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第16話 呪いは、町内放送で作られる

二階の足音は、凛音の真上で止まった。


とん、と、最後に一度だけ鳴って、それきり、何も聞こえない。


結衣が、壁へ耳をつけたまま囁いた。


「女の子、泣くの、やめた」


凛音は返事をしなかった。


手の中にある録音台帳のほうが、泣き声より怖かった。


『被験者R-03 時雨凛音 失声期九十二日』


人の名前ではない。


検体の番号だった。


ページをめくる。


大半は根元から切り取られている。残っているのは、日付、時刻、短い記号だけ。


『模倣成功』


『自発声なし』


『母音反応低下』


『固有名拒絶』


十四歳の夏。


凛音が、声を失った三か月だった。


「貸せ」


黒瀬が手を出した。


「嫌です」


「指紋と紙片を保全する。素手で触るな」


「私の過去です」


「だから危険だ」


「危険かどうかを決めるのも、私です」


黒瀬の手が止まった。


いつもなら、理屈を三つ並べて奪い取る男が、何も言わない。


凛音は台帳を胸に抱いた。


「先生。黙っていたこと、いくつあります?」


「数えられるうちは、まだ少ない」


「今すぐ増やさないでください」


「善処する」


「それ、増やす人の返事です」


結衣が二人を見上げた。


「けんか?」


「仕事の確認です」


「教育方針の不一致だ」


「私、先生に育てられてません」


言い返してから、凛音は台帳を証拠袋へ入れた。


渡しはしない。


けれど、壊したくもなかった。


保護と支配は、似た顔をして近づいてくる。


いまの黒瀬が、どちらなのか。


声だけでは、まだ決められなかった。


翌朝、黒瀬は藤森家の古い改修図面を床へ広げた。


現行の図面にはない細い線が、二階の壁から床下を通り、隣の町内会館まで続いている。


「旧式の空調ダクトだ」


「空気を送ってた?」


「最初はな。第三研究室へ改装された時期に、用途が変わっている。ここを見ろ」


線の途中に、小さな四角が四つあった。


客間。


廊下。


階段の踊り場。


玄関上部。


昨夜、足音が移動した順番と同じだった。


町内会館の放送室は、災害用設備の更新を理由に、半年ほど前から施錠されている。


会長は鍵がないと言った。


黒瀬は、扉の前で首を傾げた。


「鍵がない部屋を、なぜ毎月点検できる」


会長の顔が固まった。


「業者が、勝手に」


「では、業者を呼べ」


「今日は、連絡が」


「番号を貸せ。俺が泣きつく」


「先生、泣けるんですか」


「文章ならな」


「声では無理ですね」


結局、会長は鍵を出した。


放送室の中は、埃をかぶった卓上マイクと、古いアンプ、町内放送の制御盤。


その裏に、一つだけ新しい箱があった。


黒い中継器。


製造番号のラベルは剥がされている。


だが、電源コードには、東央開発の備品管理シールが残っていた。


黒瀬が制御盤を開く。


古い配線の隣に、青いケーブルが四本。


藤森家へ伸びるダクトと同じ位置へ繋がっている。


「音は壁の中を歩いたんじゃない」


黒瀬が言う。


「町内放送の回線を歩いた」


ダクトの出口には、薄い振動板が取り付けられていた。


板や梁そのものを震わせ、離れた場所に足音を作る装置。


四枚を順に鳴らせば、誰かが廊下を走っているように聞こえる。


声は、指向性の小型スピーカーから流す。


正面にいる人間には大きく聞こえ、少し位置がずれると、ほとんど聞こえない。


結衣にだけ泣き声が聞こえたのは、子どもの耳の高さと、いつも眠っていた場所が、音の通り道に重なっていたからだった。


「やってみるか」


黒瀬がマイクを凛音へ向けた。


「何をです」


「幽霊だ。経験者だろう」


「職歴に書けない経験ばかり増えてます」


凛音はマイクの前に立った。


まず、前所有者・柏木澄子の声。


『ここは』


別の呼吸へ切り替える。


『返して』


最後に、遠くでテレビが鳴っている声。


『帰って』


黒瀬が一番目の振動板を作動させた。


とん。


二番目。


とん。


三番目。


とん。


結衣が客間の壁を見た。


「歩いてる」


藤森奈々も、夫も、言葉を失った。


同じ家。


同じ夜の音。


けれど、放送室のマイクの前には、生きている凛音が立っている。


「幽霊じゃありません」


凛音は地声へ戻った。


「誰かが、死んだ人の声と、子どもの足音を、家の中へ配っていたんです」


奈々が息を吐いた。


安心ではなかった。


幽霊なら、祈ることができる。


人間なら、また来るかもしれない。


再現は、仕組みを見せただけだった。


誰が、何のために流したのか。


それを閉じなければ、呪いは終わらない。


黒瀬は中継器を止めず、監視用の端末を一台だけ繋いだ。


「切れば、相手は別の方法を使う。壊れたと思わせる」


夜十一時。


