第4話 四〇四号室から、死んだ子どもが泣いている
『十年間、誰も入れていない四〇四号室から、毎晩二時十四分、子どもの泣き声がします。宿泊客が動画を投稿し、予約が半分になりました。幽霊を、消してください。』
相談文を読み終えた黒瀬恒一郎は、三秒で言った。
「断れ」
教団『安寧の光』の事件から、一週間が過ぎていた。
事件を扱った週刊誌は、黒瀬を『神を暴いた天才作家』と書いた。実際に神の声を再現した凛音の名前は、本人の希望で伏せられている。
その結果、黒瀬の公式サイトへ、相談が殺到した。
亡くなった父が夢に出る。向かいの家の植木鉢が毎朝三センチ動く。飼い犬が自分より先に帰宅する。元恋人のSNSが、別れた後も自分の悪口だけ正確に予言する。
雛形皐月が、その中から「取材になるもの」だけを選び、応接室のテーブルへ置いていた。
凛音は、四〇四号室の相談文をもう一度見た。
「先生。幽霊ですよ」
「だから断る。幽霊は契約能力がない。報酬の未払いが予想される」
「依頼人はホテルです」
「なら、ホテルが自分で追い出せ」
雛形がタブレットを操作した。
「成功報酬、八百万円」
黒瀬の目が、ほんの少し動いた。
「それから、事件が解決した場合、全客室に先生の新刊を一冊ずつ常備。ホテルの公式サイトで特集。ロビーに著者サイン入り大型パネル」
「依頼の詳細を聞こう」
凛音は、黒瀬を見た。
「信念は?」
「重版に変わった」
雛形はため息をつき、資料を二人の前へ滑らせた。
依頼元は、湖畔の老舗ホテル『コーネリア湖西』。
戦前に建てられた木造本館を残し、増改築を重ねてきた。十年前から、四階の旧貴賓室、四〇四号室は封鎖されている。
理由は、水難事故。
当時八歳だった折笠雫という少女が、ホテルのボートで湖へ出て行方不明になった。母親は救助されたが、雫の遺体は見つからなかった。
その夜から、四〇四号室で子どもの泣き声がするという噂が始まった。
長い間、従業員の間だけの話だった。
ところが一か月前、宿泊客が廊下で声を録画し、動画を投稿した。
画面には誰もいない。
鍵のかかった扉の向こうから、子どもが言う。
『お母さん、開けて』
再生数は、三百万を超えていた。
凛音はイヤホンを耳へ入れ、三度聞いた。
幼い女の子の声。鼻をすすり、息を詰まらせ、最後の「て」だけが細く伸びる。
その後ろで、かすかに、別の音がする。
人が息を吸っている。
「録音ですね」
黒瀬が言った。
「まだ、そうとは限りません」
「死者の声なら、なおさら録音だ。生中継の設備がない」
「先生、幽霊を怖がってます?」
「合理性のない存在を嫌っているだけだ」
「人間も嫌いですよね」
「同じ理由だ」
翌日。
二人は、湖へ向かう特急列車に乗った。
凛音は窓側。黒瀬は通路側。
出発して十五分で、黒瀬は資料を読みながら眠った。腕を組み、眉間に皺を寄せ、夢の中でも誰かの矛盾を指摘しているような顔だった。
凛音は、向かいの窓へ映る自分を見た。
『安寧の光』の事件が終わってから、オーディションの連絡は一つもない。
家賃は払えた。
それでも、声優としての明日は、何も決まっていない。
黒瀬の隣で事件を調べる仕事は、奇妙なくらい、自分の声を必要としてくれる。
けれど、それを仕事だと認めた瞬間、声優を諦めるような気がした。
「考えごとか」
黒瀬が目を閉じたまま言った。
「起きてたんですか」
「お前は黙ると、呼吸がうるさい」
「先生は寝言まで失礼ですね」
「寝ていない」
五分後、黒瀬は本当に寝息を立てた。
『コーネリア湖西』は、霧の中に建っていた。
湖を背にした木造四階建て。濃い茶色の柱。磨り減った石段。玄関の上に、金色の古い看板。雨は降っていないのに、軒下から水が落ちている。
中へ入ると、濡れた木の匂いがした。
ロビーには大きな柱時計。針が進むたび、建物の奥で別の何かが軋む。
