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第1話 家賃三か月分で、神様を暴け

「時雨さん。三か月分、二十二万八千円。月末までに払えないなら、この部屋は明け渡してもらう」


大家の田所源次は、六十三年の人生で培った太い指で、請求書を畳に置いた。


叩きつけなかったのは、たぶん、最後の情けである。


六畳一間、風呂なし。障子の桟には埃が積もり、エアコンのリモコンは電池切れのまま。台所の蛇口は、きちんと閉めても五秒に一度、水滴を落とす。ぽつん。ぽつん。住人の所持金を数えるような音だった。


ここが、売れない声優、時雨凛音、二十四歳の全世界である。


「わかりました。月末までに払います。絶対、払います。明日の午前十時に、オーディションの最終結果が出るんです。受かったら、前払いのギャラが、入るかもしれないので」


「かもしれない、ね」


田所は請求書から凛音へ目を移した。


その目は厳しかったが、玄関脇には、いつの間にか新品の乾電池が二本置かれていた。電池切れのリモコンを、先週、田所が何度も押していたことを凛音は知っている。


「月末だよ。それ以上は待たん」


「はい」


「それと、夜中に男を上げるなら静かにしな。壁が薄い」


「上げてません」


「そうかい。じゃあ、壁の向こうで毎晩しゃべってる男は、幽霊か」


田所が帰ってから、凛音は三秒だけ黙った。


それから、腹の底から低い男の声を出した。


「家賃を滞納する若い女に、善良な大家は新品の電池を与えました。さて、これは慈善か、退去を早めるための設備投資か」


自分で出した声に、自分で答える。


今度は、七十代の老婆だった。


「そりゃあ、あんた。どっちでも同じだよ。払うものを払いな」


続けて、明るい少女の声。


「大丈夫! 明日のオーディション、絶対に受かってるよ!」


落ち着いた女性マネージャーの声。


『時雨さん、おめでとうございます。ぜひ、あなたにお願いしたいと』


事務的な女性マネージャーの声。


『今回は残念ながら――』


そこで、凛音は口を閉じた。


どの声も、完璧だった。


年齢も、性別も、方言も、話す前に息を吸う癖まで作れる。十数秒、相手の声を聞けば、その人の喉を借りたように再現できた。声だけは、誰にも負けたことがない。


だから、五年間、やめなかった。


アニメの脇役を二本。地方CMのナレーションを一本。イベントの着ぐるみの中で、名前も出ないキャラクターを七回。家賃を滞納し、コンビニの値引きシールに群がる生活になっても、声優をやめる選択肢だけは、一度も本気で考えなかった。


凛音は、鏡に向かって言ってみた。


「私は、怖い」


出たのは、さっきの少女の声だった。


「大丈夫。絶対、うまくいくよ」


違う。


そうじゃない。


自分の声で、怖いと言いたかった。


けれど、喉の奥には、役ばかりが並んでいる。時雨凛音本人の台詞だけ、いつも台本から抜け落ちていた。


深夜零時を回った頃、玄関のチャイムが鳴った。


二回。押しつけるような、短い音。


凛音は、チェーンを外さないまま覗き穴をのぞいた。


スーツ姿の男が立っていた。寝ぐせのついた黒髪。鋭い目。片手には革の鞄。もう片方の手で腕時計を見ている。


黒瀬恒一郎、二十九歳。


累計百万部を超えるサスペンス作家。世間が『天才』と呼び、担当編集者が『社会性を印税へ換えた男』と呼ぶ人物である。


三か月前、担当編集者の雛形皐月に連れられ、一度だけ凛音の部屋へ来たことがある。新作の台詞が「人間の会話に聞こえない」と編集部で問題になり、凛音が十役を演じて読み直した。その日から、黒瀬は必要があると、時間も常識も無視して現れるようになった。


「仕事だ。開けろ」


「先生、何時だと思ってるんですか」


「零時三分だ」


「正確な時刻を聞いたんじゃありません」


「報酬は、家賃三か月分」


凛音はチェーンを外した。


「どうぞ、お上がりください」


黒瀬は六畳の部屋を一瞥し、「狭いな」と言った。


「前にも言いましたよね、それ」


「前より狭くなった」


「物は減ってます」


「貧困が空間を圧迫している」


「帰ってください」


「二十二万八千円」


「お茶をお出しします」


黒瀬は畳へ座り、鞄から資料を出した。


白地に金色の輪。輪の中心から、八本の光が伸びている。


宗教法人『安寧の光』。


埼玉県川口市に本部を置く新興宗教。教祖は覚王寺環、五十二歳。神の声を聞き、死者の言葉を伝え、病を遠ざけるとされている。信者数は公称一万二千人。実数は、その十分の一ほど。


