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第11話 夫が「前世の妻」に会いに行くと言っています

『夫が、前世の妻に会いに行くと言っています。三日前まで、前世なんて信じていなかった人です。今は、私を“今世の間違い”と呼びます。止めてください』


メールを読み終えた黒瀬は、三秒で画面を閉じた。


「夫婦で話し合え」


「相談窓口を閉じたほうがいいですね」


「俺は探偵ではない。前世の夫婦喧嘩まで面倒を見られるか」


「いまの相談、前世じゃなくて今世の夫婦喧嘩です」


深夜零時十二分。


二人は、まだ凛音の六畳一間にいた。


暗号化フォルダの最終行に書かれていた相談が、数秒後、黒瀬の公式窓口へ届いた。その事実だけで、無視するという選択肢は消えている。


黒瀬も、それはわかっていた。


閉じたはずのメールを、もう一度開く。


添付ファイルが一つあった。


音声。七分三十二秒。


再生すると、最初に女の声がした。


『遼。駅で、待ってる』


細く、少し掠れている。若い女の声だった。


続いて、男が泣きながら答える。


『千鶴。今度こそ、迎えに行く』


黒瀬が腕を組む。


「よくある催眠誘導だ。悲嘆につけ込み、本人が知っている材料を前世に組み替える」


凛音は、音声を十秒戻した。


もう一度。


『遼。駅で、待ってる』


「先生。ここ」


「何だ」


「“駅で”の前。舌を鳴らしています」


「聞こえない」


「そのあと、鼻で吸ってる。寝ている人の呼吸でも、降霊中の人の呼吸でもありません。狭い部屋で、マイクの位置を確かめた人の呼吸です」


凛音はイヤホンを外した。


「これ、死者の声じゃありません。録音された、生きている女の声です」


黒瀬は、閉じたメールを三度目に開いた。


「依頼人へ連絡しろ」


「さっき、夫婦で話し合えって」


「話し合った結果を聞く」


「言い換えても受けてますよ」


依頼人の相沢春菜は、三十二歳の小学校教員だった。


翌朝、黒瀬のマンションへ現れた彼女は、膝の上で両手を揃え、授業参観の保護者へ話すような声で説明した。


夫の遼は二十三歳。


区役所の土木課で働き、見積書の数字を一円単位で確かめる男だった。


占いも、宗教も、前世も嫌いだった。


春菜が結婚前に星座占いを見せたときは、「十二種類で七十億人を分類するのは、行政より雑だ」と笑ったという。


半年前、母親を亡くした。


遼は、臨終に間に合わなかった。


病院からの電話を、会議中だからと切った。その二十分後、母親は亡くなった。


葬儀のあとも、遼は一度も泣かなかった。


母親の留守番電話だけ、消せずに残した。


『遼。帰りに牛乳、お願いね』


最後の用事だった。


いまも週に一度、その声を聞いていることを、春菜は偶然知った。


その少し前から続けていた不妊治療も、結果が出ないまま中断した。


遼は仕事へ行き、食事をし、眠った。


泣かなかった。


春菜が母親の話を出すと、「もう終わったことだ」と笑った。


その遼が、友人に勧められた『記憶回帰アカデミー』の個人セッションへ行った。


三日前、帰宅して言った。


自分には前世の妻がいる。


二十四年前、沢田千鶴という女だった。


自分は彼女を駅へ迎えに行けず、死なせた。


だから会いに行かなければならない。


「私が、治療を休もうと言ったからだと思います」


春菜は言った。


「子どもができないかもしれない。お義母さんもいない。あの人は、これから先に何もないと思ったのかもしれません。でも、だからって、私を“今世の間違い”って」


最後の言葉だけ、教員の声ではなかった。


捨てられそうな妻の声だった。


黒瀬は問う。


「沢田千鶴という人物を、あなたは知っていましたか」


「いいえ。調べたら、本当にいたんです。二十四年前に失踪しています。夫が生まれるより前です」


「死んだと確認されたわけではない」


「でも、夫は、新聞にも載っていないことまで知っていました」


春菜が紙を出す。


古い捜索願の写しだった。


沢田千鶴、当時二十六歳。


左手の甲に火傷痕。


失踪時、赤い傘を所持。


最後に目撃された場所は、廃線になった旧・雨倉駅。


捜索願の写しは、千鶴の叔母が保管していたものだった。


春菜は、遼の話を確かめるため、三日前にその叔母を訪ねている。


叔母は最初、前世の話を笑った。


だが、赤い傘と火傷痕を聞いた瞬間、玄関の扉を閉めた。


十七番のロッカーについては、警察へも話していないと言った。


千鶴が失踪前夜、電話で一度だけ口にした番号だった。


『大事なものは十七番に入れた』


それが何かは、叔母も知らない。


「これは、ご家族と警察しか知らなかったそうです。夫は催眠の中で、全部、言いました。駅の時計は二十二時十四分。十七番のロッカー。千鶴さんの左手に、三日月みたいな火傷があるって」


