第8話 病気を治す水、儲かるのは誰?
壺と水の底に、同じ印があった。
『安寧の光』。
教祖は逮捕され、礼拝堂は閉鎖された。
それでも、倉庫に残った壺とボトルと話し方は、名前を変えて売られている。
黒瀬は、三枝菜々の領収書を机へ並べた。
壺の販売元は、光輪生活研究所。
水の販売元は、北辰メディカル。
二社の代表者は別。住所も違う。だが、請求書に使われた管理番号の付け方が同じだった。
年月、商品種別、購入者の年齢、家族を失った回数。
人間の悲しみまで、在庫番号に入っている。
「同じ会社ですか」
凛音が訊く。
「同じ設計者だ。会社は役名にすぎない」
「役者は、仙石玄一?」
「まだ決めるな。あの男の診療所には、水一本につき、売価の四パーセントしか残らない」
「三十万円の四パーセント」
「一万二千円。場所代と人件費を引けば赤字だ」
「じゃあ、誰が儲かるんですか」
黒瀬は、北辰メディカルの名前へ赤い線を引いた。
「それを調べる」
黒瀬は、コーヒーカップを凛音の前へ押した。
中身は、湯だった。豆を入れ忘れている。
「先生。これは、何ですか」
「コーヒーだ」
「色がありません」
「抽出前だ」
「それを、お湯と言います」
黒瀬は、何か言いかけて、やめた。
幽霊ホテルから戻って以来、彼はときどき、こうして言葉の前で止まる。謝罪を探しているのか、仕事以外の話し方を忘れているのか、凛音にはわからない。
「……水の事件には、向いている」
ようやく出た言葉が、それだった。
凛音は、湯を一口飲んだ。
まだ許していない。
ただ、熱さはちょうどよかった。
翌日。
凛音は、仙石自然治療院の待合室にいた。
黒いワンピース。薄い化粧。膝の上には、入院中の姉の検査資料を入れた封筒。
もちろん、中身は架空である。
今日の凛音は、藤森遥、二十三歳。
重い病気で病院から出られない姉を持つ、疲れ切った妹だった。
姉の名前は、藤森千紗、三十二歳。
一人で二人分である。
「人件費を半分にできる」
インカム越しに、黒瀬が感心した。
「褒める場所、そこですか」
「経営上、重要だ」
「姉妹まとめて一人分の報酬にしたら、雛形さんへ言います」
「二人分払えば、お前の人格が二つあると認めることになる」
「先生の人間性を一つと数えていいか、先に審議しましょう」
診察室へ呼ばれた。
仙石玄一は、前回と同じ茶色い上着を着ていた。
患者の顔を見るとき、必ず椅子から少し身を乗り出す。自分の声が届く距離を、身体で測っている。
「お姉さんは、いまも病院に?」
「はい。先生のことを話したら、声だけでも聞きたいって」
凛音はスマートフォンを机へ置いた。
通話先は、駐車場の黒瀬の端末である。
凛音が口元をハンカチで隠し、小さく姉の声を吹き込む。車内の機器が半秒遅らせ、スマートフォンのスピーカーへ返す。
『……先生。聞こえますか』
三十二歳。
病気で息が浅く、それでも妹を安心させようとする声。
仙石の顔が、医師のものへ変わった。
「聞こえます。千紗さんですね」
「先生、姉は、治りますか」
凛音は妹の声で訊く。
『遥。先生を困らせないで』
すぐに、電話の姉へ戻る。
仙石は、二つの声が同じ喉から出ているとは気づかない。
黒瀬が、インカムで囁いた。
「切り替えが速いな」
凛音の耳が、少し熱くなった。
褒められる準備をしていないとき、この男の言葉は困る。
仙石はスマートフォンへ向かって言った。
「治します」
『本当に?』
「ええ。必ず」
『病院では、難しいって言われました』
仙石の目が、一瞬、遠くなった。
「私も、同じ言葉を聞きました。妻の病室で。医者だった私が、何もできなかった」
電話の姉は、黙った。
「だから、病院が諦めても、私は諦めません。千紗さん。あなたの身体は、まだ、あなたを見捨てていない」
凛音は、姉の声を返せなくなりそうになった。
嘘の病人へ、本物の痛みが向けられている。
インカムから、黒瀬の低い声がした。
「続けろ。いま止めれば、余計に傷つける」
凛音は息を整えた。
『……お願いします』
その声に、金を前にした弾みはなかった。
代わりに、失敗を恐れる震えがあった。
