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第15話 町内会が「この家は人を殺す」と言っています

『町内会で、うちだけ“人を殺す家”と呼ばれています。入居して三年、事故が四件起きました。子どもまで学校で“呪いの子”と言われています。噂を止めてください』


黒瀬は、相談文より先に添付資料を開いた。


登記簿。


修繕記録。


町内会の議事録。


凛音は、音声ファイルを開いた。


役割分担は、もう言わなくても決まっている。


雨の駅から、一週間が過ぎていた。


『第三研究室――時雨凛音』のカセットは、何度聞いても同じところで終わる。


十四歳の凛音。


『私は、時雨凛音ではありません。今日から、声を返します』


続く若い男。


『やめろ。凛音を、台本にするな』


黒瀬は、その声を知っている。


凛音には、わかった。


知らない人間の沈黙ではなかった。


それでも、黒瀬は「調べる」としか言わない。


音響技師へ年代測定を依頼し、声紋の比較結果を待っているという。


「比較する声があるんですか」


凛音が訊くと、黒瀬は答えなかった。


「先生の昔の声と、比べてるんですね」


「結果が出るまで、断定しない」


「それは、否定じゃありません」


「否定できる材料がない」


雨倉駅のロッカーで、父の頭文字を見たときと同じ答えだった。


約束を破ったわけではない。


話す順番を、また一人で決めようとしている。


凛音は問い詰める代わりに、新しい相談の音を聞いた。


いま生きている子どもが、噂の中で声を失いかけている。


自分の過去より、先に止めるべきものがあった。


十七人分の録音。


町内会の住民が、別々の日、別々の場所で話している。


『昔から、あの家は人を取る』


七十代の男。


『昔から、あの家は人を取る』


買い物帰りの女。


『昔から、あの家は人を取る』


子どもを迎えに来た父親。


声の高さも、年齢も、方言も違う。


けれど、息を吸う場所が同じだった。


『昔から』のあとに、一拍。


『あの家は』で少し声を落とす。


『人を取る』の『る』だけ、長く残す。


十七人が、同じ句読点で話している。


「自然に広がった噂じゃありません」


凛音はイヤホンを外した。


「台詞を配られています」


依頼人の藤森奈々は、三十八歳。


夫と、小学五年生の娘・結衣と暮らしている。


家は東京郊外の古い洋館だった。


築六十年。


相場の半額。


地元では『柏木館』と呼ばれていた。


前所有者の柏木澄子は、元小学校教師。


退職後は、自宅で子どもの朗読教室を開いていた。


町内会の行事では、避難放送や昔話を録音し、長く地域へ声を残した人だった。


三年前、二階の寝室で病死した。


購入時、不動産会社からは、前所有者が亡くなったため早く処分したいと説明された。


事故物件ではない。


告知事項もない。


それでも、引っ越してから四件の事故が起きた。


奈々が階段から転落し、左腕を骨折。


深夜のガス漏れ。


庭木が、娘の部屋の窓へ倒れた。


飼っていた文鳥が、突然死んだ。


「病院では、鳥が毒を口にした可能性があると言われました。でも、家の中に毒物なんて」


奈々の隣で、結衣が膝を抱えていた。


「学校で、みんな言うの」


十歳の声。


泣かないよう、語尾を平らにしている。


「うちに遊びに来たら死ぬって。私が怒ると、呪いが移るって」


「先生」


「ああ。受ける」


黒瀬は、子どもの前では報酬の話をしなかった。


結衣が席を外したあと、奈々へ成功報酬を告げた。


金額は、いつもの半分だった。


凛音は何も言わなかった。


人間の心が読めない男にも、読まなくてよいことはわかるらしい。


藤森家の洋館は、再開発予定地の中央にあった。


周囲には空き家が多い。


黒瀬が登記を調べると、六年間で二十三筆の土地が、同じ会社へ移っていた。


東央開発。


売却額は、どれも相場より三割ほど安い。


藤森家の一筆だけが残り、商業施設の計画が止まっている。


「家を呪いにして、値段を下げる」


凛音が言う。


「結論は早い」


「先生は、もう同じこと考えてる声です」