黒瀬がスマートフォンを畳へ置き、録音を再生した。


『母を、助けてください』


女の声だった。


それだけ言って、いったん途切れる。


泣いてはいない。少なくとも、音としては。けれど、息を吸うたび、喉の奥で薄い膜が震えていた。泣かないように、声を真っすぐ立たせている人の音だった。


『警察にも、弁護士にも相談しました。母本人が幸せだと言うなら、連れ戻せないそうです。母は、二千万円近くを教団へ渡しています。自宅も、先生に差し出すと言っています。私が会いに行くと、母は、私を娘と呼びません。“波動を下げる人”と呼びます。……母は、そんな言葉を使う人じゃなかったんです』


凛音は、無意識に膝の上で指を握った。


「この人、何歳ですか」


「片桐真帆、三十六歳。母親は片桐澄江、六十三。夫を亡くして半年後に入信した」


黒瀬は紙だけを見ていた。献金額、土地、関連会社、役員名。数字を、もう犯人の足跡として読んでいる。


凛音には、数字より先に、別のものが聞こえていた。


『元の母に、戻してください』


最後の「ください」だけ、真帆の声が六歳くらいまで幼くなった。


母親に置いていかれた子どもの声だった。


「先生」


「何だ」


「報酬、先払いで半分」


黒瀬が顔を上げた。


「さっきまで全額成功報酬で納得していただろう」


「今、事情が変わりました。この人、放っておけないので」


「なら、むしろ安く働け」


「人の善意を値切らないでください」


黒瀬は数秒、凛音を見た。やがて、鞄から封筒を出し、畳へ置く。


「十一万四千円」


凛音は封筒を持ち上げ、厚みを確かめた。


「ぴったり半分」


「俺は数字を間違えない」


「それなら、一人で解決できそうですけど」


黒瀬の眉が、わずかに動いた。


「先に単独で行った。宗教法人の登記、献金の流れ、関連会社への資金移動。そこまでは読めた」


「それで?」


「受付で、取材予約票を出せと言われた」


「はい」


「持っていなかった」


「はい」


「追い返された」


凛音は、何も言わなかった。


言えば、笑うからである。


「……先生。受付の構造は読めなかったんですか」


「人間が立っていた」


「最大の難所ですね」


「明日は、お前が入る。潜入と聞き込みは、お前の仕事だ」


「受付が二人いたら?」


「撤退する。勝率が半分になる」


黒瀬は真顔だった。


凛音は、とうとう吹き出した。


資料をめくりながら、ふと思いついて聞く。


「先生、どうして私なんですか。売れない声優なら、ほかにもいますよ」


黒瀬の指が、一瞬だけ止まった。


「雛形が、お前のナレーションデモを聞かせた。質が違った。それだけだ」


嘘だった。


話す前の半拍。息を止めた位置。最後の母音だけ、わずかに硬い。


凛音には、わかった。


だが、それを突くのはやめた。報酬のほうが大事だったから。


――いや。


正直に言えば、聞かないほうがいい、と喉の奥で誰かが囁いたからだ。


その朝、午前八時。凛音は、川口市の集会場にいた。


化粧を薄くし、髪を後ろで束ね、毛玉のついたカーディガンを羽織っている。肩書きは『よしえ』。四十六歳、所沢在住。夫が脳梗塞で倒れ、医者から回復は難しいと言われた。藁にもすがる思いで訪れた、悲しげな主婦。


