第17話 私の声が、私より先に泣いている
「どうして、ここにいるんですか」
写真の中の黒瀬は、十九歳だった。
十四歳の凛音が座る椅子へ、片手を置いている。
父・時雨源一郎。
黒瀬の父・誠司。
第三音声行動研究室。
偶然で並べられるものは、一つもなかった。
黒瀬は、長い間、写真を見ていた。
「覚えていない」
短い答え。
その直前、舌が上顎へ触れた。
乾いた、小さな音。
凛音は、その癖を知っていた。
最初の事件で、「半年前に声を聞いただけだ」と言ったときにも、同じ音がした。
黒瀬恒一郎が、意図して嘘をつくときの音。
「先生。今、私に嘘をつきましたね」
黒瀬は否定しなかった。
「……そうだ」
「じゃあ、話してください」
「先に、テープを聞く」
「また、順番を決めるんですか」
「この順番だけは変えられない」
「誰の台本です」
その言葉で、黒瀬の目が動いた。
凛音は、自分が正しい場所を刺したとわかった。
それでも、彼は答えない。
耐火箱に入っていた三本のカセットには、一本ずつ、黒いラベルが貼られていた。
『R-03/模倣』
『R-03/拒絶』
『R-03/離脱』
黒瀬は、町内会館から借りた再生機へ一本目を入れた。
回転音。
機械の低い唸り。
男の声。
『被験者R-03。指定音声を再現してください』
十四歳の凛音が答える。
『はい』
母・美津子の声。
『凛音、夕ご飯よ』
父・源一郎の声。
『今日の声を、聞かせて』
看護師の高い声。
『痛くありませんからね』
知らない男の、笑いを含んだ声。
『君は、本当に便利な子だ』
指示音が鳴るたび、少女の中身が入れ替わる。
正確だった。
息の量も、舌の位置も、年齢も。
いまの凛音より、速い。
速すぎて、人間が声を変えているようには聞こえない。
『では、自分の声で、名前を言ってください』
沈黙。
『被験者R-03。名前を』
少女が息を吸う。
喉が動く。
音だけが出ない。
『私は』
そこで、声が消えた。
テープの無音が、十七秒続く。
凛音は、自分の喉へ指を当てた。
「これ、私なんですよね」
黒瀬は答えなかった。
答えなくても、わかっていた。
二本目。
『R-03/拒絶』
父の声が荒れている。
『この子は未来を予測しているんじゃない。期待された声を返しているだけだ』
別の男。
黒瀬誠司。
『観客が期待する声を返せるなら、それは物語を支配できる』
『凛音は作品じゃない』
『なら、なぜ記録した。君が最初に、この子の声を分類したんだろう』
机を叩く音。
椅子が倒れる。
遠くで、女が叫んだ。
『凛音を返して!』
母の声だった。
柔らかく、何でも我慢する母が、喉を裂くように叫んでいる。
凛音の記憶にはない。
「お母さんも、ここにいた」
「そうらしい」
「先生は、知ってたんですか」
「全部は知らない」
「全部じゃないところを、話してください」
黒瀬は三本目を取った。
「これを聞いたあとだ」
凛音は、笑いそうになった。
人を守るためなら、何も言わなくてよいと思っている。
その傲慢さを、いまは怒るより先に、確かめたかった。
三本目。
警報音。
割れるガラス。
複数の足音。
そして、若い男の声。
『俺が凛音を連れ出す』
写真の中の十九歳。
いまより少し高く、けれど間違いなく黒瀬の声だった。
『親父、お前の台本には戻さない』
黒瀬誠司が何かを叫ぶ。
雑音で聞き取れない。
少女のすすり泣き。
息を殺し、声を出さずに泣いている。
凛音が、いまも泣くときの音だった。
テープが終わる。
回転だけが続く。
黒瀬が停止ボタンを押した。
それでも、泣き声は止まらなかった。
別の部屋から聞こえる。
客間。
焼けていない壁の奥。
少女が、ひっ、ひっ、と短く息を吸っている。
凛音は立ち上がった。
「まだ、再生してます?」
「止めた」
泣き声が、言葉になった。
『先生を、信じないで』
凛音の声だった。
十四歳の、自分の声。
まだ口にしたことのない台詞を、過去の自分が壁の中で話している。
『先生を、信じないで』
もう一度。
黒瀬が壁へ向かう。
「外へ出ろ」
「待って」
凛音は、目を閉じた。
自分の声を、他人の声として聞く。
『しんじないで』の『し』。
息が歯の隙間を抜ける、細い摩擦音。
二度とも、同じ形で始まっている。
人間が同じ言葉を繰り返しても、息はわずかに変わる。
これは変わらない。
元になる一音を切り取り、何度も使っている。
凛音は、同じ泣き声を作った。
十四歳の自分。