支配人の柏木隆二が出迎えた。
四十八歳。銀縁の眼鏡。笑顔は丁寧だが、握手する手が冷たい。
「黒瀬先生。お越しいただき、ありがとうございます」
「四〇四号室へ案内してくれ」
「お部屋でお茶を――」
「四階の階段は、ロビーの右奥だな」
柏木の笑顔が、一瞬だけ止まった。
凛音も、黒瀬を見た。
案内板は左側にある。四階への階段が右奥だと、まだ誰も説明していない。
黒瀬は気づかないふりをして歩き出した。
「先生。来たこと、あります?」
「古いホテルの階段は、玄関から離して置く。防火上の定型だ」
「このホテル、戦前の建物ですけど」
「昔の人間にも火は見えた」
返事は早かった。
早すぎた。
四階の廊下は、ほかの階より天井が低い。
赤い絨毯。壁には湖の風景画。突き当たりに、四〇四号室がある。
扉には真鍮の札。鍵穴には白い封印紙が貼られていた。
「十年前の改装以降、客室としては使っておりません」
柏木が言った。
「鍵は支配人室の金庫に一本。予備は本社保管です」
「動画が撮られた夜は?」
「扉は施錠されていました。封印も無傷でした」
「声がする時刻は、毎回二時十四分?」
「はい。正確に」
黒瀬が廊下の窓から湖を見た。
「折笠雫が消えた時刻と同じだな」
柏木の喉が、わずかに鳴った。
「事故の通報が入った時刻です」
凛音は、その音を聞いた。
隠している。
何を隠しているかは、わからない。
黒瀬が手帳を閉じた。
「今夜、ここを空けろ。従業員の巡回は通常通り。客には知らせるな」
「先生。危険は」
「幽霊に殺された場合、契約の免責条項を確認する」
「怖いんですね」
「法務の話だ」
午後十一時。
凛音は、白いワンピースに着替えていた。
黒瀬が、ロビーのソファから顔を上げる。
「なぜ着替えた」
「囮です。白い服の女が出るなら、同じ格好の人間を置いたほうが、目撃証言を整理できます」
「楽しんでいるだろう」
「幽霊役のオーディション、受かりました」
凛音は髪を下ろし、顔色を薄く見せる粉を頬へ乗せた。
鏡の中の自分は、声優になる前、舞台で演じてみたかった役に少し似ていた。
「先生。似合います?」
黒瀬は、二秒ほど見た。
「暗闇なら」
「褒める能力が欠落してます」
二人は、小型カメラを廊下の角へ設置した。
四〇四号室の前。大階段。三階へ下りる踊り場。リネン庫の入口。
午前一時五十分。
ホテルの照明が落ち、非常灯だけになる。
廊下の赤い絨毯が、黒く沈んだ。
一時五十八分。
下の階で、夜勤従業員の足音。
二時七分。
湖から風が吹き、窓枠が鳴った。
二時十三分。
柱時計が、一度だけ、遠くで軋んだ。
二時十四分。
四〇四号室の内側から、子どもの声がした。
「お母さん」
凛音の肩が跳ねた。
録音で聞いた声より近い。
扉一枚の向こう。床へ座り込み、口を鍵穴に寄せているような距離だった。
「お母さん、開けて」
ドアノブが、ゆっくり回った。
封印紙は、動かない。
鍵も、開かない。
それでも、金属だけが、内側から回る。
黒瀬が、凛音の袖を掴んだ。
強かった。
「先生」
「動くな」
「掴んでます?」
「逃走を防止している」
「どっちの」
答えはなかった。
扉の下から、水が染み出した。
細い流れが絨毯へ広がり、その上に、小さな足跡が一つ現れる。
次に、もう一つ。
裸足の子どもの跡。
四〇四号室から廊下へ向かい、誰もいない床の上を、一歩ずつ増えていく。
ぺたり。
ぺたり。
足跡だけが、階段へ進む。
その先。
踊り場に、白い服の女が立っていた。
長い髪。濡れた裾。顔は、影で見えない。
黒瀬の指が、凛音の袖をさらに強く掴んだ。
「……先生。痛いです」
「合理的な判断だ」
「何がですか」
「お前を先に行かせる」
「最低」
凛音は、一歩進んだ。
白い女は動かない。
「あなた、折笠雫さんですか」
返事はない。
