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第18話 天才作家は、私の過去を知っていた

黒瀬は、逃げなかった。


凛音の問いを聞いたあと、窓の外へも、机の上の資料へも視線を逸らさなかった。


「そうだ」


たった三文字だった。


「俺が、お前から、俺に関する記憶を遠ざけた」


凛音は、椅子へ座ったまま動けなかった。


消した、ではなく、遠ざけた。


言い方を変えても、されたことは同じだった。


「最初から話してください」


「十年前、俺は十九歳だった」


黒瀬は、複製音源を停止した。


父・黒瀬誠司に連れられ、第三音声行動研究室へ何度も出入りしていた。


誠司は息子に、物語の作り方を教えると言った。


人間が何を恐れ、何を望み、どんな言葉を与えれば次に何を選ぶのか。


それを知れば、最高の作家になれる、と。


「そこで、お前を見た」


十四歳の凛音は、自分の声で話さなかった。


母の声で水を求めた。


看護師の声で痛くないと言った。


研究員の声で実験を続けてくださいと頼んだ。


自分の名前だけは、何度促されても言えなかった。


「俺は、最初、お前が演技をしていると思った」


天才的な少女。


父が見つけた、新しい作品。


十九歳の黒瀬は、そう信じた。


だが、ある夜、指示音が止まっても、凛音は他人の声をやめられなくなった。


泣きながら、笑う研究員の声で「大丈夫です」と言い続けた。


「そのとき、やっとわかった。あれは才能を伸ばす場所じゃない。お前から、お前を削る場所だった」


黒瀬は制御装置を壊した。


録音室のガラスを割った。


火災警報を鳴らし、混乱の中で凛音を外へ連れ出した。


カセットに残っていた『俺が凛音を連れ出す』は、その夜の声だった。


「じゃあ、助けてくれたのは、本当なんですね」


「ああ」


「そのあと、どうして」


誠司は、息子へ言った。


凛音が恒一郎を覚えていれば、必ず彼を探す。


探せば、研究へ戻ってくる。


息子を餌にすれば、凛音の声をもう一度使える。


『あの子を守りたいなら、お前自身を消せ』


黒瀬は、源一郎の机から持ち出した誘導手順を使った。


完全に記憶を消す方法ではない。


黒瀬の声を聞くと、雨音を思い出す。


黒瀬の顔を思い出そうとすると、別の少年の輪郭へ置き換わる。


第三研究室を考えると、赤いランドセルと壊れた録音機だけが先に浮かぶ。


記憶へ続く道を、別の音で塞いだ。


十九歳の黒瀬が、十四歳の凛音へ。


本人の許可もなく。


「それで、私は先生を忘れた」


「そうだ」


「先生は、忘れなかった」


「忘れられるわけがない」


声が、初めて揺れた。


その揺れに救われそうになる自分を、凛音は止めた。


感情が本物でも、行為が正しくなるわけではない。


「三年前、深夜ラジオでお前の声を聞いた」


黒瀬は続けた。


台本のない相談を、何人もの声で演じ分ける無名の声優。


その中に、一瞬だけ、十四歳の凛音がいた。


自分の名前を言う直前に、呼吸が止まる。


あの研究室と同じ癖。


黒瀬は凛音を探し、仕事を与え、近くに置いた。


同時に、生活、仕事、移動、接触した人間を記録した。


黒瀬誠司の残した組織が、再び凛音へ触れないように。


「守るためだった」


凛音は、ゆっくり息を吐いた。


「助けてくれたことには、お礼を言います」


黒瀬の目が動く。


「でも、そのあとは、許せません」


凛音は鞄から、仕事の契約書を出した。


黒瀬から渡されたインカムも、机へ置く。


「私の記憶を変えて、私の生活を記録して、危険だからって何も教えない。先生も、私を役にしたんです」


「守る台本なら、書いていいと思った」


「守られる人が読めない台本は、檻です」


黒瀬は、何も言い返さなかった。


凛音は立ち上がった。


「契約を終わります」


「違約金は、家賃二か月分だ」


「そんな条項、ありません」


「今、口頭で追加した」


「契約終了後です」


いつもなら、どちらかが笑った。


その日は、笑いにならなかった。


凛音はドアを閉めた。


廊下へ出た瞬間、足が止まりそうになった。


戻りたいと思った。


だから、戻らなかった。


それまでの自分なら、黒瀬が望む選択をしたかもしれない。


いまは、間違っていても、自分で選びたかった。


二日後。


東央開発は、藤森家の火災について記者会見を開いた。


『老朽化した住宅設備による不幸な事故』


『当社社員の個人的な逸脱』


『地域の再開発とは無関係』


