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第19話 黒い台本は、未来を当てない

凛音は、自分の部屋へ戻った。


六畳一間。


風呂なし。


障子の桟には埃。


蛇口は、五秒に一度、水を落とす。


黒瀬のマンションより狭くて、寒くて、落ち着いた。


三日間、黒瀬からの着信には出なかった。


メッセージも開かなかった。


契約は終わった。


それでも、夜になると、インカムのない右耳が妙に軽かった。


四日目の朝、田所源次がドアを叩いた。


「時雨さん。預かりもの」


差し出されたのは、厚い封筒だった。


中には、『黒い台本・第零稿』のコピー。


三枚の図。


黒瀬の短い手紙。


『読むか、捨てるかは、お前が決めろ』


「先生は?」


「本人が来ると、あんたは読まんだろうって。珍しく、人の気持ちがわかっとったよ」


「田所さんに言われると、褒めてる感じがしません」


「それと、家賃は来週だ」


「わかってます」


「期限前に払ったら、驚いて死ぬかもしれん」


「死なないでください。事故物件になるので」


田所が帰ったあと、凛音は封筒を一時間、畳の上に置いた。


捨てることもできる。


読むこともできる。


黒瀬は、どちらを選べとも書いていない。


初めて、彼が順番を決めずに渡したものだった。


凛音は、第零稿を開いた。


未来は書かれていなかった。


書かれているのは、人間の傷だった。


『対象R-03』


『負債――家賃三か月分』


『喪失――声優としての不採用』


『欲望――声の価値を証明したい』


『刺激――母を救いたい相談者の、泣かない声』


次のページ。


『黒瀬恒一郎』


『欠落――人間の即興を読めない』


『欲望――構造を完成させたい』


『刺激――未完成の事件、父の痕跡、隠された原稿』


相談を用意する。


断れない痛みを添える。


別の道を一つずつ消す。


二人が自分で選んだと思う形で、同じ出口へ進ませる。


予言ではない。


選択肢を狭めるための運用記録だった。


三枚の図の一枚目には、漏斗が描かれている。


入口は十個。


出口は一つ。


二枚目には、凛音の声の型。


怒り。


罪悪感。


救済欲。


その感情を起こしやすい相談だけが、黒瀬の窓口へ送られていた。


三枚目には、黒瀬の行動。


登記。


送金。


録音。


父の名前。


追わずにはいられない物証を、少しずつ置く。


凛音は、黒瀬へ電話をかけた。


四回目の呼び出しで出た。


『もしもし』


声に、眠っていない夜が残っていた。


「図の説明をしてください」


『今から行く』


「来ないでください。私が行くかどうか、私が決めます」


短い沈黙。


『了解した』


それだけだった。


凛音は、自分で黒瀬のマンションへ向かった。


契約書は持たなかった。


インカムも受け取らなかった。


仕事部屋の机に、第零稿と三枚の図を広げる。


黒瀬は、向かい側へ座った。


近いのに、以前より遠かった。


「この台本は、未来を当てていない」


黒瀬が言う。


「俺たちの心も、完全には読めていない。読めないから、逃げ道を塞いだ」


「どれを選んでも、同じところに着くように」


「ああ。命令すれば、人は反発する。だから相談者を使う。観客を使う。本人が選んだと思わせる」


黒瀬は、五本の線を引いた。


「脚本家には、制約がある」


一つ。


対象へ直接命令できない。相談者や周囲の人間を経由する。


二つ。


何もない場所から事件を作れない。すでにある欲望、罪、傷を再編集する。


三つ。


感情そのものは読めない。過去の声から、確率で推測する。


四つ。


対象が予測外の選択をすると、修正のために必ず新しい装置を出す。


五つ。


物語を社会の事実にするには、信者、住民、視聴者、報道という観客が要る。


「つまり、外れた行動をすれば、向こうが動く」


「そうだ」


「台本から外れるには、何をすればいいですか」


黒瀬は真顔で答えた。


「家賃を期限前に払え」


「それは超常現象です」


「なら、脚本家も予測できない」


凛音は、少しだけ笑った。


すぐに笑いを消す。


許したわけではない。


けれど、笑ってはいけないと決めるのも、誰かに選択肢を狭められているようで嫌だった。


二人は、検証を決めた。


黒瀬の公式サイトにある相談窓口を、凛音が閉鎖する。


今後の相談は受けない、と告知する。


パスワードは凛音が変更し、黒瀬にも教えない。


そのあと、凛音は自分で行き先を決める。


黒瀬は追わない。


敵が予測していたなら、何も起きない。


予測していなければ、台本へ戻すため、必ず修正を入れる。


「合図を一つ決めましょう」


凛音が言った。


「台本にない言葉」


「何がいい」


窓の外に、春先の白い雲が浮かんでいた。


凛音は、島根の庭を思い出した。


