第5話 幽霊の声は、壁の中を歩く
『あの人は、あなたを死なせる』
録音機から、女の囁きが流れた。
四〇四号室の空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
凛音は再生を止め、黒瀬を見た。
「説明してください」
「何を」
「十年前、このホテルにいたんですか」
黒瀬は、揺れていた鏡へ目を向けた。
「いた」
あまりにも簡単に認めたので、凛音のほうが言葉を失った。
「十九歳のときだ。父の取材に付き合わされた。三泊した」
「折笠雫さんが消えた夜も?」
「……その話は、今する必要がない」
「必要があるかどうかを、先生が決めないでください」
「事件の解決に必要な順番がある」
「人の過去まで構成しないで」
凛音の声が、一瞬、別人になった。
怒る母親の声だった。
自分の怒りを、自分の声で出せなかった。
黒瀬は何も言い返さず、録音機を受け取った。波形を確認し、女の囁きの直前で停止する。
「ここだけ、室内の反響が違う」
「話を逸らしてます?」
「女の声は、お前の右耳の近くで録れている。だが、映像では女は壁際にいた。距離が合わない」
凛音は、壁を見た。
昨夜、女が消えた場所。
古い鏡が掛かっている。
「壁の中に、音を出す場所がある」
黒瀬は鏡の縁へ指を入れた。
動かない。
「それを見つければ、女の出入り口もわかる」
「先生の十年前も?」
「それは別件だ」
「同じホテルで、同じ死んだ子の事件です」
「別件だ」
黒瀬の声は、固かった。
凛音は、それ以上聞かなかった。
聞けなかったのではない。
今、問い詰めれば、この男はもっと深く黙る。声でわかった。
翌朝。
凛音は、大家の田所源次へ電話をかけた。
『何だい。家賃なら、もう受け取ったぞ』
「家賃以外で相談です。古い木造ホテルの壁から、声が別の階へ移動することってありますか」
『壁から声? 隣の客がうるさいだけじゃないのか』
「四〇四号室で泣いた子どもが、三階のリネン庫からも聞こえるんです」
電話の向こうで、田所が黙った。
『そのホテル、戦前の建物か』
「そうです」
『なら、暖房管か、伝声管だな。昔の旅館や劇場には、壁の中に声を通す管があった。呼び鈴の代わりに、厨房や使用人室へ話を飛ばす。増築で塞いでも、管だけ残ることがある』
「田所さん、詳しいですね」
『若い頃、舞台大工をやってたんだよ。建物ってのは、表から見ると部屋の集まりだが、裏から見ると、人と音を運ぶ道具だ』
凛音は、その言葉をメモした。
黒瀬が横から電話を取り上げる。
「大家が初めて、家賃以外で役に立った」
『先生。今度、あんたの部屋の床だけ抜いてやろうか』
「脅迫だな」
『舞台効果だ』
通話が切れた。
凛音は黒瀬の脇腹へ肘を入れた。
「人の大家さんに、何を言ってるんですか」
「事実だ」
「先生は、役に立つ前に感じが悪い」
調査は、声を使った測量になった。
凛音が四〇四号室で、例の子どもの声を出す。
「お母さん、開けて」
黒瀬は廊下、三階、地下へ移動し、聞こえ始めるまでの時間と音量を記録する。
次は、三階のリネン庫。
次は、大階段の踊り場。
同じ声。同じ音量。同じ言葉。
出す場所を変えるたび、別の壁から遅れて声が戻ってきた。
黒瀬のノートに、線が増えていく。
四〇四号室から三階のリネン庫。そこから地下のボイラー室。さらに湖側の非常口。
線をつなぐと、客室の図面にはない細長い空間が浮かんだ。
「使用人通路です」
凛音が言った。
「ああ。客の目に触れず、薪、洗濯物、食事を運ぶ道だ。改装で入口だけ塞いだ」
「白い女は、ここを通った」
「泣き声も、ここから流した」
そのとき。
四〇四号室の中から、オルゴールが鳴った。
昼の十一時だった。