「俺の声を勝手に分析するな」


「仕事です」


玄関へ入ると、古い木とワックスの匂いがした。


吹き抜け。


赤い絨毯の階段。


壁には、前所有者が残した風景画。


黒瀬は、天井まで見上げる。


「事故が四件あって、相場の半額か」


「はい」


「家賃が安い理由としては、誠実だ」


「先生のマンションも、冷蔵庫を見たら値下げされます」


「冷蔵庫は建物評価に入らない」


「住人評価には入ります」


階段の手すりには、新しい金具が付いていた。


奈々が落ちたあと、修理したものだという。


黒瀬は、外された古い金具を見せてもらった。


ねじ山が潰れている。


自然に緩んだのではない。


合わない工具で、無理に回した跡。


ガス会社の報告書には、元栓の表面に細い傷。


庭木の切断面は、風で折れた形ではなく、半分まで鋸を入れたあとがある。


文鳥の検査では、園芸用殺虫剤の成分。


四件とも、偶然では説明しにくい。


そして、事故のたび、東央開発から同じ手紙が届いていた。


一件目の転落後は、階段の修繕費を負担するという提案。


ガス漏れの翌日には、仮住まいの紹介。


庭木が倒れた週には、土地だけなら高く買えるという見積書。


文鳥が死んだあと、初めて買い取りの期限が書かれた。


『危険な家を、現状のまま買い取ります。回答期限、今月末』


事故が重なるたび、条件は悪くなっている。


家族が恐怖で判断できなくなる時期を測っているようだった。


「犯人は開発会社ですか」


奈々が訊く。


「そう見えるように、証拠が並びすぎている」


黒瀬は言った。


「だが、事故は全部、この家が公的に“危険”と判定される方向へ作られている。階段、ガス、倒木、毒物。次に建築指導が入れば、居住継続が難しくなる」


「誰かが、私たちを追い出そうとしてる」


「その可能性は高い」


その夜。


二階には、誰もいなかった。


奈々と夫は一階。


結衣は凛音と客間。


黒瀬は、廊下と階段へ小型カメラを置いた。


午前一時十三分。


天井の上で、子どもの足音がした。


とん。


とん。


とん。


裸足で、廊下を走る音。


結衣が布団の中で目を開けた。


「女の子」


「どこにいるの」


「壁の中。泣いてる」


結衣は、怖がっているだけではなかった。


何かを聞き分けようとして、壁へ耳を向けている。


「いつも、同じところで止まるの。ここから走って、階段の前で転ぶ」


「転ぶ音もする?」


「うん。そのあと、“ごめんなさい”って」


凛音には、泣き声は聞こえなかった。


足音だけ。


けれど、結衣が嘘をついていないことは、声でわかった。


聞こえないものを作って話す子どもの呼吸ではない。


本当に、凛音とは違う位置で音を聞いている。


足音は、客間の右から左へ移る。


黒瀬が二階を確認する。


誰もいない。


カメラにも映っていない。


直後、玄関のインターホンが鳴った。


モニターは暗い。


外には誰もいない。


スピーカーから、老女の声がした。


『返して』


奈々が口元を押さえた。


「前の持ち主です」


前所有者の柏木澄子。


三年前、この家で病死した女。


葬儀の記録映像に、同じ声が残っているという。


『ここは、返して。帰って』


音が切れる。


凛音は、インターホンへ顔を近づけた。


「一つの台詞じゃありません」


「わかるのか」


「“ここは”のあと、息がありません。“返して”は喉が乾いてる。“帰って”だけ、後ろにテレビの音がある」


三つの録音を繋いでいる。


凛音は、同じ声を再現した。


『ここは』


一度、口を閉じる。


別の呼吸。


『返して』


喉の乾きを作る。


最後に、少し遠い音。


『帰って』


奈々が、凛音とインターホンを交互に見た。


亡者の声が、二つになった。


「前の持ち主が、ここへ戻ってきたわけではありません。別々の録音を、誰かが繋いだ」


「でも、誰が、澄子さんの声を」


奈々が、町内会から受け取った追悼映像を再生した。


澄子が朗読教室で話している。


『ここは、声を出していい場所です』


別の場面。


貸した本を子どもへ催促する。


