第7話 祖母が二百五十万円の壺を買いました
『祖母が、「先祖の因縁を断つ壺」を二百五十万円で買いました。壺へ話しかけると、亡くなった祖父の声が返事をするそうです。追加で六百万円のローンを組もうとしています。止めてください。』
相談文は、黒瀬の公式サイトに設けられた『迷惑相談窓口』へ届いた。
窓口を作ったのは雛形だった。教団と幽霊ホテルの記事が出た翌日、取材依頼が二百件を超えたためである。
『飼っている亀が前世の夫だと言う妻を説得してほしい』
『隣人が毎朝、同じ時刻にくしゃみをする。暗号ではないか』
『推しの配信者と結婚できる確率を構造的に計算してほしい』
黒瀬は全部、三秒で不採用にした。
「最後の相談は、計算できますよ」
凛音が言う。
「ゼロです」
「それを本人へ言う仕事は、お前に任せる」
「人の心が読めない人は、心を折るのだけ速いですね」
その中で、雛形が紙へ印刷し、赤い付箋を貼ったのが、二百五十万円の壺だった。
菜々は、祖母から一時間だけ借りた金色の壺を、大事そうに抱えてきていた。「有名な先生に価値を見てもらう」と言うと、富子は喜んで持たせたらしい。
相談文を読み終えた黒瀬は、金色の壺を指で弾いた。
ごん。
寺の鐘を、毛布の中で鳴らしたような音がした。
「原価八千円」
「鑑定の根拠は」
「二百五十万円に見えない」
「私の部屋も、同じ方法で鑑定します?」
「家賃以下だ」
「帰ります」
「お前の部屋だ」
一週間前まで、二人は死んだ子どもの声を追っていた。
黒瀬が十年前に真実を言わなかったことを、凛音はまだ許していない。
そのはずなのに、雛形皐月から相談が来ると、いつものように黒瀬の隣へ座っていた。
許さないまま、仕事をする。
口にした以上、実行するしかない。
依頼人の三枝菜々は、都内の大学へ通う二十歳だった。
膝の上で両手を握り、黒瀬の高層マンションには似合わない、擦れた布の鞄を抱いている。
「祖父が亡くなったのは、去年の春です。祖母は、それからほとんど外へ出なくなりました。最初は無料の健康相談だったんです。膝が痛いって話をしたら、仙石先生を紹介されて」
「仙石玄一。自然療法家、五十八歳。元は内科医だな」
黒瀬が資料をめくる。
「奥さんを病気で亡くしたあと、病院を辞めて『仙石自然治療院』を開いた。薬と手術に頼らない治療を掲げている」
「おばあちゃんは、仙石先生のおかげで眠れるようになったって。壺から、おじいちゃんの声がするから」
「録音は?」
菜々はスマートフォンを出した。
薄暗い和室。
仏壇の前に、金色の壺が置かれている。
祖母の富子が、「茂さん」と呼ぶ。
壺が低く震えた。
『富ちゃん』
老人の声だった。
『梅の枝は、まだ切るな。白い花が終わってからだ』
画面の中で、富子が泣いた。
「梅の木のことは、祖父と祖母しか知りません。祖父が入院する前、庭で約束したって」
凛音は、もう一度、音声を聞いた。
似ている。
菜々が見せてくれた祖父の生前動画と、音の高さも、歯の隙間から息が抜ける癖も同じだった。
けれど、一つだけ、不自然だった。
壺の声には、呼吸がない。
『富ちゃん』の前にも、『梅の枝は』の途中にも、肺へ空気を入れる音がない。短い言葉を切り、並べている。
「先生。壺を、どこで見られますか」
「今日、祖母が治療院へ持っていくことになっています」
仙石自然治療院は、郊外の住宅地にあった。
白い壁。木の看板。待合室には薬の匂いがなく、乾かした草と、温めた布の匂いがする。
壁には、患者から届いた礼状が隙間なく貼られていた。
『歩けるようになりました』
『先生の水で、また孫を抱けました』
『病院では見放されましたが、ここで救われました』
受付で、菜々は凛音を「大学の先輩」と紹介した。
黒瀬は「家族の顧問」と名乗った。