二人は顔を見合わせ、階段を上がる。
扉は施錠されている。
中で、古い子守唄が流れていた。
黒瀬が支配人から借りた鍵を差す。
扉を開けた瞬間、音が止まった。
代わりに、廊下の奥から続きが聞こえる。
同じ旋律。
ゆっくり、壁の中を遠ざかっていく。
凛音は音程を拾った。
口を閉じたまま、鼻腔で同じ旋律を鳴らす。
壁へ近づき、響きが重なる場所を探す。
「ここ」
昨夜、白い女が消えた鏡の前だった。
凛音が旋律を半音上げる。
鏡の裏から、細い共鳴が返る。
黒瀬は縁を調べ、下側に小さな金具を見つけた。
押す。
鏡が、音もなく手前へ開いた。
奥に、狭い通路があった。
古い木の壁。錆びた管。人一人が横向きで通れる幅。
冷たい空気が流れてくる。
黒瀬は懐中電灯を点け、凛音へ渡した。
「先に行け」
「先生、またですか」
「能力配分だ。お前は幽霊担当。俺は遺書担当」
「どっちも前に行きたくないだけでしょう」
「合理的な役割分担だ」
凛音が通路へ入る。
背後から、黒瀬がぴったりついてきた。
「近いです」
「狭い」
「怖いなら、そう言ってください」
「狭い」
通路の壁には、細い金属管が何本も走っていた。
途中に、小型のスピーカー。タイマー。無線受信機。床近くには透明な管があり、先端が四〇四号室の扉の下へ伸びている。
黒瀬が管を持ち上げた。
中には、湖の水と黒い泥。
「足跡は、これだ。一定量の水を床へ出し、裏側から型を押す」
「子どもの足形」
「幽霊は設備費がかかる」
「報酬、払ってくれそうですね」
「犯人が依頼人ならな」
三階の裏側まで進むと、白い布、濡れた鬘、細い滑車があった。
壁の隙間から大階段を見下ろせる。
白い布を滑車へ掛け、照明を落とせば、踊り場に立つ女の形ができる。別の場所では本人が姿を見せる。
同時刻に撮られたとされた二本の動画は、黒瀬が元データを調べると、カメラの内部時計が四十七秒ずれていた。
一人でも移動できる。
そこへ、支配人の柏木が駆け込んできた。
手にしたタブレットには、今朝投稿されたばかりの動画が二本並んでいる。
一方は三階の廊下。白い女が、リネン庫の前を横切る。
もう一方は四階の大階段。同じ女が、同じ時刻に立っている。
「またです。今度は昼間に、二か所で」
柏木の額には汗が浮いていた。
「これ以上は、営業に関わります。調査は中止してください。四〇四号室も、地下も、立ち入りを――」
「なぜ地下と言った」
黒瀬が訊いた。
柏木の口が止まる。
誰も、地下を調べているとは伝えていない。
凛音は、柏木の喉が鳴るのを聞いた。
「支配人。あなた、この通路を知っていますね」
「古い建物です。似たような空間がある可能性を」
「今の『可能性』は、知らない人の声じゃありません」
柏木は、凛音を見た。
その目に浮かんだのは怒りではない。
恐怖だった。
十年前に閉じた扉を、誰かが内側から叩いている。そんな顔だった。
「本日の調査は、ここまでにしてください」
柏木は、それだけ言って去った。
黒瀬は二本の動画を停止し、画面の隅を拡大した。
三階の映像では、柱時計が十一時三分。四階の映像では、同じ時刻表示の横で、清掃員の腕時計が十一時四分を指している。
「幽霊は時間を二つ持っている」
「ただの時計ずれですね」
「ああ。奇跡は、時刻設定を直すと死ぬ」
「幽霊は一人です」
凛音が言った。
「少なくとも、演じている人間はな」
通路は地下のボイラー室へ続いていた。
行き止まりに、古い戸棚がある。
中には、保守日誌が数冊。十年前の改装図。小さなカセットテープ。
テープには、日付だけが書かれていた。
折笠雫が消えた日。
「これは、私が置いたものじゃない」
背後から声がした。
凛音が振り返る。
白い服の女が立っていた。
今は、濡れた鬘を外している。