自信ではない。
祈りに近い。
仙石は、透明なボトルを一本、机へ置いた。
「身体は、治り方を知っています。ただ、病院の薬と不安で、忘れている。この水は、身体に思い出させるんです」
「一瓶で、足りますか」
「最初は三瓶。身体、心、未来のために一本ずつ」
九十万円。
黒瀬が作った資料には、同じ言葉が書かれていない。
だが、仙石の説明は台本のように滑らかだった。
診察のあと、週に一度の公開治療が始まった。
患者と家族が、二十人ほど、小さな講堂へ集まる。
壇上へ上がったのは、六十一歳の女性だった。
左肩が四年間、胸より上へ上がらないという。
仙石が、ボトルの水を一口飲ませる。
「目を閉じてください。痛い場所を見ない。まず、指を動かす」
女性の指が開く。
「次に、手首」
手首が回る。
「肘。肩ではありません。肘を、空へ近づける」
女性の腕が、少しずつ上がった。
仙石は、会場へ手を向ける。
拍手が起きた。
「身体が、皆さんの声を聞いています。もう少し」
女性の左手が、頭の高さまで上がった。
泣き声。
歓声。
立ち上がって拍手する人もいた。
凛音は、女性の呼吸を聞いた。
痛みはある。
けれど、最初に肩を動かせと言われていない。指、手首、肘と注意を分け、最後に拍手で恐怖を押し流している。
水を飲む前、仙石は女性の肩へ温かい布も当てていた。
現象は、本物だった。
水の奇跡でなくても。
「私にも、やらせてください」
凛音は手を挙げた。
仙石が、壇上から見下ろす。
「あなたが?」
「同じことが、水なしでも起きるか、試したいんです」
会場がざわめいた。
女性は迷ったあと、頷いた。
凛音は水を机の端へ置いた。
息を吸う。
仙石玄一の、低く柔らかな声を着る。
「目を閉じてください。痛い場所を見ない。まず、指を動かす」
会場の何人かが、反射的に姿勢を正した。
同じ声。
同じ間。
凛音は、仙石が使った順番を、そのまま繰り返す。
指。
手首。
肘。
最後に、会場へ拍手を求める。
女性の腕は、もう一度、頭の高さまで上がった。
今度は、水を飲んでいない。
凛音は地声へ戻した。
「水がなくても、同じ順番と、同じ声と、同じ拍手で起きました」
菜々が、客席で息を吐いた。
だが、女性は、上げた腕を胸へ抱いた。
「それでも、私は楽になったんです」
責める声ではなかった。
「病院では、無理をしないでと言われるだけだった。先生は、できると言ってくれた」
別の患者が言う。
「声でできるなら、先生の声にも力があるってことでしょう」
「水が、その声を届かせたのよ」
信じる物語は、形を変えた。
凛音が奇跡を再現したことで、仙石の力が証明されたと受け取る人までいる。
仙石は、勝ち誇らなかった。
女性の前へ膝をつき、上がった腕を見て、目を潤ませていた。
「よかった」
心からの声だった。
公開治療が終わったあと。
凛音は、廊下の奥で、さっきの女性が壁へ寄りかかっているのを見た。上がったはずの左腕を、右手で抱えている。額には汗が浮いていた。
仙石美咲が、冷却材を布で包み、肩へ当てる。
「病院へ連絡しましょう」
「先生には、言わないで」
女性は、痛みに顔を歪めながら笑った。
「先生、あんなに喜んでたでしょう。私が上げられたって。あの人、自分の奥さんを救えなかったこと、まだ引きずってるのよ」
「でも、無理をしたら」
「ほんの少し、本当に上がったの。嘘じゃない」
美咲は何も言えなかった。
凛音は、物陰から、その声を聞いた。
患者まで、仙石を守る役を演じている。
誰が騙し、誰が騙されているのか。線を一本では引けなかった。
治療院を出たあと、黒瀬が言った。
「お前の実演は、医学的な証明じゃない」
「わかってます」
「一時的に動かせた理由も、俺たちには判断できない」
「わかってます」
「ただし、水の説明が虚偽なら、そこは別だ」
三日後、黒瀬は、検査機関から届いた報告書を見せた。
菜々が購入した未開封ボトルを、所有者の同意を得て成分検査へ出していた。
中身は、市販の精製水に、ごく一般的なミネラルを加えたもの。
北辰メディカルの仕入れ記録には、同じ規格の水が一本百二十円で並んでいる。