受付の女性に「どのようなご関係の顧問ですか」と聞かれ、三秒で追い出されそうになった。
凛音が、落ち着いた弁護士の声で割って入る。
「契約内容を確認するための立ち会いです。治療の妨げはいたしません」
受付の女性は姿勢を正し、四人を診察室へ通した。
黒瀬が小声で言う。
「最初から、それをやれ」
「先生が受付に勝てる日は来ないんですか」
「勝負ではない」
「いつも負ける人が言う台詞です」
診察室の中央に、富子が座っていた。
七十四歳。薄紫のカーディガン。両腕で、金色の壺を抱いている。
その向かいに、仙石玄一がいた。
白衣ではなく、茶色い上着を着た大柄な男だった。髪には白いものが多い。声は低く、柔らかい。
「富子さん。昨夜も、ご主人と話せましたか」
「ええ。菜々の卒業式まで、元気でいろって」
仙石は、料金の話をしなかった。
富子の顔を見て、本当に安心したように笑った。
「それは、よかった」
仙石の机には、売上表ではなく、大学ノートが開かれていた。
『眠れるようになった、二百十一人』
『痛みが軽くなった、百八十六人』
『家族と話せた、九十三人』
数字の横に、患者の名前が一人ずつ書かれている。
仙石は、富子の欄へ小さな丸を付けた。
凛音は、その声を聞いた。
金を得た人間の高揚ではない。
救えたと信じた人間の安堵だった。
仙石は壺を低い机へ置き、部屋の明かりを落とした。
「波動を合わせます。富子さん。ご主人との、一番大切な約束を思い出してください」
小さな鈴。
仙石の祈る声。
机の下で、何かが一度、震えた。
壺の腹が、低く共鳴する。
『富ちゃん』
富子の肩が揺れた。
『菜々が泣いたら、台所の右の戸棚を見ろ。羊羹がある』
菜々が顔を上げた。
「それ……昨日、見つけました。祖父が生前、隠していた羊羹。家族は誰も知らなかった」
富子は、壺へ両手を伸ばした。
「茂さん。まだ、いるのね」
凛音の胸が、少しだけ痛んだ。
偽物だ。
そう言うのは簡単だった。
けれど、富子がいま聞いているのは、音だけではない。亡くなってから一度も返ってこなかった返事を聞いている。
仙石は、治療の最後に透明なボトルを差し出した。
「膝の痛みには、こちらを続けてください。身体が、本来の波動を思い出す水です」
「また、三本お願いします」
菜々が立ち上がった。
「おばあちゃん。一本三十万円だよ。前の分だって、まだ払い終わってない」
「命と比べたら、安いよ」
「おじいちゃんは、そんなこと言わない」
「言ったんだよ。この壺から」
富子の声が、固くなった。
家族を拒む声だった。
治療院を出たあと、凛音たちは三枝家へ移った。
壺は購入者である富子の同意を得て、居間の座卓へ置いた。
富子は腕を組み、凛音を見ている。
「声優さんなんだってね」
「はい」
「茂さんの声も、真似できるの」
凛音は答えに迷った。
富子が言う。
「できるなら、やってみなさい」
菜々が止めようとした。
富子は首を振った。
凛音は、生前動画を十秒、聞いた。
口の形を作る。
舌の位置。鼻へ抜ける息。年を取って少し乾いた喉。
「富ちゃん」
富子の顔が、崩れた。
凛音の喉から、亡き夫の声が出ている。
「梅の枝は、まだ切るな」
富子は座布団を掴み、凛音へ投げた。
「やめて!」
座布団は、凛音の膝へ落ちた。
「その声を、勝手に使わないで」
「……すみません」
自分から求めたことを、富子はもう覚えていないようだった。
それほど、似ていた。
それほど、残酷だった。
黒瀬が壺を横にした。
底へ薄い板を当て、菜々のスマートフォンから音を流す。
壺の内側から、声が鳴った。
凛音は机の下へ潜り、小さな振動板を見つけた。座卓の裏へ貼られ、壺の底へ触れる位置にある。無線受信機と、小型の電池。
凛音が仙石の祈祷声を真似し、同じ角度から壺へ声を当てる。