「生きているなら、話を聞きます。死んでいるなら……先生が聞きます」
「勝手に担当を決めるな」
白い女が、ゆっくり顔を上げた。
頬が見えた。
子どもではない。
四十代くらいの女。痩せた顔。唇が、何かを言う形に動く。
その瞬間、非常灯が消えた。
真っ暗になった。
凛音は、足音を聞いた。
右ではない。
左でもない。
壁の中を、走っていく音だった。
照明が戻ったとき、踊り場には誰もいなかった。
水の足跡も、途中で消えていた。
翌朝。
二人は録音と映像を、ロビーのテーブルへ並べた。
黒瀬は、四つの画面を同時に再生する。
「二時十四分。お前は四〇四号室の前にいる。同じ時刻、白い女は大階段に映る。お前が囮だから、少なくとも白い服の女は二人いる」
「私と、もう一人」
「ああ。幽霊が二人いるより、人間が二人いるほうが安い」
凛音は、子どもの声を再生した。
目を閉じ、同じ声を作る。
「お母さん、開けて」
四〇四号室の前で出した声が、廊下の途中で細くなり、三階へ下りる階段の壁から、もう一度聞こえた。
黒瀬が顔を上げる。
凛音は、場所を変えて繰り返した。
「お母さん、開けて」
今度は、リネン庫の奥から響いた。
声が、壁の中を歩いている。
「古い配管か、伝声管です」
「音を通す経路がある」
「録音の子どもの声には、息がありません。泣いてるのに、吸う音がない。でも、最後に別の女の呼吸が入ってる。録音を流した人は、その場にいた」
黒瀬は時刻表を広げた。
「幽霊が出るのは、必ず夜勤従業員の巡回中だ。宿泊客の前へ狙って出たことはない。動画を撮られた夜だけ、客が従業員の後をついていた」
「客を怖がらせたいんじゃない」
「ホテルの人間に、十年前を思い出させたい」
黒瀬は、支配人の柏木を見る。
「これは呪いじゃない。告発だ」
柏木の声が硬くなった。
「配管図と、十年前の改装記録を見せてください」
「それは、調査の範囲を超えます」
「幽霊を消せと言ったのは、そちらだ」
「建物の機密です」
柏木は資料を抱え、立ち去った。
凛音は、その背中を見た。
「先生。あの人、『改装記録』で息が浅くなりました」
「十年前の改装に、見られたくないものがある」
「先生も、このホテルのこと、知りすぎてます」
黒瀬は、パソコンを閉じた。
「偶然だ」
声は揺れなかった。
だからこそ、凛音は気になった。
夜。
凛音は一人で、四〇四号室へ戻った。
支配人から借りた鍵で封印を外し、扉を開ける。
十年閉じられていた部屋には、白い布をかけた家具が並んでいた。窓は湖へ向いている。床には、昨夜の水の跡がない。
凛音は録音機を窓辺へ置いた。
「いるんでしょう」
カーテンが揺れた。
風はない。
白い服の女が、窓の横に立っていた。
昨夜の女。
今度は、はっきり生身だった。
濡れた髪から水が落ち、胸が呼吸で動いている。
「あなた、誰ですか」
女は答えず、凛音を見た。
「黒瀬先生を、信用しないほうがいい」
「どうして」
「あの人は、十年前も、ここにいた」
凛音の指が、録音機の横で止まった。
「先生が?」
女は一歩、壁へ下がった。
「あなたも、同じになる」
「何が、同じに」
廊下で足音がした。
凛音が一瞬だけ扉へ目を向け、もう一度、女を見る。
消えていた。
窓は閉じたまま。
家具の陰にも、浴室にもいない。
ただ、壁際の古い鏡だけが、わずかに揺れていた。
黒瀬が部屋へ入ってきた。
「一人で動くなと言っただろう」
「先生。十年前、このホテルにいました?」
黒瀬の足が止まる。
ほんの一拍。
「誰に聞いた」
答えではなかった。
凛音は録音機を取った。
再生する。
自分の声。
女の声。
『あの人は、十年前も、ここにいた』
その後ろに、収録中には聞こえなかった囁きが残っていた。
ひどく近い。
凛音の耳元へ、口を寄せたような声。
『あの人は、あなたを死なせる』




