第2話 偽物の神様は、私より私を知っている
午前十時、ちょうど。
凛音のスマートフォンが震えた。
画面に『富樫プロ 藤田』の文字が浮かぶ。
九時二十五分まで、凛音は『安寧の光』の集会場にいた。
覚王寺環は、彼女の本名を言い当てたあと、何もせずに帰した。
ただ、出口で、こう言った。
「次は、ご自分の名前でいらしてください」
逃げるように黒瀬の車へ乗り、法定速度について長い議論をし、アパートへ戻ったのが九時五十二分。鏡を見る時間は、八分あった。
凛音は洗面台の前で一度深く息を吸い、声帯を整え、喉を開いた。
声優にとって、電話は仕事場である。
どんな知らせが来ても、プロの声は崩さない。
「もしもし、時雨です。はい……お世話になっております」
藤田マネージャーの声は、事務的だった。
ああ、これは駄目なやつだ、と一秒でわかった。
受かったときの声は、もっと弾む。五年前、新人オーディションに合格したとき、藤田は「おめでとう」から始めた。
今日は、「先日の件ですが」から始まった。
「……そうですか。はい。いえ、大丈夫です。ご連絡、ありがとうございました」
通話を切る。
画面には、既読の通知が残った。
『最終選考の結果について 不採用』
これで、声優を続けられるかどうかの最後の審判は、終わった。
凛音はスマートフォンを畳に置き、しゃがみ込んだ。
声を出さずに、泣いた。
泣き声は職業道具だ。感情に任せて喉を震わせれば、次に必要な泣き声が濁る。そんな理屈をつけて、昔から凛音は静かに泣いた。
酸素だけを吐き、涙を落とす。
何十人の泣き声でも作れるのに、自分が泣くときだけ、音がなかった。
インターホンが鳴った。
二回。
出なくても、誰かわかる。
「仕事の続きだ。開けろ」
凛音は三秒で顔を作った。涙は袖で拭い、口角を上げる。
ドアを開けると、黒瀬恒一郎が立っていた。黒のコートに、グレーのマフラー。八月にしては、季節感が壊れている。
「顔が赤いぞ」
「花粉症です」
「八月だぞ」
「季節に縛られない花粉です」
黒瀬は、凛音の後ろにあるスマートフォンを見た。
画面は伏せてある。
それ以上、聞かなかった。
「昨日の続きをやる。行くぞ」
「先生。私、今、人生の大きな岐路に立っているんですけど」
「クリアできたら寿司を奢る。回らない方のだ」
「……回らない寿司、ですね。乗りました」
「空腹で立つと倒れる。先に食う」
「慰めですか」
「取材効率の話だ」
黒瀬は、最後まで凛音の顔を見なかった。
それが気遣いなのか、泣いている人間の扱いがわからないだけなのか。凛音には判別できなかった。
天才作家の心は、彼の小説より読みにくい。
連れて行かれたのは、カウンターだけの寿司屋だった。
値段が書いていない。
凛音は、入口で一度、足を止めた。
「先生。ここ、入店しただけで、うちの家賃が一か月増えませんか」
「俺が奢る」
「ヨシ!録音しました。お寿司の奢りは遠慮しませんので」
凛音は、えび、とろ、あなごを迷わず頼んだ。黒瀬は白身を二貫食べ、資料を広げる。
「昨夜の集会場。相談票、紹介者、待合室での会話。情報収集は三段階だ」
「私が隣の人に話した、左手の薬指も、三分で教祖へ届きました」
「ああ。補佐役が袖へ入り、舞台裏の端末へ入力した。そこから覚王寺の耳へ指示が飛ぶ。おそらく、小型受信機だ」
「じゃあ、私の本名も」
「同じ経路ではない」
黒瀬は、一枚の一覧を差し出した。
真帆の代理人が、面会交渉の過程で教団から開示を受けた、前日の参加者記録。紹介者、受付時刻、記入名、座席番号。『よしえ』は載っている。だが、時雨凛音の文字はどこにもない。
「お前が会場へ入るまでに、教団が得たのは偽名と偽の住所だけだ。山本富美子の紹介電話も録音。お前の端末から個人情報が抜かれた痕跡もない」
「ネットで顔を調べたとか」
「お前の宣材写真は七年前のものだ。今より頬が丸い」
「必要な指摘ですか、それ」
「識別精度の話だ」
「先生の人間関係が壊れる精度は、いつも百パーセントですね」
黒瀬は答えず、醤油をつけた。
会計のときだった。
