格。
三十七代理店から北辰メディカルへ集まる送金。
画面の線は、患者から代理店、代理店から地域統括、地域統括から北辰メディカルへ上がっていく。途中で、壺の購入費、研修費、音声編集費、医師監修費と名前を変える。
仙石の診療所へ戻るのは四パーセント。
残りの一部は、解散した『安寧の光』の元幹部が作った会社へ流れていた。
礼拝堂で死者の声を編集した音響会社と、壺の故人音声を作った会社も同じだった。
教団は壊れていない。
看板と教祖を捨て、販売網だけが生き残った。
患者へ病院の治療を断たせる指示メール。
仙石の耳へ台詞を送っていた端末。
端末の通信履歴には、公開治療の開始時刻、患者が立つ時刻、拍手を始める代理店員の座席番号まで残っている。水島が立てなかった場合には、『身体の毒が深い』と説明する予備台詞も用意されていた。
奇跡が起きても、起きなくても、売れるように書かれている。
そして、十年前の黒瀬の未発表原稿が、外部へ複製された記録。
「凛音が示したのは、同じ奇跡を、人間の声と演技でも作れるという可能性だ」
黒瀬が言う。
「ここにあるのは、実際に使われた機器、契約、金、指示だ。あなたが信じていたかどうかと、患者へ虚偽を伝えたことは別になる」
美咲が壇上へ上がった。
紙袋の資料を、父の前へ置く。
「お父さん。私が隠してた」
仙石は、娘を見た。
「なぜ」
「死なせたくなかったから」
「なら、最後まで隠せばよかった」
「隠したままなら、お父さんが、ほかの人を死なせる」
美咲の声は、震えていた。
それでも、借り物ではなかった。
仙石は、長いあいだ、資料を見ていた。
やがて、椅子へ座り込んだ。
「……救われた人も、いる」
凛音は否定しなかった。
「いると思います」
仙石が顔を上げる。
「先生に名前を呼ばれて、眠れた人も。手を握られて、もう一日生きようと思った人も」
「なら」
「救われたことと、騙していいことは別です」
会場の一番後ろで、代理店の女が出口へ向かった。
雛形が、扉の前へ立つ。
「任意ですから、帰ることは止めません。ただ、その鞄は会社の備品として、提出を求められています」
女の鞄から、患者名簿と、次の販売会の台本が見えた。
黒瀬が小声で言う。
「受付に勝てる人間は、いたな」
「雛形さんを受付扱いしたら、次は先生が提出されますよ」
会場の後方で、捜査員が動いた。
仙石自然治療院と北辰メディカルの関係先は、詐欺と医療行為を巡る捜査の対象になった。
仙石が最初に騙された事実も、患者へ治療中止を勧めた事実も、同じ記録へ残る。
どちらか一方だけにはできなかった。
一週間後。
三枝富子は、返金手続きの書類へ署名した。
最後まで、壺だけは返したくないと言った。
けれど、内部の機器と販売経路を調べるため、壺は証拠として預けられた。
夜の和室。
亡き夫の座椅子。
その前には、もう何もない。
富子は、消した照明の中で言った。
「おやすみ、茂さん」
返事はなかった。
廊下の外に、菜々が立っていた。
部屋へ入らなかった。励ます言葉も、壺の代わりになる声も持っていない。
ただ、祖母が布団へ入るまで、戸口の明かりを消さなかった。
事件が終わった夜。
黒瀬は、凛音の部屋へ小さな記録媒体を持ってきた。
「話がある」
「家賃なら、今月分も払いました」
「俺が、お前を雇った理由だ」
凛音は、姿勢を正した。
黒瀬は、三年前の深夜ラジオの録音を再生した。
売れない声優が、リスナーの相談を一人芝居にして返す、十五分だけの番組。
凛音が、無報酬で三年間続けた仕事だった。
放送は深夜二時四十分。提供はなく、投稿が一件も来ない週には、凛音が自分で相談文を書いた。最終回の同時接続は十一人。終わった翌日、事務所から『実績にならない』と言われた。
凛音は、誰にも届かなかった仕事だと思っていた。
『恋人に嘘をつかれました』
録音の中の凛音は、恋人、相談者、喫茶店の店員を一人で演じ、最後に、嘘をついた人間が本当は別れを怖がっていると物語へ変えた。
「これ、どうして先生が」
「全話、保存してある」
「それ、ファンじゃなくて、証拠品の管理ですよ」
「分類は同じだ」
「違います」
黒瀬は、録音を止めた。
「俺はスランプだった。人間の会話が書けなかった。お前の即興を聞いて、次の作品を書いた。登場人物が初めて、自分の都合で台本から外れた」
「十一人の中に、先生がいたんですか」
「毎週いた」
「感想、一度も送ってませんよね」
「文章にすると、次の作品の伏線だと思われる」
「ただのコミュニケーション不足です」
「録音はした」
「余計に怖いです」
「私の発想を、勝手に使ったんですか」
「ああ」
「最低です」
「その評価は、前回受けた」
「追加です」
黒瀬は、薄い契約書を出した。
音声演技、取材協力、台詞構成。使用時の確認と報酬。凛音の名前を記録へ残す条項。
「俺は、お前の才能を買ったんじゃない」
黒瀬は、言葉を選ぶように、一度、息を止めた。
「必要だった」
凛音は、すぐに返事ができなかった。
別人の告白なら、百通り言える。
自分が必要だと言われたときの声だけ、持っていなかった。
「……録音の無断使用分は、別料金です」
ようやく出たのは、事務的な女性の声だった。
「請求しろ」
「高いですよ」
「家賃よりは安い」
「比べるものが小さいんです」
契約書へ署名した。
恋人でも、友人でもない。
雇い主と、演者でも足りない。
名前のない関係を、ひとまず仕事として続けるための署名だった。
深夜零時。
二人は、暗号化フォルダを開いた。
通信は切っている。雛形にも、開く時刻を知らせた。
敵に命じられたからではない。
自分たちで、いまを選んだ。
フォルダの中には、十四歳の時雨凛音に関する記録があった。
『七月二十八日。本人の地声、確認できず。母親の声で朝食を拒否』
『八月三日。担当医の声で、看護師へ退院時期を質問』
『八月十九日。男性研究員Aの声を再現。本人は、自分が誰の声で話しているか認識していない』
『九月十四日。三か月間、地声による発話なし』
『九月二十日。対象は、聞かせていないはずの声を再現。第三研究室の記録と照合すること』
余白には、黒瀬の未発表原稿にあったものと同じ、丸に斜線の編集記号があった。
凛音の指が、震えた。
母からは、声を失ったと聞かされていた。
記録の中の凛音は、黙っていない。
他人の声だけで、三か月を生きている。
「先生が、作ったんですか」
「違う。この時期、俺は十九歳だ。だが、この記録は見覚えがある」
「どこで」
黒瀬は答えなかった。
その沈黙は、知らない人間のものではなかった。
凛音は問い詰めようとして、やめた。
今度は、順番を黒瀬だけに決めさせない。だが、自分も、恐怖に押されて答えを奪わない。
「次は、話してください」
「ああ」
短い返事だった。嘘かどうかではなく、その約束を聞いた。
最後の行だけ、記録の日付が現在になっていた。
『次の相談――夫が、前世の妻に会いに行くと言い出した』
その瞬間。
黒瀬の公式相談窓口に、新着メールが届いた。
件名は、記録と一字一句、同じだった。
『夫が、前世の妻に会いに行くと言い出しました』




