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第6話 幽霊より怖いのは、書かなかった真実

「あなた、ここで、何を見たんですか」


ラジカセの中で、十年前のノイズが回っている。


黒瀬は再生ボタンへ手を伸ばした。


止めるのかと思った。


逆だった。


音量を上げた。


『警察には言うな。俺が見たことは、俺が書く』


十九歳の黒瀬恒一郎の声が、もう一度、ボイラー室へ流れた。


今より少し高い。強がるため、語尾を短く切っている。怖い人間が、怖くないふりをするときの声だった。


その直後。


遠くで、子どもが泣いた。


『お母さん』


細い声だった。


『お母さん、ここ、寒いよ』


折笠千春が、壁へ手をついた。


「雫」


声は一度だけだった。


続いて、金属が床を擦る音。客室ベル。三回短く鳴る警報。男たちの荒い息。


そして、何か重いものを運ぶ足音。


テープは、そこで大きな雑音に飲まれた。


千春は、ラジカセから目を離さない。


「私は、こんな録音をしていません。あの子の声も、十年ぶりに聞いた」


凛音は黒瀬を見た。


「先生」


黒瀬は、逃げなかった。


「四階の廊下にいた」


「それだけですか」


「父の取材に同行していた。深夜、四〇四号室のほうで、大きな音がした。部屋を出たら、従業員が三人、小さな身体を白いシーツで包んで運んでいた」


「どこへ」


「この通路を通って、湖側の非常口へ」


千春の爪が、壁の木を引っかいた。


「雫だったんですか」


「顔は見ていない。赤い長靴だけ見えた」


「警察には」


「言わなかった」


短い答えだった。


言い訳を入れる場所すら作らない声だった。


凛音の喉が熱くなった。


「どうして」


「巻き込まれるのが怖かった」


「それで、小説にしたんですか」


黒瀬の眉が、ほんの少し動いた。


「……ああ」


黒瀬恒一郎のデビュー作、『童話の湖』。


湖畔のホテルで少女が消え、若い作家だけが真相を知っている話。新人賞を取り、初版は発売一週間で重版。黒瀬を十九歳の天才にした作品だった。


凛音も読んだことがある。


読後、夜の湖が怖くなった。


あの怖さは、誰かが本当に見た光景でできていた。


作中では、少女の長靴は黄色だった。ホテルの名前も、湖の形も変えてある。けれど、若い作家が廊下の角から白い布を見る場面だけは、いま聞いた黒瀬の話と同じだった。


凛音は、あの一節を好きだった。


真実を言えない主人公が、最後に原稿用紙へ向かう。臆病でも、書くことで誰かを救えるのだと、当時の凛音は信じた。声優のオーディションで落ちた帰り、文庫本を開き、何度も読み返した。