黒瀬がコートの内側を探り、ズボンのポケットを探り、鞄を開けた。
その動きが、少しずつ遅くなる。
「……今日は俺の奢りだが、支払いはお前がやれ」
「どういう制度ですか」
「財布を忘れた」
「先生は、事件の構造は読めても、財布の所在は読めないんですね」
「あとで払う」
「私、今朝、仕事を失ったところなんですけど」
黒瀬の手が止まった。
凛音も、止まった。
言うつもりはなかった。
別人の声で隠すはずだった言葉が、地声に近いところから落ちてしまった。
黒瀬は数秒黙り、店の主人に名刺を差し出した。
「黒瀬恒一郎だ。出版社へ請求してくれ」
「先生、それ、雛形さんに怒られません?」
「怒られるのは未来の俺だ。今の俺には関係ない」
店を出ると、黒瀬は前を向いたまま言った。
「最終まで残ったなら、声が足りなかったわけじゃない」
「慰め、下手ですね」
「慰めていない」
「もっと下手でした」
午後一時。
二人は再び『安寧の光』の施設にいた。
今度は潜入ではない。
担当編集者の雛形皐月が、弁護士を通じて正式な面会を取りつけていた。
雛形は紺のパンツスーツで、入口に立っていた。三十三歳。肩までの髪を一つに束ね、片手にタブレット、もう片方に黒瀬へ渡すための請求書を持っている。
「先生。寿司屋から出版社へ、二万八千円の請求が来ています」
「取材費だ」
「経理には『財布を忘れた作家の救済費』と出しておきます」
「表現に悪意がある」
「事実を読みやすく編集しました」
雛形は凛音へ向き直った。
「時雨さん。面会は四十分です。録音は双方同意済み。挑発、なりすまし、不法侵入、金庫破りは禁止」
「最後の二つ、誰への注意ですか」
「主に先生です」
「俺は金庫を破らない。番号を読む」
「それを世間では不法解錠と言います」
面会室には、紙コップが三つ置かれていた。
片桐真帆は、録音で聞いた声より小柄だった。短く切った髪。眠れていない目。怒りを支えにして、どうにか椅子へ座っている。
向かいには、母の片桐澄江。
白いブラウスに、教団の金色の徽章。背筋をまっすぐ伸ばし、娘を見ない。
「お母さん」
真帆が呼んだ。
澄江の肩が、硬くなった。
「私は、あなたの母親ではありません」
声が、覚王寺に似ていた。
音色ではない。話す前に長く息を吸い、語尾へ柔らかな余白を残す。断定を、慈愛に聞かせる型。教祖の話し方が、澄江の中へ入っている。
「お母さん、家の名義を変えるって、本気なの。あれ、お父さんと二人で買った家でしょう」
「家は、執着です。手放せば、あなたも救われます」
「私は家の話をしてるんじゃない!」
真帆の声が裏返った。
「私を、名前で呼んでよ」
澄江は初めて娘を見た。
「先生は、お父さんの最後の言葉を知っていました」
「え」
「病室で、あの人が私に言ったこと。誰にも話していない言葉です。『真帆は、心配すると、ご飯を抜く。煮物を持たせてやれ』と。先生は、そのまま、おっしゃった」
真帆の口が閉じた。
一瞬だけ、疑いが揺れた。
それは、家族しか知らない言葉だった。
「先生は、お父さんの声も聞かせてくださいました。あの人は、向こうで待っている。家を手放し、心を清めれば、また会えるんです」
「本当のことを言えば、お父さんが戻るの?」
真帆の問いは、怒りではなかった。
澄江の声だった。
夫を亡くした夜から、何度も自分へ聞いた問いが、そのまま娘の口へ移った。
凛音は、真帆から預かった古い留守番電話を思い出した。
十一年前。真帆が初めての出産を控えていた頃、澄江が残した声。
凛音は息を吸った。
「真帆。冷蔵庫に煮物を入れてあるからね。ちゃんと温めて食べなさい。あんた、心配になると、すぐご飯を抜くんだから」
澄江の顔が上がった。
真帆も息を止めた。
凛音の喉から出ているのは、十一年前の澄江の声だった。今より少し太く、少し早口で、娘の返事を待たずに世話を焼く声。
「赤ちゃんが生まれたら、お母さんが何でもするから。真帆は、ちゃんと寝ること。いいね」
「やめなさい」
澄江の指が震えた。
「その声を、使わないで」
凛音は止めなかった。
