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第3話 その奇跡、私の喉で再現できます

封筒の中には、二つ入っていた。


一枚の写真と、一枚の古いメモ。


写真には、五歳ほどの少女が写っている。


島根の田舎家。祖父の家の縁側。真夏の日差し。庭の端に、白い芙蓉の花。少女は膝に赤いテープレコーダーを載せ、大きな口を開けて笑っていた。


時雨凛音だった。


覚えている。


板間の冷たさ。蝉の声。父がカメラの向こうで、「もう一回、笑って」と言った声。


写真の奥には、母・美津子の後ろ姿があった。縁側の柱に片手を置き、こちらを見ている。顔は半分しか写っていない。それでも、笑っていないことだけはわかった。


凛音は、メモを開いた。


『この子は声を使う。台本を与えれば、正確に再現する。重要なサンプルである。』


指先が、止まった。


この子。


サンプル。


人間の娘について書く言葉ではない。机の上に並べた試作品か、録音機材の性能表みたいな書き方だった。


「悪趣味なファンレターですね」


凛音は笑った。


明るすぎる声が出た。


昨年演じた、元気な女子高生の声だった。


「私、五歳から人気者だったみたいです。先見の明がある。サインくらい、送ってあげればよかった」


黒瀬は笑わなかった。


メモを受け取り、文字を見つめる。


「筆跡に、見覚えは」


「あるような、ないような。父の字に少し似てます。でも、父はもっと、右上がりでした。母は横書きだと、字が小さくなる」


「ここから先は、外れろ」


凛音の笑顔が止まった。


「何を言ってるんですか」


「お前の個人情報が、十二年前から教団へ渡っていた。依頼の範囲を超えた」


「だから、私が調べるんでしょう」


「だから外れろ。自分が標的になった人間は、判断を誤る」


「先生は、自分の名前が書かれた原稿を、途中で他人に渡して帰れますか」


黒瀬は黙った。


「私の名前が書いてあるんです。私の写真が入ってるんです。ここで帰ったら、私はこの先も、誰かの資料の中で『この子』のままです」


地声だった。


少し震えていた。


黒瀬は、その震えを聞いた。人の嘘も感情も読めない男が、珍しく、まっすぐ凛音を見た。


「一人では動くな」


長い沈黙のあと、そう言った。


「必ず俺を経由しろ。勝手に役を増やすな」


「先生こそ。勝手に私の出番を削らないでください」


「これは小説じゃない」


「だから、書き直しが利かないんです」


午後四時。


雛形から連絡が入った。


片桐澄江が、その夜の『天恵奉納式』で、自宅の所有権移転に必要な書類へ署名するという。


真帆が司法書士へ相談しても、本人の判断能力に問題がない以上、止めるのは難しい。奥村の帳簿は大きな手がかりだが、覚王寺が虚偽の神託で財産を奪ったと立証するには、情報の入手経路と、関連会社へ流す仕組みが必要だった。