そのページの向こうで、現実の母親は十年間、娘の行方を探していた。


「書いたから、伝えたつもりですか」


「そう思いたかった」


「作品にしたら、言わなかったことが、なかったことになると?」


「そう思いたかったと言った」


「売れたんですよね」


「ああ」


「賞も取って、先生は天才になった」


「ああ」


「折笠さんには、何も返してない」


「返せるものがないと思った。今なら、それも逃げだとわかる」


黒瀬は、凛音を見た。


いつものように、正しい順番も、合理的な理由も並べなかった。


「先生は、人として最低です」


「作家としての評価と分けてくれ」


「両方です」


「そうか」


黒瀬は、それ以上、何も言わなかった。


冗談の形をしていたが、誰も笑わなかった。


千春が、ラジカセを止めた。


「喧嘩は、あとにしてください。雫が、どこにいたのか、知りたい」


母親の声だった。


凛音は息を吸った。


怒りを喉の奥へ押し込み、テープを最初から聞き直した。


声は証拠にならない。


けれど、音は場所を持っている。


「子どもの声の後ろに、三つ、音があります」


凛音は、もう一度、雫の声を聞いた。


十歳にもならない喉。寒さで歯が触れ、息が浅い。泣き叫んでいない。誰かに見つからないよう、声を小さくしている。


同じ声を出そうとして、やめた。


死んだ子の最後の声を、母親の前で借りることはできなかった。


代わりに、背景音だけを喉へ並べる。


「三つ、音があります」


凛音は、指を一本立てた。


「ボイラーの圧力警報」


二本目。


「客室ベル」


三本目。


「湖側の換気口を風が抜ける音」


黒瀬が保守日誌を開く。


「三つが同じ大きさで聞こえる場所は」


「探します」


四〇四号室へ戻った。


凛音は、テープの警報を喉で再現した。


短く三回。長く一回。


「ピッ、ピッ、ピッ――ピー」


次に、古い客室ベルの金属音。


舌を上顎へ当て、息を弾く。


最後に、換気口を通る風。


低い唸りへ、細い笛のような音を重ねた。


黒瀬は廊下を歩き、録音機の数値を見た。


千春は四〇四号室に残り、目を閉じていた。


同じ音を、隣の使用人通路、三階のリネン庫、地下のボイラー室で繰り返す。


黒瀬は秒数と音量を書き続けた。


凛音が警報を一度鳴らすたび、彼は階段を一つ上がり、壁へ耳を当て、また走る。三周目には息が上がっていた。


「先生、運動不足です」


「作家は、脳で移動する」


「いま、身体が置いていかれてます」


「黙って鳴け」


「機械扱いしないでください」


口はいつも通りだった。


けれど、黒瀬は凛音の顔を見なかった。怒りが消えていないことを、彼なりに知っている。そう思うと、余計に腹が立った。


一時間後。


黒瀬が、四〇四号室の隣にある、図面上は壁になっている場所を指した。


「ここだ」


鏡の裏の通路から、さらに細い扉が分かれていた。


鍵は錆びていたが、柏木支配人の立ち会いのもと、ホテルの設備担当が切断した。


中は、二畳ほどの使用人室だった。


古い交換機。客室ベルの表示板。湖側へ抜ける換気口。床には、ボイラー警報用の配線が走っている。


三つの音が、ここへ集まっていた。


壁には、小さな釘が一本残っていた。


その下だけ、壁紙の色が違う。


「録音機が掛けられていた」


黒瀬が言った。


「誰かが、最初から、ここで録るつもりだった」


凛音は、四〇四号室との間の壁へ耳を当てた。


薄い。


子どもが隣で囁けば、はっきり入る。


「雫さんは、湖にいなかった」


千春が、使用人室の入口で崩れそうになった。


凛音は支えようとした。


千春は首を振った。


自分の足で立っていたかったのだろう。


黒瀬は、机代わりの木箱へ資料を並べた。


十年前の保守日誌。


二号ボートの点検票。


四〇四号室の改装費。


事故当夜の宿泊者名簿。


そして、黄ばんだ大学ノート。


『童話の湖』を書く前の、黒瀬自身の取材メモだった。


「ボートは、エンジンを外されていた。事故には使えない。千春さんは夜勤中で、出航記録もない。なのに翌朝、ホテルは『母娘がボートで湖へ出た』と発表した」


黒瀬は、改装費の一行を指した。


『四〇四号室 窓枠一式 緊急交換』


日付は、雫が消えた翌日。


支払いは、ホテルの帳簿ではなく、当時の社長の個人口座から出ていた。


「事故の翌日、どうして窓枠を全部替えた」


柏木の顔から、血の気が引いた。


「老朽化です」


「なら、通常の修繕費へ入る。なぜ個人払いだ。なぜ工事写真がない。なぜ、四〇四号室は、その日から四か月閉鎖された」


柏木は答えなかった。


凛音には、息が喉の手前で止まる音が聞こえた。


知っている人間の沈黙だった。


黒瀬は、自分のノートを開いた。


十九歳の字で、短い一文がある。


『赤い長靴。窓の下。白いシーツ。柏木、左手から血』


柏木の左手が、反射的に握られた。


「俺は、これを見た」


黒瀬は言った。


「当時の聴取では、何も見ていないと答えた。父にも、ホテルにも脅されたわけじゃない。俺が、自分で黙ることを選んだ」


「先生の、お父様は」


「『事実は警察に渡せば一度で終わる。物語にすれば、何万人も覚える』と言った」


「だから従った?」


「従ったほうが、臆病な自分を、作家の選択に見せられた」


凛音は、何も言えなかった。


黒瀬は父に操られた被害者かもしれない。


それでも、十九歳の黒瀬が選んだ沈黙まで、父のせいにはできない。


黒瀬自身も、そうしていなかった。


「十年前、警察へ言わなかった。今日、証言する。俺の小説ではなく、俺の名前で」


柏木の肩が落ちた。


長い時間をかけて、古い建物が沈むように。


「……私は、当時、夜勤の責任者でした」


声は、ほとんど聞こえなかった。


「二時十四分。四〇四号室から、窓の落ちる音がした。駆けつけると、雫ちゃんが、床に倒れていた。窓枠が腐っていた。前の週に、危ないと報告していた。社長は、繁忙期が終わるまで部屋を使えと言った」