ラベルだけを替え、三十万円で売る。
「でも、仙石先生のところには、一万二千円しか残らない」
凛音が言う。
「ああ。残りは代理店を三つ通り、北辰メディカルへ集まる。仙石は広告塔だ」
黒瀬は、全国の販売代理店を線で結んだ。
三十七社。
地方の健康教室、終活相談、訪問介護の紹介所、葬儀後の心の相談。入口は違う。最後には、壺か水か数珠へ着く。
下の代理店ほど高く仕入れ、上へ紹介料を払う。売れなければ、信じ方が足りないと責められる。
「商品を買う客だけじゃない。売る人間も、先に救われたと信じさせる」
黒瀬は、一番上の北辰メディカルを指した。
「ここだけが、信じていない」
「仙石先生は?」
「信じている。だから、厄介だ」
「騙してるのに、騙されてる」
「一番扱いやすい役者は、自分の役を本物だと信じている役者だ」
その日の夕方。
凛音は、治療院の裏口で仙石美咲を待った。
二十二歳。髪を一つに結び、段ボール箱を両腕で抱えている。仙石の娘で、診療所の事務をしていた。
「お父様、とても患者さんを大切にされてますね」
凛音が声をかける。
美咲は、困ったように笑った。
「父は、昔から、人を救いたかったんです」
『救いたかった』の前で、息が半拍、止まった。
過去形だった。
「いまは?」
「いまも、です」
今度は、語尾が少し高い。
作った声だった。
美咲の視線が、診療所の二階へ向いた。
窓の向こうに、仙石がいた。公開治療の患者へ、一人ずつ電話をかけている。結果を聞くたび、大学ノートへ丸を付ける。
その姿だけを見れば、誰より真面目な医師だった。
「父は、患者さんの誕生日を全部覚えています。亡くなった方の命日も。北辰メディカルの人は、そんなこと、知らない」
「だから、お父様だけは本物?」
「少なくとも、救いたい気持ちは」
美咲の声が細くなった。
気持ちが本物なら、売っているものの嘘まで消える。そう信じたかった。
凛音は、演じていた妹の声を脱いだ。
「水が、ただの水だと知っていますね」
美咲の腕から、段ボールが滑りかけた。
「何のことですか」
「知らない人の声じゃない。知っていて、知らないふりをしている人の声です」
美咲は、凛音を睨んだ。
その目は、父を傷つける人間から、父を守ろうとしていた。
「父は悪くありません」
「まだ、悪いとも、悪くないとも言ってません」
「あなたたちが来てから、患者さんが不安になってる。あの人たちは、病院で数字と期限しか言われなかった。父は、名前を呼んだ。手を握った。毎晩、電話に出た」
「それで救われた人は、いると思います」
凛音は言った。
「水が効いたかどうかとは、別に」
美咲の目が揺れた。
敵だと思っていた相手から、父の救いを否定されなかった。声が一瞬だけ、二十二歳の娘へ戻った。
「父は、儲けてなんかいない」
言ってから、美咲は口を閉じた。
儲かっていないことを知るには、帳簿を見ていなければならない。
凛音は、美咲の指先を見た。段ボールの底へ、青い複写式の伝票が挟まっている。北辰メディカルの納品書だった。
美咲は、それを身体で隠した。
父を守るために、真実のほうを見えなくする動きだった。
凛音は、後ろに立っていた黒瀬を見た。
黒瀬も聞いている。
美咲は、父の金の流れを知っている。
「誰が、この仕組みを教えたんですか」
黒瀬が訊いた。
「北辰メディカルの誰だ」
美咲は、しばらく黙っていた。
やがて、段ボールを地面へ置いた。
「父は、妻を亡くしてから、ずっと自分を責めていました。医者なのに、一番大事な人を救えなかったって。そのとき、一冊の小説を渡されたんです」
黒瀬の顔から、表情が消えた。
「題名は」
「知りません。表紙がなかったから」
美咲は、黒瀬をまっすぐ見た。
「でも、父は言ってました」
美咲は、段ボールの中から、表紙のないコピー束を一冊だけ出した。
最初のページには、水を三本売る場面。余白には、黒いペンで舞台の指示が書かれている。
『ここで患者は泣く』
『娘は父を守る』
美咲の指が、その一文を隠した。
夕方の風が、空の段ボールを鳴らした。
「黒瀬恒一郎の小説の通りに、全部、やったって」