音は陶器の中を回り、声の出どころが消えた。
菜々が、震える息を吐いた。
「やっぱり、偽物だった」
「真似できるから、偽物とは限らないよ」
富子が言った。
「この機械を付けたのが、人間でも。茂さんが、それを使って話してるかもしれない」
「おばあちゃん」
「私が、そう信じて、誰に迷惑をかけるの」
「六百万円のローンを、私たちが返すんだよ」
「壺の声は、毎月、会話を増やします」
黒瀬が契約書を指した。
「最初は名前だけ。次は思い出。三回目から、故人が商品を勧める。壺を信じるほど、故人の言葉で高い契約を結ばされる構造だ」
富子の顔が強張った。
「茂さんは、私を騙さない」
「茂さんではない人間が、茂さんの声で騙す」
「同じことだよ」
「違います」
黒瀬の声は冷たかった。
凛音は、彼の袖を引いた。
正しい。けれど、正しさだけを置けば、富子の前から夫がもう一度死ぬ。
黒瀬は一度、口を閉じた。
それから、少しだけ言い直した。
「違うと、証明する。選ぶのは、そのあとでいい」
富子は壺を抱き寄せた。
「あの人と話せるのは、ここだけなんだよ」
部屋の隅に、亡き夫の座椅子があった。
くぼんだ背もたれ。畳んだ新聞。眼鏡だけが、布の上へ置かれている。
黒瀬は、何も言わなかった。
説得できない人間を、合理性で切ることだけはしなかった。
代わりに、契約書を読んだ。
無料健康相談では、家族構成、病歴、故人との思い出を細かく書かせる。『波動診断資料』として、生前の動画や音声も預ける。
菜々の家族は、祖父の一周忌動画を業者へ送っていた。
右の戸棚の羊羹は、その動画の最後に映っている。祖父が、カメラへ向かって隠し場所を話していた。家族は長い映像を最後まで見ていなかった。
「秘密は、家族しか知らないんじゃない」
黒瀬が言った。
彼は、菜々の許可を得て、健康相談サイトの利用履歴を開いた。
家族動画を送った翌日、外部の音声編集会社へデータが転送されている。ファイル名は『故人音声・男性七十代・温厚』。その三日後、壺の初回調整が行われた。
仙石本人の端末から送られた記録はない。受付を運営する別会社が、患者情報と音声をまとめていた。
「仙石は、声を作っていない」
凛音が言う。
「知らない可能性もありますか」
「ある。だから、いま詐欺師と決めるな」
「先生が、人を決めつけない」
「驚くところではない」
「成長を見守っています」
「家賃を払ってから見守れ」
今月分は、まだだった。
「家族が、知らないうちに渡している」
契約先は、『光輪生活研究所』。
登記上の住所を調べると、埼玉の古い倉庫だった。
三か月前まで、その倉庫を使っていた法人名は、『安寧の光』。
解散後、壺、音響機器、顧客名簿の一部を、光輪生活研究所が一括で買い取っている。
「教団がなくなったから、救いを売る人間も消えたと思った?」
黒瀬は、壺の底で浮いている金箔を指した。
「ここを確認していいか」
富子は、壺を抱いたまま、しばらく黙っていた。
やがて、「好きに見ればいい」と差し出した。
黒瀬が浮いていた端へ爪を掛ける。細く剥がれた。
その下に、輪と放射線を組み合わせた刻印があった。
凛音は見覚えがある。
『安寧の光』の印だった。
礼拝堂の壇上。覚王寺環の背後。死者の声が降りた天井。あの印は、どこにでもあった。
教団で救いを失った人間が、別の場所で同じ印へ引き寄せられている。
人は、騙されたと知った翌日から、何も信じずに生きられるわけではない。空いた場所へ、次の物語が入る。
菜々が、治療院で受け取った水のボトルを出す。
底にも、同じ印が刻まれている。
黒瀬は、二つを並べた。
金色の壺。
透明な水。
見た目も、値段も、売り文句も違う。
同じ台本から作られていた。
「教祖は消えた」
黒瀬が言った。
「だが、台本は、別の役者へ渡った」