千春の唇が、震えた。


「生きて、いたんですか」


柏木は、首を横へ振った。


「救急車を呼ぼうとした。でも、社長が止めた。安全管理の記録が出れば、ホテルは終わる。母親が夜勤で、湖が近い。事故にできる、と」


柏木は、その夜の順番を、途切れ途切れに話した。


雫の身体を使用人通路から湖側の取水桟橋へ運んだこと。夜勤中の千春を『娘が湖へ落ちた』と呼び出したこと。千春が湖へ飛び込み、救助された事実を、母娘でボートへ乗った証拠に作り替えたこと。


動かない二号ボートは、夜明け前に湖畔へ引き出された。出航したようにロープを濡らし、帳簿の時刻を書き換えた。


雫の身体をどこへ沈めたのか。


柏木は、答えられなかった。


そこから先は、社長と二人の従業員が行った。二人はすでに亡くなり、当時の社長も三年前に死亡している。


真実が遅すぎたせいで、聞ける口が減っていた。


柏木は、ボイラー室の奥へ歩いた。


古い工具棚の底板を外す。


布に包まれた、木と真鍮の部品が出てきた。


割れた窓枠の一部。曲がった留め金。白い塗装の剥げた、小さな金具。


もう一枚、折り畳まれた作業指示書。


『四〇四号室窓枠を撤去。事故記録へ記載しないこと』


当時の社長の署名があった。


「捨てられなかった。出すことも、できなかった」


柏木は、千春へ向けて頭を下げた。


千春は、見ていなかった。


窓のない使用人室の壁を見ていた。


その向こうに、十年前の娘がいるように。


午後、県警の捜査員がホテルへ入った。


雫の死亡と事故偽装は、正式に再捜査されることになった。


黒瀬は、取材ノートとデビュー作の初稿を提出した。


雛形は、ホテルの玄関で初稿の束を受け取り、しばらく表紙を見ていた。


「先生。これ、編集部にも保存がありません」


「父が持っていた。俺の部屋から見つかった」


「出したら、デビュー作の評価も、先生の名前も、無傷では済みませんよ」


「知っている」


「本当に?」


「知らないふりをしてきた期間なら、十年ある」


雛形は、それ以上止めなかった。クリップを外し、捜査員へ渡した。


聴取室へ入る前、黒瀬は凛音を見た。


「行ってくる」


「はい」


黒瀬は扉へ向かい、途中で止まった。


「凛音」


「何ですか」


「お前が怒っていることは、わかる」


「珍しいですね。人の感情が読めたんですか」


「声が大きい」


「最低です」


「それも、わかる」


今度こそ、黒瀬は聴取室へ入った。


謝罪ではない。


許しを求める言葉でもない。


ただ、自分が何を壊したか、ようやく見ようとしている声だった。


許す言葉は出なかった。


頑張れという声も、借りたくなかった。


だから、それだけだった。


夕方。


千春は、白い衣装を脱いでいた。


普通の灰色のコート。濡れていない髪。幽霊ではなく、一人の母親だった。


湖畔のボート乗り場に、雫が履いていたものと同じ、小さな赤い長靴が一足、置かれている。


千春は、その前に立っていた。


「ありがとうございました」とは言わなかった。


黒瀬を許すとも、ホテルを許すとも言わなかった。


ただ、赤い長靴の向きを揃えた。湖ではなく、ホテルのほうへ爪先を向けた。


十年間、雫は湖で消えた子どもとして語られてきた。


今日からは、ホテルの中で亡くなり、大人たちに隠された子どもとして記録される。


真実になったからといって、母親が抱ける身体が戻るわけではない。


風が湖面を撫でた。


返事はなかった。


帰りの列車。


凛音と黒瀬は、同じ向きに座り、別々の窓を見ていた。


「まだ、許してません」


「妥当だ」


「先生が言うと、腹が立ちます」


「それも妥当だ」


凛音は、膝の上の録音機を握った。


「でも、仕事は続けます」


黒瀬が、初めてこちらを見た。


「それも、妥当だ」


距離は戻らなかった。


切れもしなかった。


列車がトンネルへ入る。


窓が鏡になり、二人の顔を並べた。


凛音は、最後にもう一度、カセットの音声をイヤホンで聞いた。


若い黒瀬の声。


子どもの声。


足音。


ノイズ。


そのノイズの底に、今まで聞こえなかった低い声がある。


凛音は再生速度を落とし、片耳のイヤホンを黒瀬へ渡した。


『書け、恒一郎』


男の声だった。


『観客は、子どもが死ぬ話を忘れない』


黒瀬の顔から、色が消えた。


「誰ですか」


トンネルを抜ける。


夕暮れの光が、窓へ戻った。


黒瀬は、イヤホンを外さないまま言った。


「父だ」


十年前に失踪した、黒瀬誠司の声だった。


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