「今夜までに、取れるものを取ります」


雛形は電話口で言った。


「弁護士は仮処分の準備。警察は、奥村さんの告発と個人情報売買の資料を精査中。ただし、先生」


『何だ』


「現場で勝手に演説を始めないでください」


『俺を何だと思っている』


「登場人物を危険な場所へ送って、自分は安全な部屋で説明する人です」


『作家だ』


「自覚があるなら結構です」


通話が切れた。


凛音は、黒瀬を見た。


「安全な部屋で説明するんですか」


「効率がいい」


「登場の仕方は、考えてくださいね」


「俺は演出も読める」


「受付には負けましたけど」


「その話は、第一稿で終わった」


夜七時。


『安寧の光』の礼拝堂には、百人近い信者が集まっていた。


前回より広い会場だった。天井は高く、白い布が幾重にも垂れている。壇上には金の輪。床には薄い霧が流れ、見上げると、光の粒が空中に浮いていた。


凛音は、真帆と最後列に座った。


澄江は最前列にいる。


膝の上に、印鑑と書類を入れた白い鞄。隣には、教団の司法書士を名乗る男が座っていた。


「お母さんを、連れて帰れますか」


真帆が囁く。


声は、もう怒っていなかった。


「わかりません」


凛音は、正直に答えた。


「でも、署名は止めます」


「止めたら、元に戻りますか」


凛音は答えられなかった。


照明が落ちた。


壇上へ、覚王寺環が現れる。


白い衣。金の刺繍。微笑み。


前回と、まったく同じ歩幅だった。


「今夜、天は、私たちへ三つの奇跡をお見せになります」


第一の奇跡。


杖をついた男が、壇上へ上がった。覚王寺が額へ手を当てる。天井から低い声が降りた。


『信じる者の痛みは、今、消えました』


男は震え、杖を落とした。


一歩。


二歩。


歩いた。


会場に泣き声が広がる。


第二の奇跡。


空中の光が一つに集まり、覚王寺の背後で、人の形になった。白い輪郭。両手を広げた誰かが、薄い霧の中へ立っている。


信者たちが、一斉に頭を下げた。


第三の奇跡。


死者の声だった。


覚王寺が、信者を一人ずつ指名する。


天井から、亡くなった母の声。兄の声。幼い息子の声。


短い言葉ばかりだった。


『泣かないで』


『薬を忘れるな』


『あの桜の下で待っている』


声が降るたび、会場のどこかで人が崩れた。


凛音は耳を澄ませた。


どの声にも、同じ位置で小さな空調音が入る。最後の音だけ、刃物で切ったように消える。録音だ。


だが、似ていた。


家族にしかわからないほど、似ているのだろう。


覚王寺が、澄江の前へ立った。


「ご主人が、いらしています」


澄江の肩が震えた。


天井から、男の声が流れる。


『澄江。真帆は、心配すると飯を抜く。煮物を持たせてやれ』


真帆が、隣で息を呑んだ。


録音でしか聞いたことのない、父の声だった。


続けて、声が言う。


『家は、先生に託しなさい。それで、お前は、こちらへ来られる』


澄江が白い鞄を開けた。


印鑑を取り出す。


「待って!」


真帆が立とうとした。


二人の信者が、通路を塞ぐ。


凛音は、真帆の手首を握った。


「まだです」


「でも、お母さんが」


「今、声を聞いてます」


凛音は目を閉じた。


覚王寺の呼吸。天井の録音。司会役の女。杖を捨てた男の泣き声。澄江の夫の声。


喉の奥へ、一人ずつ立たせる。


そして、立った。


「先生」


地声だった。


覚王寺が、ゆっくり凛音を見る。


「時雨さん。やはり、いらっしゃいましたね」


「はい」


凛音は通路を歩き、壇上へ上がった。


百人の目が、自分へ向く。


怖くない、と言えば嘘になる。


彼らは答えを求めていない。


自分たちが間違っていないと、言ってくれる声を求めている。


その声を奪えば、怒る。


泣く。


凛音を、敵にする。


それでも、マイクを取った。


「今から、新しい声を聞かせます」


息を落とす。


胸を開く。


喉に、覚王寺環という役を着せる。


「――今日も、神の声が聞こえております」


会場が止まった。


覚王寺と同じ声だった。