会社は藤森家へ、相場の四分の一で土地を買い取る示談書を送っていた。


火事で住まいを失った家族が、考える時間を持てないうちに。


奈々から相談を受けた凛音は、一人で調べた。


捕まった社員の携帯電話には、上司から送られた音声指示が残っていた。


声は加工されている。


低く、平らで、地域の訛りを消してある。


『家の価値を、もう一段落とせ』


『住民には、昔から人を取る、と言わせろ』


凛音は何度も聞いた。


訛りは、母音を変えても消えない。


『価値』の『ち』で、舌が一度、前へ出る。


『住民』のあと、鼻で短く息を吸う。


記者会見で話す東央開発の役員と、同じ癖だった。


会見当日。


凛音は、記者の列に紛れて立った。


黒瀬もいた。


反対側の壁際。


目が合う。


どちらも、近づかなかった。


東央開発の役員が、用意された原稿を読み終える。


「以上が、当社の調査結果です」


凛音は手を挙げた。


「一つ、声を確認してもらえますか」


止められる前に、音声を流した。


加工された指示。


次に、凛音が同じ声を再現する。


低さも、機械的な平坦さも、そのまま。


『家の価値を、もう一段落とせ』


そこで加工を外す。


役員本来の声色へ変える。


『住民には、昔から人を取る、と言わせろ』


会場がざわついた。


役員は笑った。


「物真似でしょう。声優なら、誰の声でも作れる」


「その通りです」


凛音は言った。


「私の声は、証拠にはなりません」


町内会長が、予定していた証言を翻した。


「最初に噂を流したのは私です。会社は関係ない」


自分も加担した罪悪感から、全部を背負おうとしている。


凛音には、その声がわかった。


けれど、わかるだけでは止められない。


役員が勝ったように椅子へ背を預けた。


そのとき、会場のスクリーンが切り替わった。


黒瀬が、操作卓の前に立っている。


「声は証拠にならない。だから、声以外を持ってきた」


表示されたのは、音声ファイルの作成情報。


端末の識別番号。


東央開発本社の編集用パソコン。


町内放送へ接続した時刻と、社員カードの入退室記録。


発火装置の購入伝票。


藤森家を除く土地の買収予定図。


火災保険の受取先として指定されていた、東央開発の関連会社。


そして、役員のアカウントから下請けへ送られた工程表。


『第一段階 噂』


『第二段階 事故』


『第三段階 居住不能』


声が誰のものでも、構造は逃げられない。


役員の笑顔が消えた。


凛音が扉を開け、黒瀬が逃げ道を塞ぐ。


いつもの分担だった。


それでも、二人は顔を見なかった。


会見後、東央開発には追加の捜索が入った。


藤森家への地上げ工作と、火災による証拠隠滅は、会社ぐるみの事件として調べられることになった。


町内会長の三十年前の沈黙は、別の調査委員会へ渡された。


事件は閉じた。


関係は、戻らなかった。


焼け跡で、結衣が黒い紙を拾った。


「凛音さん。これ、燃えてない」


壁の耐火材の隙間に、小さなノートが挟まっていた。


黒い表紙。


金色の文字。


『黒い台本・第零稿』


中身は、未来を言い当てる予言ではなかった。


『片桐真帆の相談音声を提示。母への救済欲により、R-03が受諾する確率八七%』


『コーネリア湖西。黒瀬恒一郎の罪悪感を刺激。現場へ向かう確率九二%』


『仙石美咲。守る嘘を配置。両者の信頼を一度低下させる』


『前世の妻。R-03の失声期を想起させ、第三研究室へ誘導』


選択肢。


確率。


置くべき声。


消すべき逃げ道。


人の未来を書いた本ではない。


人が同じ出口へ進むよう、道を狭めた記録だった。


最後のページ。


『第六相談――天才作家は、時雨凛音を裏切る』


その下に、今日、凛音が黒瀬へ言った台詞があった。


『守られる人が読めない台本は、檻です』


一字一句、同じだった。


黒瀬が紙へ触れる。


指先に、黒いインクがついた。


「乾いていない」


この焼け跡へ入ったのは、警察と、藤森家と、凛音と黒瀬だけ。


ノートは、火事のあとに書き足されている。


誰かが、いまも近くにいる。


その瞬間。


電柱から外され、地面へ置かれていた町内放送のスピーカーが鳴った。


電源コードは切れている。


焼けたはずの機械から、凛音自身の声が流れた。


『次は、先生を裏切ってください』


凛音は、隣の黒瀬を見た。


自分の声だけが、二人の間で笑っていた。

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