耳の奥には、小型のインカム。


『よしえさん。余計なことは言うな。聞くだけだ』


黒瀬の声がした。道路を挟んだ向かいの車から、会場を監視している。


「先生。まず、受付を突破してください」


『それはお前の担当だ』


受付には、二人いた。


凛音は、駐車場の黒瀬へ目だけで合図した。


『撤退するか』


「勝率は半分残ってます」


受付の女が、柔らかく笑った。


「初めての方ですね。ご紹介者さまは、どなたでしょう」


「山本、富美子さんです。こちらへ伺う前に、お電話をくださると」


「山本さまからは、まだ」


そのとき、受付の電話が鳴った。


女が受話器を取る。


『もしもし。山本ですけど。今日、所沢の吉江さんが伺うから、よろしくお願いしますねえ。ご主人が大変なの。先生に、必ず会わせてあげて』


公開動画から拾った、古参信者・山本富美子の声。


昨夜、凛音が録音し、黒瀬が時間を合わせて再生したものだった。


受付の女は一度も疑わず、受話器へ頭を下げた。


「承知いたしました。よしえさん、こちらへどうぞ」


会場へ入った瞬間、空気が変わった。


長椅子に三十人ほどが座っている。白い壁。閉め切られた窓。甘い香の奥に、湿った布の匂い。耳では聞き取りにくいほど低い振動が、床から足の裏へ伝わってくる。


舞台の上には、空の椅子が一脚。


誰も座っていないのに、信者たちは、その椅子を見ていた。


凛音は思った。


ここにいる人たちは、騙されているんじゃない。


救われる言葉を、待っている。


喉が渇いた人が水を待つように。だから、ただ「嘘です」と言えばいいわけではない。水だと思って飲んでいるものを奪うなら、代わりに何を渡すのかまで考えなければならない。


照明が落ちた。


舞台の奥から、覚王寺環が現れた。


白い衣に金の刺繍。細い目をさらに細め、微笑んでいる。マイクを持つ手は、舞台俳優のように美しかった。


「今日も、神の声が聞こえております。あなたがたの苦しみは、すべて天へ届いております」


丸い母音。言葉の終わりで、わずかに息を残す。断定しているのに、聞く者が自分で答えを見つけたように感じる話し方だった。


巧い。


凛音は、職業としてそう思った。


覚王寺は、一人の老女を指した。


「あなたは、昨夜、眠れなかった。亡くなったお姉さまの夢を見たからです」


老女が泣き崩れた。


「どうして、それを……」


「お姉さまは、青い櫛を探しています」


老女は両手で口を覆った。


別の男には、息子が隠している借金の額を言い当てた。若い女には、流産した月を告げた。会場のあちこちで、嗚咽が起きる。


凛音は、一瞬だけ、背筋が冷えた。


受付票だけでは、ここまで細かくはわからない。


隣の信者が、凛音の手を握った。


「先生はね、全部、見えるのよ」


凛音は、怯えた主婦の声で囁いた。


「私も、昨日、奇跡があったんです。夫の左手の薬指が、一度だけ動いて。誰にも言ってないんですけど」


もちろん、作り話である。


隣の女は目を見開き、すぐ前の補佐役へ身を寄せた。補佐役は何気なく耳を傾け、そのまま舞台袖へ消えた。


三分後。


覚王寺が、凛音を見た。


「所沢から来た方。あなたのご主人は、まだ諦めていません」


凛音は、ゆっくり立った。


「左手の薬指が、動いたでしょう」


会場が、息を呑んだ。


インカムの向こうで、黒瀬が低く言う。


『伝達役がいる。情報が舞台裏へ届くまで、三分十二秒』


仕組みは見えた。


だが、証拠にはならない。


覚王寺が「苦しんでいる方、前へ」と手を差し出す。


凛音は壇上へ進み、膝をついた。


「わ、私、主人が。脳梗塞で、入院していて。お医者さんは、もう難しいって。だけど、先生のお声を聞いたら、主人が、手を握り返してくれて……」


作り話なのに、声は本当に震えていた。


覚王寺は、慈しむように凛音の頭へ手を置いた。


「あなたは、近いうちに、大切な人を失うでしょう」


そんな予言は、誰にでも当たる。


凛音は笑みを保ったまま、心を冷やした。


「そして、あなたは後悔する。あのとき、声を出せばよかった、と」


凛音の呼吸が止まった。


覚王寺の指が、耳の横へ触れる。


「川の水は、冷たかったですか」


知らない。


そんなことは、設定に書いていない。


黒瀬にも、話していない。


「……先生」


凛音の喉から、自分でも知らない少女の声が漏れた。


覚王寺は、耳元へ唇を寄せた。


「島根県ご出身の……時雨凛音さん、ですよね」


背筋が、氷になった。


偽名しか書いていない。住所も生年月日も、作ったものだ。紹介電話は録音。真帆とも、黒瀬とも、教団の前では接触していない。


凛音は天井を見上げた。


空調の横。小さな赤いランプが、点いていた。


録音中を示す光。


まるで、凛音がここへ来ることを、最初から待っていたように。


『凛音、出ろ』


黒瀬の声が、初めて揺れた。


「先生。これ、どういう――」


返事はなかった。


いや。黒瀬は、答えられなかった。


構造なら何でも読む男が、今だけは、沈黙している。


覚王寺環は首をかしげ、満足そうに笑った。


「さあ、よしえさん。いえ、時雨凛音さん。神様が、あなたをお待ちです」

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