『返してね。次の子が待っているから』


最後は、防災訓練の録音。


『雨が強くなる前に、家へ帰って』


“ここは”。


“返して”。


“帰って”。


三つとも、追悼映像の素材に入っていた。


映像を編集したのは町内会。


元の音声は、町内会館の放送室に保管されている。


「死者の声を盗んだ場所が、見えてきましたね」


凛音が言う。


黒瀬は、インターホンの配線を確かめる。


家の外から引き込まれた新しい線はない。


音は、既存の設備を通っている。


答えはまだない。


再現は、幽霊でなくても作れることを示しただけだった。


どこから音源を得て、どこから流したのか。


壁を調べても、機器は見つからない。


結衣だけが、客間の壁へ耳を当てていた。


「ここ。女の子、まだいる」


翌日、町内会の集会が開かれた。


藤森家の安全調査を説明するという名目で、十七人の住民が集まった。


会長の男は、最初から言った。


「あの家は、昔から人を取る。早く壊したほうが、藤森さんのためです」


凛音は立ち上がった。


「今から、新しい声を聞かせます」


会長の太い声。


『昔から、あの家は人を取る』


隣の女の高い声。


『昔から、あの家は人を取る』


若い父親。


老人。


商店主。


十七人の声を、順番に再現した。


声は違う。


息継ぎと間だけが、すべて同じ。


最後に、凛音は地声で言う。


「みなさん、この台詞を、誰に教わったんですか」


住民たちの顔が固まった。


会長が机を叩く。


「教わってなんかいない。本当に昔から」


「“昔から”のあとで、一拍置くことまで?」


誰も答えない。


黒瀬が、町内会の会計資料を出した。


半年前、東央開発から『防災音声講習』の名目で寄付が入っている。


講習では、災害時に噂を統一するためとして、住民へ音声教材が配られていた。


教材の講師名は空欄。


音源も削除済み。


「買収されて、同じ台詞を言ったんですか」


奈々の夫が問う。


住民の一人が、首を振った。


「金じゃない」


老女だった。


「あの家は、壊さないといけない。中にあるものが、また起きる」


「中に、何があるんですか」


「言えない」


声は、本気で怯えていた。


会長が、老女の前へ資料を置いた。


黙れと命じる代わりの動作だった。


老女は、その紙へ触れずに言う。


「三十年前、みんな約束したの。聞いた声は、外で話さない。あそこで起きたことは、病気だったことにするって」


集会所の椅子が一斉に軋んだ。


「何の病気ですか」


凛音が問う。


老女の唇が、Rの形を作った。


会長が大きな咳をして、言葉を消した。


「年寄りの記憶違いです」


十七人のうち、誰も同意しなかった。


住民は、開発会社に言わされているだけではない。


自分たちの過去を守るため、進んで噂へ加わっている。


集会は、誰も答えないまま終わった。


黒瀬は町役場の古い抵当権資料を調べた。


三十年前。


洋館の管理者欄。


『黒瀬誠司』


黒瀬の指が止まる。


管理期間は、凛音が生まれる前から、失声期が終わる年まで。


所有者は柏木澄子のまま。


誠司は、賃借でも居住でもなく、『研究管理受託者』として記録されていた。


用途欄には、住宅ではない文字があった。


『第三音声行動研究室』


雨の駅で受け取ったカセットと、同じ名前。


「先生」


「この家は、父が管理していた」


黒瀬は、紙から目を離さない。


「お前の失声期を記録した、第三研究室だ」


その夜。


結衣が、客間の壁紙の剥がれへ指を入れた。


古い空調口の蓋が外れる。


中から、埃にまみれた薄い台帳が落ちた。


「凛音さんの名前がある」


凛音は、受け取った。


表紙に、黒い文字。


『第三音声行動研究室 録音台帳』


最初の見出し。


『被験者R-03 時雨凛音 失声期九十二日』


自分の名前が、家の壁の中から出てきた。


人の名前ではなく、検体の番号として。


二階で、また子どもの足音がした。


今度は、凛音の真上で止まった。

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