「遼さんが、生まれる前の事件ですね」


「はい。夫の家族も、千鶴さんとは関係ありません」


黒瀬は捜索願の紙質と印影を確かめた。


「偽造ではない。少なくとも、春菜さんが昨日作ったものではない」


「先生、言い方」


「依頼人を信じることと、資料を疑わないことは別だ」


春菜は怒らなかった。


むしろ、その言葉に少しだけ安心した顔をした。


誰かに信じてほしい人間ほど、疑って確かめてくれる相手を必要とすることがある。


凛音は、音声の中の遼を思い出した。


男は千鶴の声を語るときだけ、呼吸の場所が変わっていた。


自分の声を使っていない。


借りた台詞を、借りた間で話している。


十四歳の夏。


三か月間、他人の声だけで生きていたという、自分の記録と同じだった。


「先生」


「ああ。行くぞ」


記憶回帰アカデミーは、都内の古い洋館を改装した施設だった。


看板は小さい。


玄関には、白い花と、誰のものかわからない古い家族写真が並んでいる。


二人は、破局寸前の婚約者として予約を入れた。


受付の女が問う。


「交際期間は、どれくらいですか」


黒瀬は迷わなかった。


「三年と七か月。うち実働は十二日だ」


「先生、何の実働ですか」


「事件現場で、隣にいた日数だ」


「それを交際に算入しないでください」


受付の女は、困ったように笑った。


凛音も恋人らしく笑おうとした。


声が、作れなかった。


甘える声。怒っている恋人の声。別れを迷う女の声。


どれも出せる。


黒瀬の恋人だと名乗る声だけが、喉の途中で引っかかった。


「彼女は緊張しています」


黒瀬が言った。


「先生のせいです」


それだけは、地声で出た。


受付で、簡易の催眠適性検査を受けた。


目を閉じ、過去の死因を一つ思い浮かべろと言われる。


三十秒後、黒瀬は目を開けた。


「俺の前世は、締切に殺された作家だった」


「今世でも同じ死に方をします」


受付の女だけが、笑っていいのかわからない顔をした。


黒瀬は真顔だった。


凛音には、本当に少し眠そうに見えた。


講師の御厨沙羅は、四十代前半に見えた。


白いシャツ。黒いスカート。左耳に、小さな補聴器。


声は低く、聞く人間の呼吸を少しずつ遅くするように作られていた。


御厨が話すたび、補聴器の外側で青い光が一度だけ点いた。


凛音は、聞くための機械にしては光る間が不自然だと思った。


質問を受けた直後ではない。


答える直前に光る。


誰かの声を受け取っている人間の間だった。


黒瀬へ目配せする。


黒瀬は気づかず、壁の配線を見ていた。


人間を見る凛音と、部屋の構造を見る黒瀬。


同じ怪しさを、別の場所から追っている。


「前世とは、昔の人生ではありません」


御厨は言う。


「心が、忘れるしかなかった物語です」


薄暗い施術室。


甘い木の香り。


壁には、ゆっくり回る水面の映像。


遼は中央の椅子に座っていた。


春菜は後方にいる。


御厨が指を鳴らす。


「時計を見て」


遼の瞼が震えた。


「何時ですか」


「二十二時十四分」


「どこにいますか」


「駅。古い駅。窓口の横に、木のベンチ。右に階段。階段の下に、十七番のロッカー」


黒瀬が凛音を見る。


旧・雨倉駅の内部図は公開されていない。


遼は続ける。


「雨が降ってる。千鶴が、赤い傘を持ってる。左の手が、痛そうだ。火傷。三日月の形」


春菜の顔から、血の気が引いた。


御厨は、遼の額へ手を置いた。


「千鶴さん。ここにいますか」


部屋の奥から、女の声がした。


『遼』


御厨の唇が動いている。


だが、声は背後から聞こえた。


近いのか、遠いのかもわからない。


『待ってる。今度は、来て』


遼が椅子から立ち上がろうとした。