息を押し殺す。
喉を細く閉じる。
『先生を、信じないで』
壁の声と重なる。
一つは生きている声。
一つは、切り貼りされた声。
並べると、違いが見えた。
壁の凛音は、『せ』と『を』の繋ぎが不自然に短い。
音声合成だった。
「私の声です」
凛音は言った。
「でも、私が言った言葉じゃない」
誰かが、十四歳の音声を材料にして、現在の台詞を作っている。
自分の声が、自分より先に怒り、泣き、疑っている。
感情まで盗まれたようだった。
黒瀬が、壁の裏へ続く配線を探す。
「再生装置は、別のダクトだ。昨日の中継器を止めても、古い回線が残っていた」
「探します」
「お前は外へ出ろ」
「この声は、私のです」
「だからだ」
「また、それですか」
「何度でも言う。お前が残る必要はない」
凛音が言い返そうとした瞬間、床下で、何かが弾けた。
焦げた匂い。
白い煙が、畳の隙間から上がる。
黒瀬の顔が変わった。
「火だ。全員、外へ」
証拠の確認のため、藤森家と町内会長、二人の警察官が一階にいた。
廊下へ出ると、階段の下から黒い煙が上がっている。
玄関側が火元に見えた。
町内会長が、そちらへ走ろうとする。
黒瀬が腕を掴んだ。
「違う。火元は床下の北側だ。煙が古いダクトを通って玄関へ出ている」
図面を一度見ただけで、空気の流れを読んでいた。
「南の勝手口へ行け。階段は使うな。二階は外廊下から降ろす」
警報器が鳴らない。
火災音声の装置へ細工されていた。
奈々が、結衣の名前を叫ぶ。
返事がない。
結衣は、二階の客間にいた。
凛音は、町内会館の携帯マイクを掴んだ。
奈々の声を出す。
「結衣。窓を開けて。外の廊下へ出て」
次に、結衣が信頼している担任の声。
前日、電話で聞いた声を借りる。
「走らなくていい。右手を壁につけて、ゆっくり歩いて」
二階で窓が開いた。
結衣の咳。
警察官が外階段から救い出す。
会長は煙の中で立ち尽くしていた。
凛音は、三十年前の若い会長の声を出した。
『異常はありません』
男が、はっと顔を上げる。
「今度は、外へ出てください」
地声で言う。
会長は、ようやく勝手口へ向かった。
凛音は耐火箱へ戻ろうとした。
三本のカセット。
失った九十二日。
母の叫び。
黒瀬の声。
あれを失えば、また誰かに順番を決められる。
一歩、煙の中へ入ったところで、後ろから強く抱えられた。
黒瀬だった。
「離してください!」
「物証より、お前が先だ」
「前は、証拠を抱えて一人で逃げたでしょう!」
「改稿した」
黒瀬は凛音を持ち上げるようにして、勝手口へ引いた。
直後、客間の天井が落ちた。
赤い火が、写真のあった床を飲み込んだ。
夜明けまでに、藤森家の半分が焼けた。
遠隔発火装置は、旧ダクトの奥から見つかった。
購入したのは東央開発の下請け会社。
起動信号は、逮捕された社員の車内端末から送られていた。
車載カメラには、社員が「記録が出た。今夜、消す」と電話する姿も残っていた。
地上げだけではない。
三十年前の研究記録を燃やすよう、誰かに命じられていた。
誰が命じたかは、わからない。
カセットは、三本とも熱で歪んだ。
けれど、黒瀬は再生前に、音源を携帯録音機へ複製していた。
「いつの間に」
「二度目からは、偶然ではなく備えだ」
雨倉駅で言ったのと、同じ言葉だった。
凛音は礼を言えなかった。
備えていたなら、なぜ写真を見て嘘をついたのか。
その問いが、喉を塞いでいた。
朝。
焼けた家の前に、町内会の折り畳み椅子が並んだ。
聞き取り調査のために出された椅子だった。
誰も座らない。
藤森家は、町を離れることを決めた。
呪いは消えた。
家も、居場所も、同じ火で失った。
結衣が、焦げた壁を見上げている。
もう、女の子の声は聞こえない。
夕方、黒瀬のマンションで、複製音源を再確認した。
三本目の最後。
警報とガラス音の下に、これまで聞こえなかった小声があった。
音量を上げる。
十九歳の黒瀬。
『凛音。俺を忘れろ』
短い息。
『そうしないと、親父はお前を使う』
そのあと、同じ声が、一定の間隔で言葉を繰り返す。
『目を閉じろ』
『俺の声を、雨の音に変えろ』
『俺を思い出したら、別の顔を思い浮かべろ』
『この部屋を出たら、俺を知らない』
誘導の文句だった。
黒瀬自身の声で。
凛音は再生を止めた。
隣にいる男を見る。
「先生が」
声が、自分のものではないように震えた。
「私から、先生の記憶を消したんですか」