「梅の花は、何色ですか」


「白だ」


「赤もあります」


「では、合図にならない」


「先生が白って答えれば、合図になります」


「理不尽だな」


「私が決めました」


黒瀬は、わずかに口元を緩めた。


「了解した」


相談窓口を閉じたあと、凛音はスマートフォンを田所へ預けた。


行き先は、声優事務所の公開オーディション。


三か月前に応募し、一次審査で落ちたはずの企画から、前夜になって欠員連絡が来ていた。


端役。


名前のない女。


以前の凛音なら、事件を優先した。


今回は、声優を選んだ。


会場は、小さな配信スタジオだった。


最終審査だけ、制作会社の公式ページで生配信される。


審査員は三人。


中央の男が、左耳へ小型の受信機をつけている。


御厨沙羅が使っていた補聴器と、同じ形だった。


「課題台本は、入室後に開いてください」


机に、伏せた紙が置かれている。


凛音が手を伸ばす前に、天井のスピーカーが鳴った。


女の声。


息遣い。


舌の湿り。


語尾の震え。


凛音自身の声だった。


『私が、黒瀬恒一郎を殺しました』


スタジオが静まり返った。


凛音は、まだ台本を開いていない。


審査員も、何が流れたのかわからない顔をしている。


中央の男が受信機へ触れた。


「いまのは、演出ですか」


スタッフが首を振る。


伏せられた紙を開く。


課題の一行目。


『私が、黒瀬恒一郎を殺しました』


黒い台本は、凛音を事件へ戻しに来た。


まだ起きていない殺人を、自分の声で告白させるために。


「続けられますか」


審査員が訊く。


凛音は、マイクの前へ立った。


「三回、やらせてください」


一度目。


罪を認める女。


凛音は、視線を落とさない。


息を吐き切り、逃げ道を自分で閉じる。


「私が、黒瀬恒一郎を殺しました」


二度目。


誰かをかばう女。


言葉の前に、ほんの少しだけ息を吸う。


本当の犯人へ時間を渡す声。


「私が、黒瀬恒一郎を殺しました」


三度目。


台本を読まされている女。


喉は正しく動く。


声も震える。


ただし、意味だけが身体へ入っていない。


「私が、黒瀬恒一郎を殺しました」


同じ台詞。


三つの物語。


凛音は審査員を見た。


「同じ声でも、意味は一つじゃありません」


スピーカーから流れた告白が、凛音を犯人へ固定しようとした。


なら、その一行から、別の出口を増やせばいい。


凛音は台本にない言葉を続けた。


「先生。梅の花は、何色ですか」


配信スタッフが顔を上げた。


数秒後、受付の電話が鳴る。


スタッフが受け、戸惑いながらスピーカーへ繋いだ。


黒瀬の声がした。


『白だ』


たった二文字。


凛音は、誰かが用意した役ではなく、自分でここへ来たのだと確かめた。


審査は中断された。


中央の審査員がつけていた受信機は、その朝、制作会社へ宅配で届いた備品だった。


耳の悪い審査員用の補助機器と説明されていた。


送り主は偽名。


告白音声は、外部から受信機とスタジオ設備へ送られていた。


審査員は、何も知らない観客だった。


送信元は、多段中継で追えない。


だが、敵は別の場所でも動いていた。


相談窓口を閉じてから、十二分後。


遠隔でページを再公開しようとするアクセスが発生した。


黒瀬は、そこだけを待っていた。


完全な発信元は隠されている。


それでも、認証鍵の一部、接続時刻、音声合成サーバーの契約情報が残った。


契約先。


『オーディエンス・ラボ株式会社』


十年前、黒瀬誠司が失踪する直前に設立した休眠会社だった。


代表者の本人確認書類は偽造。


誠司が生きている証拠にはならない。


ただ、誰かが彼の会社と名前を、いまも舞台装置として使っている。


夜。


凛音は黒瀬のマンションへ戻った。


契約書は結び直さない。


インカムもつけない。


「先生を許したわけじゃありません」


「知っている」


「でも、一人で決めることも、誰かが用意した台本かもしれない。だから、私が選んで、一緒に調べます」


黒瀬は、凛音を褒めなかった。


正しいとも、間違っているとも言わなかった。


「了解した」


それだけだった。


テーブルには、紙カップのコーヒーが二つ置かれていた。


「買ったんですか」


「俺じゃない。さっき、置き配の通知が来た」


「飲んだんですか?」


「一口だけだ」


スマートスピーカーが、突然、点灯した。


凛音の声が流れる。


『先生、コーヒーが冷めますよ』


凛音は、一度も言っていない。


黒瀬の指から、紙カップが落ちた。


茶色い液体が、白い床へ広がる。


「先生?」


黒瀬が椅子から崩れた。


「まずい」


「毒が?」


「コーヒーが」


そう答えて、黒瀬恒一郎は意識を失った。

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