春菜が名前を呼ぶ。


彼は振り向かない。


凛音は一度、息を吸った。


舌を、上の歯の裏へ当てる。


鼻から短く吸う。


掠れを、喉の左へ寄せる。


「遼」


同じ声が、もう一つ生まれた。


遼が止まる。


御厨も、初めて凛音を見た。


「待ってる。今度は、来て」


一字一句。


同じ息継ぎ。


同じ掠れ。


同じ「来て」の、下がり方。


凛音は遼へ言った。


「遼さん。あなたが探している千鶴さんは、私の喉にもいます」


室内の空気が崩れた。


唯一だった死者の声が、二つになった。


春菜は、息を呑む。


遼は、凛音を見つめた。


「あなたも、千鶴を知っているんですね」


「違います。いま一度、聞いただけです」


「一度で声を移せる。あなたも、前世を受け取れる人なんだ」


「そうではなくて」


「千鶴は、僕に会わせるために、あなたをここへ」


信じる人間は、反証まで物語へ取り込む。


凛音が声を再現したことで、遼の信仰は強くなった。


春菜が、凛音の腕を掴んだ。


「夫を、余計に壊さないでください」


声は小さかった。


それでも、責める力はあった。


「私、あの人を連れ戻したくて、ここへ来たんです。千鶴さんより私を選ばせたいんじゃない。前世じゃなくて、いま苦しいって言わせたかっただけなのに」


春菜の指が離れる。


「あなたの声を聞いたら、夫は、逃げる場所を二つに増やした」


凛音は何も返せなかった。


声は、人を起こすこともできる。


眠らせることもできる。


どちらになるかは、声を出した人間だけでは決められない。


自分の才能を、初めて怖いと思った。


再現は、証明ではない。


同じ現象を作れても、相手が信じる理由までは奪えない。


御厨がセッションを中断した。


遼を別室へ移す。


黒瀬は、春菜から三日間、計六回分の音声を受け取った。


車へ戻ると、波形を並べる。


遼の語りは、毎回、同じ言葉から始まっていた。


二十二時十四分。


雨倉駅。


赤い傘。


記憶なら、順番が揺れる。


言い間違える。時間がずれる。見えたものが入れ替わる。


思い出すたび、いまの感情が少し混じる。


母親を失った翌日の記憶と、一年後に語る記憶は、同じにはならない。


遼の語りには、それがない。


恐怖の息も、千鶴を呼ぶ間も、六回とも正確だった。


正確すぎる記憶は、記憶ではない。


台詞だ。


凛音は、背景の駅ベルを六つ重ねた。


「同じです」


「音が似ているだけでは」


「似てるんじゃありません。咳払いの位置まで同じ。毎回、同じ録音を聞かされています」


黒瀬が画面を拡大する。


「遼の記憶ではない。遼に入れた音だ」


後部座席から、遼の声がした。


二人は振り向いた。


春菜に付き添われ、施設から出てきたところだった。


遼は、凛音を見ている。


凛音は車から降りた。


「遼さん。さっきは、混乱させてすみません」


今度は、誰の声も借りなかった。


遼の顔色が変わった。


「その声」


「え?」


「川で、僕を呼んだ子の声だ」


凛音の喉が冷えた。


初対面の男だった。


遼自身も、自分が何を言ったのかわからない顔をしている。


「僕は、いま、何を」


背後で、玄関の扉が開いた。


御厨沙羅が立っていた。


凛音のそばを通るとき、左耳の補聴器へ指を添える。


「前世は、忘れた記憶じゃない」


凛音の耳元で囁いた。


「忘れさせられた記憶よ。――時雨凛音さん、あなたにも、三か月ありますよね」


凛音は振り返った。


御厨は、もう笑っていた。


まるで、その反応まで、最初から聞いていたように。

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