黒髪に白いものが混じった、四十代半ばの女。
「折笠千春さんですね」
黒瀬が言った。
女は頷いた。
折笠雫の母。十年前、このホテルで客室係として働いていた。
「幽霊を作ったのは、あなたですか」
凛音が訊く。
「ええ」
千春は、隠すことなく答えた。
「娘がいなくなった夜から、ホテルは、あの子が湖で死んだと言い続けた。ボートから落ちた、と」
「あなたも、一緒に湖へ出たと記録されています」
「出ていない」
千春の声が震えた。
「あの日、夜勤だった。雫は四〇四号室で待たせていた。二時過ぎ、支配人に、娘がボートから落ちたと言われた。私は湖へ飛び込んだ。だから、救助された記録だけは本当。でも、ボートに乗ってはいない」
黒瀬が、保守日誌を開いた。
該当日のページ。
『二号ボート、船底亀裂。エンジン取り外し。出航不可』
整備担当者の署名がある。
「事故に使われたとされたボートは、動かなかった」
「あの子は、湖で消えていない」
千春の声が、細くなる。
「ホテルの中で、何かがあった。私はそう言った。でも、事故の衝撃で混乱しているとされた。翌月、解雇された。警察へ出した手紙も、消えた」
「それで、幽霊になった」
「普通の母親の言葉は、誰も聞かなかったから」
千春は、白い衣装を見た。
「死んだ子の母親になれば、かわいそうだと言われる。怒れば、取り乱していると言われる。だから、死んだ子本人になるしかなかった」
千春は、白い服のポケットから、小さな真鍮の鍵を出した。
丸い札に、『四〇四』と刻まれている。
「雫が持っていた鍵です。事故のあと、湖ではなく、この通路の入口で見つかった。でも、ホテルは記録に入れなかった。なくしたことにされた」
凛音は、鍵を受け取らなかった。
千春の手の中で、十年分、母親の体温を吸った鍵だった。
「動画を広めたかったわけじゃない。夜勤の人たちに、思い出してほしかっただけ。あの夜、見たものを、一人でも話してほしかった。でも、客が撮った。再生数が増えて、みんなが面白がった。雫の声が、また、見世物になった」
最後の言葉だけ、千春の声は、幽霊ではなく母親のものだった。
凛音は、何も言えなかった。
真実を伝えるために、嘘の声を借りる。
それは、自分がやっていることと、よく似ていた。
黒瀬がカセットを持ち上げる。
「これは?」
「知らない。通路を使い始めたときには、戸棚の奥にあった。怖くて、聞けなかった」
「昨夜、凛音へ警告したのは」
千春は、黒瀬を見た。
「あの夜、あなたを見たから」
黒瀬の表情が消えた。
「十九歳のあなたが、四階の廊下にいた。雫が消えたあと、この通路から出てきた人間を見ていた。なのに、警察へ何も言わなかった」
「……誰を見た」
「それを知っているのは、あなたでしょう」
千春は通路を戻っていった。
白い服の裾が、暗闇へ消える。
凛音は、黒瀬を見た。
「先生」
「テープを聞く」
また、順番を決めた。
黒瀬はボイラー室に残されていた古いラジカセへ、カセットを入れた。
再生ボタンを押す。
最初は、ノイズだけだった。
遠くで、客室ベルが鳴る。
ボイラーの警報。
走る足音。
男たちの、聞き取れない声。
そして、一人の若い男が、はっきり言った。
『警察には言うな』
凛音の背中が冷えた。
今より高い。
少年の名残がある声。
それでも、言葉の前に息を止める癖。子音を強く置き、最後の母音を短く切る話し方。
毎日、聞いている。
間違えるはずがない。
テープの若い声は続けた。
『俺が見たことは、俺が書く』
凛音は、隣の男を見た。
「先生。これ、十九歳の、あなたの声ですよね」
黒瀬は答えなかった。
ラジカセの中で、十年前のノイズだけが回り続けていた。
「あなた、ここで、何を見たんですか」