丸い母音。語尾の前で、わずかに息を溜める癖。慈愛を演じるため、鼻の奥へ響きを逃がす位置まで同じ。


「あなたがたの苦しみは、すべて天へ届いております」


信者の一人が、反射的に手を合わせた。


覚王寺の顔から、笑みが一枚、剥がれた。


凛音は、受付係の声へ変えた。


「氏名、ご住所、生年月日、ご家族の病歴、預金額をご記入ください」


次に、奥村の声。


「個別祈祷の三十分前に、神託カードを舞台裏へ回します」


澄江の声。


「先生だけが、あの人の最後の言葉を知っている」


最後に、天井から流れた亡夫の声。


『澄江。真帆は、心配すると飯を抜く』


真帆が口を覆った。


凛音の喉から、死んだ父親の声が出ている。


「声が同じであることと、言葉が本当であることは、別です」


凛音は、自分の声へ戻した。


「今の私は、神様ですか」


誰も答えなかった。


凛音は、杖を捨てた男を見た。


男の右足には、痛みをかばう人間特有の遅れがない。壇上へ上がる前、舞台袖で靴底を鳴らしていた。歩けなかったのではない。歩かない役を演じていた。


「あなたは、三年前まで地方劇団にいました。今は、教団の関連会社から毎月十八万円を受け取っている」


男の顔色が変わった。


黒瀬から渡された、奥村の帳簿と地方劇団の古い出演記録を照合した情報だった。


「来月、その会社はなくなります。社長が資金を持って逃げるからです」


ざわめきが走る。


もちろん、未来を見たわけではない。関連会社の解散公告と、社長名義の海外口座へ移された送金記録を組み合わせただけだ。


それでも、声と間を整えれば、予言に聞こえる。


後方の老婆が叫んだ。


「この人にも、神様が降りたのよ!」


別の男が頷く。


「先生が本物だから、同じ声を授けられたんだ!」


凛音の指が冷えた。


唯一ではないと示した。


人間にもできると、再現した。


なのに、彼らは、もっと信じようとする。


覚王寺が笑みを取り戻した。


「そうです。神は、疑う者の口さえ使う」


「悪魔だ!」


誰かが叫んだ。


声が重なった。


「その女は、死者の声を盗んだ!」


「先生を試した!」


信者たちが、壇上へ近づく。


覚王寺はマイクを握り、凛音を見下ろした。


「声を真似るだけでは、真実になりませんよ。時雨さん」


その通りだった。


凛音の声は、証拠ではない。


同じ現象を作れると示しただけだ。


どの方法が、本当に使われたのか。誰が金を受け取り、どこへ流したのか。凛音一人では閉じられない。


そのとき、奥村が操作室の回線を切り替え、会場の照明が全部落ちた。


正面のスクリーンだけが点く。


黒瀬恒一郎が、映像の中で椅子に座っていた。


寝ぐせのまま、黒いファイルを膝に置いている。


『茶番は終わりだ』


暗闇の中で、凛音が言った。


「先生、登場の仕方が犯人です」


黒瀬は無視した。


スクリーンに、壇上の断面図が映る。


覚王寺の足元から、細い線が舞台袖へ伸びていた。


『一つ目。覚王寺の襟に縫い込まれた小型受信機。舞台裏の補佐役が、相談票から選んだ情報を読み上げる』


奥村の協力で撮影した、衣装管理記録。受信機の購入履歴。舞台裏の送信端末。


次に、信者の個人情報一覧が映る。


家族構成、病歴、葬儀社、通院先、預金額。欄外には『刺さる言葉』『罪悪感』『亡夫』と短い指示がある。


『二つ目。予言の材料。皆さん自身が受付で渡した情報と、教団が外部から買った情報だ』


データ仲介会社との契約書。


病院送迎サービス、葬儀社のメモリアル動画、公開された家族のSNS。それらを集め、教団向けに加工した納品記録。


澄江の夫の音声ファイルも映った。


元は、葬儀で流した家族動画だった。


『三つ目。死者の声。短い音声を切り貼りし、足りない部分は似た声の演者に埋めさせている。最後に同じ空調音が入るのは、編集室が同じだからだ』


送金記録が出る。


宗教法人から、三つの会社を経由し、不動産会社へ。


『四つ目。片桐澄江さんの家。奉納先は教団ではない。覚王寺環が全株を持つ会社だ。信仰の寄付を装い、個人資産へ変える契約になっている』


黒瀬は、画面の向こうでページをめくった。


『神は、税理士より帳簿が細かいらしい』