「真帆。あんたは、お母さんの、大事な――」
「やめて!」
澄江が紙コップを払った。
水がテーブルを走り、真帆の袖を濡らす。
長い沈黙のあと、澄江の口から、小さな音が落ちた。
「……真帆」
娘の名前だった。
真帆が顔を上げる。
けれど、次の瞬間、澄江は両手で耳を塞いだ。
「違う。これは試練です。先生がおっしゃっていた。悪い声は、いちばん懐かしい声で近づいてくる、と」
凛音は、喉を閉じた。
届いた。
確かに、一度は届いた。
それでも、救えなかった。
廊下へ出ると、黒瀬が壁にもたれていた。
「今のは失敗じゃない」
「慰めですか」
「事実だ。名前を呼ばせた」
「呼ばせただけです」
「ゼロと一は違う」
黒瀬は、濡れた凛音の袖へハンカチを押しつけた。
高そうな布に、黒いインクの染みがついている。
「先生。これ、原稿を拭きました?」
「人間に使うのは初めてだ」
「慰め方が全部、失礼です」
けれど、返さなかった。
廊下の奥で、館内電話が鳴った。
白い制服の職員が受話器を取り、「第三室、承知しました」と答える。すぐに二人の職員が書類を抱え、同じ方向へ走った。
凛音は、壁にある内線表を見た。
一番下に『館内連絡 九番』とある。
「先生。ちょっとだけ、悪いことをしていいですか」
「程度による」
「雛形さんに聞こえない程度です」
「許可する」
「許可しないでください、止めてください」
凛音は受話器を上げ、九番を押した。
息を落とす。
喉に、覚王寺環を着せる。
「本日の個別祈祷は、第四室へ変更してください。神意により、順番も逆に」
館内へ、教祖と同じ声が流れた。
廊下の職員たちは、一人も空を仰がなかった。
「先生のお言葉だ」と手を合わせる者もいない。
全員が、仕事の指示を受けた顔で、書類を持ち替え、第四室へ動いた。
凛音は受話器を戻した。
「神託じゃない。業務命令として聞いてる」
「ああ。覚王寺の声が、組織の認証鍵になっている」
黒瀬が言う。
「だが、今ので証明できたのは、職員が声に従うことだけだ。覚王寺が情報を盗んだ証拠にはならない」
「わかってます」
「声は扉を開ける。扉の向こうに何があるかは、書類が決める」
その日の夕方。
二人が施設を出ると、駐車場の端に男が立っていた。
五十代半ば。灰色の背広。右手に古い革鞄を抱え、何度も周囲を見ている。
「時雨、凛音さんですね」
声の最後が震えていた。
「私は、奥村と申します。教団の経理を、十五年やっています」
黒瀬が一歩前へ出る。
「話は弁護士を通せ」
「弁護士へ渡せば、先生を潰すために使われる」
「そのための証拠だろう」
「違う」
奥村は、強く首を振った。
「私は、先生に救われたんです。妻が病気で、夜ごと苦しんでいた。先生の声を聞くと、その間だけ眠れた。妻は亡くなりました。でも、最後の三か月、あの人は眠れた。それまで嘘だったことには、できない」
凛音は、何も言わなかった。
奥村の声に、嘘はなかった。
「ですが、帳簿の数字は、嘘です」
奥村は革鞄から、厚い封筒を出した。
献金台帳の写し。個人情報会社への支払い。信者宅の査定表。覚王寺個人が支配する会社への送金記録。
「家まで取る必要はない。妻を眠らせた声と、人の家を奪う数字は、同じものじゃない」
黒瀬が資料を受け取る。
奥村は、もう一通、小さな封筒を凛音へ差し出した。
黄ばんだ紙。端が擦れ、赤い消印が薄く残っている。
十二年前の日付だった。
凛音が、まだ十二歳だった年。
宛名は、印字されていた。
『時雨凛音 様』
「教祖から、預かっていました」
奥村の声が、さらに低くなる。
「“この名前の女が来たら渡せ”と。あなたが、まだ子どもの頃から」
「誰が、教祖にこれを?」
「知りません。先生も、差出人の名は口にしなかった。ただ、“台本に書いてある”と」
黒瀬が顔を上げた。
「台本?」
奥村は答えず、駐車場の向こうへ歩き出した。
凛音は、封筒の端へ指をかけた。
開く。
中から、一枚の写真が滑り落ちた。
島根の古い家。夏の縁側。庭の隅に咲く白い花。
その中央で、五歳の時雨凛音だけが、こちらを見て笑っていた。