中継器が遠隔操作された。


送信されたのは、ガラスが割れる音と、女の悲鳴。


凛音たちは放送室の照明を消し、廊下で待った。


十二分後、作業着の男が裏口から入ってきた。


東央開発の社員証。


工具箱の中には、藤森家のガス栓についた傷と同じ幅のレンチ、園芸用殺虫剤、庭木に使われた折り畳み鋸。


男は、警察を呼ぶと言われると、すぐに話した。


土地を安く買うためだった。


事故を重ね、家を危険物件にする。


噂を広げ、家族を孤立させる。


最後に、親切な買い手として現れる。


「全部、会社の指示です。俺は、もともとあった設備を使えと言われただけで」


「もともと?」


凛音が訊く。


男は、町内会長を見た。


「最初に音を流してたのは、あの人です」


放送室の隅で、会長が目を閉じた。


東央開発がこの町へ来るより前から、藤森家には足音が鳴っていた。


開発会社は噂の仕組みを知り、地上げへ利用したにすぎない。


呪いには、二人の脚本家がいた。


家を安く買いたい会社。


家へ誰も近づけたくない住民。


「三十年前、あそこは研究室だった」


会長が言った。


当時、町内会館の放送担当だった。


柏木澄子の朗読教室へ通う子どもたちが、何人も洋館へ連れていかれた。


発声訓練だと説明された。


言葉をうまく話せない子どもへ、新しい治療を試すのだと。


夜遅くまで、同じ声を繰り返す子がいた。


泣きながら、母親の声で「大丈夫」と言う子がいた。


住民は知っていた。


正確な中身までは知らなくても、普通の教室ではないことくらい、わかっていた。


それでも、研究所は町へ寄付をした。


道路が舗装された。


町内会館に新しい放送設備が入った。


そして、見なかったことにする誓約書へ、何人も署名した。


「研究が終わって、家が売りに出されたとき、記録が見つかると思った。だから、噂を作った。人が住みつかなければ、誰も壁を開けない」


「藤森さんたちが住んでからも?」


「追い出せば、守れると思った」


「誰をですか」


会長は答えなかった。


過去の自分を。


町の名前を。


黙っていた全員を。


たぶん、その全部だった。


黒瀬が、古い音声を再生した。


町役場の倉庫に残っていた、三十年前の行政視察記録。


若い会長の声。


『異常はありません。子どもたちは、普通の発声訓練を受けています』


凛音は、一度だけ聞いたその声を再現した。


若く、張りがあり、語尾だけが不自然に硬い。


『異常はありません』


次に、いまの会長の声。


『私は、詳しいことを知りませんでした』


年齢で低くなっても、嘘をつく直前の息の止め方は同じだった。


凛音は、二つの声を交互に重ねた。


『異常はありません』


『知りませんでした』


『異常はありません』


『知りませんでした』


会長が耳を塞いだ。


「やめてくれ」


凛音は地声で言った。


「声は、嘘をつきます。でも、嘘をついた時間までは、消せません」


黒瀬は、机の上へ証拠を並べた。


指向性スピーカーの購入履歴。


町内放送への不正アクセスログ。


事故に使われた工具と社員の指紋。


東央開発の買取計画図。


藤森家を『危険住宅』へ指定させるための社内工程表。


そして、第三音声行動研究室の行政認可書類。


地上げ工作と証拠隠滅は、刑事事件として捜査されることになった。


三十年前の研究については、時効もあり、記録も足りない。


誰か一人を捕まえれば終わる話ではない。


町内会は、残った資料を被験者本人へ返し、外部の調査委員会へ提出することを決めた。


決めた、というより、もう隠し続けられなくなった。


夕方。


町内放送のスピーカーが、電柱から外された。


住民は、誰も見送りに来なかった。


空になった金具だけが、橙色の空を向いている。


藤森家の窓に、一つずつ灯りがついた。


結衣が、客間の壁へ耳を当てる。


「今日は、何も聞こえない」


凛音は答えなかった。


聞こえなくなったことが、救いなのか。


二度と聞けない声が増えただけなのか。


まだ、決められなかった。


振動板を外すため、黒瀬が床下へ入った。


しばらくして、金属を叩く音がした。


「凛音。来い」


床板の下から、煤けた耐火箱が出てきた。


中には、カセットテープが三本。


一枚の写真。


十四歳の凛音が、白い椅子に座っている。


背後に、父・時雨源一郎。


その隣に、眼鏡をかけた黒瀬誠司。


そして、凛音の椅子へ手をかけている、十九歳の青年。


いまより髪が長い。


頬も細い。


けれど、間違えようがなかった。


黒瀬恒一郎だった。


凛音は写真から顔を上げた。


「先生」


黒瀬は、写真を見ていない。


最初から、何が写っているか知っていた人の横顔だった。


「どうして、ここにいるんですか」


黒瀬は、初めて、完全な沈黙を選んだ。


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