誰かが、笑った。


ほんの小さな笑いだった。


けれど、それで空気が変わった。


神聖な舞台に、人間の笑いが入った。


覚王寺は、もう神様の顔へ戻れない。


凛音はマイクを持ち直した。


「私の声は、証拠じゃありません。今のは、同じことが人間にもできると見せただけです」


スクリーンを指す。


「証拠は、あっちの感じの悪い人が持っています」


『紹介の仕方を考えろ』


「受付に負けた天才作家です」


今度は、はっきり笑いが起きた。


礼拝堂の後方扉が開いた。


雛形と弁護士、その後ろに捜査員が立っていた。奥村が提出した原本と、データ仲介会社から押収された記録をもとに、関係先の捜索が始まる。


司法書士を名乗った男が、澄江の前の書類を閉じた。


真帆が走り、母の手から印鑑を取る。


澄江は抵抗しなかった。


ただ、天井を見ていた。


もう、夫の声は降ってこない。


覚王寺は逃げなかった。


壇上で、両手を下ろし、長い息を吐いた。


白い衣を着た、五十二歳の男へ戻っていく。


凛音が近づく。


「私の名前を、誰から聞いたんですか」


覚王寺は、薄く笑った。


「私は神ではありません」


「知ってます」


「けれど、あの人たちは、私の前でだけ眠れた。亡くした人へ、もう一度、言葉を返せた。金を取った。家も取ろうとした。罪です。ですが、救われた夜まで偽物だと、あなたは言えますか」


凛音は答えなかった。


言えなかった。


覚王寺は、凛音にだけ聞こえる声で続けた。


「君の名前も、台詞も、渡されました。島根。川。声を出せなかった夜。私は、書かれた通りに読んだだけです」


「誰に?」


覚王寺の目が、初めて笑わなくなった。


「脚本家に」


その夜、覚王寺環は任意同行を求められ、翌日、詐欺未遂と不正に取得した個人情報を利用した複数の事件で逮捕された。


『安寧の光』は、活動を停止した。


片桐澄江の家は守られた。


それで、母親が戻ったわけではなかった。


雨の駅舎。


澄江はベンチに座り、亡夫が使っていた黒い傘を抱いていた。


真帆が隣へ座る。


二人の間には、一人分の空席があった。


澄江は娘を見ない。


真帆も、何も言わない。


雨だけが、ホームの屋根を叩いていた。


翌朝。


凛音は、家賃三か月分、二十二万八千円を田所へ渡した。


田所は札を二度数えた。


「月末より早いじゃないか」


「払えるときが、払いどきです」


「まともな仕事に、ありつけたのかい」


凛音は答えなかった。


神様の声を真似て、人の救いを壊す仕事が、まともかどうかはわからない。


田所はそれ以上聞かず、領収書と、新しいエアコンのリモコンを渡した。


夜。


黒瀬が、写真とメモを返しに来た。


「証拠品ではない。お前のものだ」


凛音は、縁側で笑う五歳の自分を見た。


「ありがとうございます。捨てるのも、なんか、もったいないので」


黒瀬は写真を手渡したまま、指を離さなかった。


「先生?」


「……何でもない」


話す前の半拍。


息を止めた位置。


嘘だった。


「写真の裏に、何かありました?」


「何もない」


黒瀬は、今度こそ指を離した。


凛音にはわかった。


けれど、聞かなかった。


教祖の金庫から、自分の過去が出てきた夜である。これ以上、何かを知るには、喉が疲れすぎていた。


黒瀬は玄関を出た。


車へ戻り、運転席でスマートフォンを開く。


画面には、写真の裏面を撮影した画像があった。


何も書かれていなかったはずの裏面。


デスクライトの熱を当てたとき、古い薬品が褐色へ変わり、細い文字が浮かんだ。


『黒瀬恒一郎が接触した場合、第二稿へ移行せよ』


黒瀬は、その筆跡を知っていた。


十年前に失踪した父、黒瀬誠司の字だった。


なぜ、十二年前の凛音の封筒に、自分の名前がある。


なぜ、父は二人が会うことを知っていた。


第二稿とは、何だ。


解けた事件の外側で、問いだけが増えていく。


「……第二稿、か」


天才作家は、初めて、自分の名を恐れた。

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