第14話 雨の駅で、前世は終わる
千鶴の電話には、場所が残っていた。
声ではない。
声の後ろにある音だった。
列車が入る前、三音の電子ベル。
古いディーゼル車の低い振動。
雨で三分遅れている上り列車。
構内放送の最後に、遠くで鳴った港の汽笛。
凛音は、通話を二十回聞いた。
黒瀬は、当日の天候、路線、列車の遅延記録を重ねた。
条件に合う駅は一つだけだった。
海沿いの小さな終着駅、青波駅。
「探さないで、と言っていました」
始発の車内で、凛音は言った。
出発前、黒瀬は警察へ通話記録と音源を渡した。
ただし、千鶴の名前は出さず、二十四年前の失踪者本人らしい女性から接触があった、とだけ伝えた。
居場所を突き止めることが、保護になるとは限らない。
相手が逃げて生き延びた人間なら、追う側に回った瞬間、自分たちも加害者になる。
「なら、行くなと言うのか」
「そうは言ってません」
「言っている」
「声が、助けてって言ってたんです」
千鶴は、言葉では拒んだ。
けれど、電話を切る直前、息が一度だけ震えた。
誰かに見つかるのを恐れる声。
一人でいることにも、疲れている声。
黒瀬は窓の外を見た。
「会って、本人が帰れと言ったら帰る。居場所は公表しない」
「先生、そういう約束、守れますか」
「原稿以外は、だいたい守る」
「一番大事なものを外しましたね」
青波駅には、朝から雨が降っていた。
一面だけのホーム。
小さな売店。
濡れたベンチ。
その端に、女が座っていた。
五十代。
紺のコート。灰色の髪を後ろで束ねている。
赤い傘を持っていない。
凛音が近づくと、女は顔を上げた。
「時雨凛音さん」
電話と同じ声だった。
二十四年前のテープより低い。
それでも、言葉の前に舌を小さく鳴らす。
「沢田千鶴さんですか」
女は、しばらく答えなかった。
「その名前で、呼ばないで」
凛音は頷いた。
黒瀬は、名刺も録音機も出さなかった。
三人は、駅前の閉まった食堂の軒下へ移った。
雨がトタン屋根を叩いている。
千鶴は、二十四年前のことを話した。
交際相手の男は、最初は優しかった。
劇団の稽古が遅くなれば迎えに来た。
台詞を覚えれば花を買った。
やがて、帰宅時間を決めた。
友人との電話を聞いた。
舞台へ出るなと言った。
千鶴が別れを告げると、左手を熱い鍋へ押しつけた。
三日月の火傷は、そのときのものだった。
「警察へ行きました」
千鶴は言う。
「痴話喧嘩だと言われた。家族には、私が男を怒らせる言い方をしたんじゃないかって」
相手の父親は、地域の開発会社を経営していた。
警察署へ寄付をし、町の行事へ金を出していた。
男は、回帰文化研究会の前身になった心理研究団体へ出入りしていた。
人は、同じ言葉を繰り返せば、自分から戻ってくる。
離れようとする相手には、罪悪感を与えればよい。
男は、その方法を千鶴へ試した。
「逃げる日の夜、雨倉駅へ行きました。沙羅へ電話をしようとした。でも、あの人が追ってきた」
十七番のロッカーには、暴力の記録と、男の団体が行っていた実験の資料を入れた。
千鶴は、赤い傘で抵抗した。
柄の血は、男のものだった。
男は倒れたが、すぐに起き上がった。
『逃げたら、次は妹だ』
そう言われた。
千鶴は、駅にいた女性に助けられた。
女性は、暴力から逃げる人を支援する小さな団体の職員だった。
その夜、別の町へ移った。
名前を変えた。
戸籍の閲覧を制限し、連絡を断った。
「沙羅に一言、言えたはずです」
凛音は責めるためではなく、確かめるために言った。
千鶴の指が、膝の上で重なる。
「一度、手紙を書きました。出す前に、あの人から写真が届いた。高校の前にいる沙羅の写真。私が生きているとわかれば、妹を使って呼び戻される」
「だから、死んだことにした」
「死んだんじゃない。沢田千鶴を、置いてきたの」
千鶴には、いまの名前がある。
仕事がある。
夫と、成人した娘がいる。
家族は、彼女の昔の名前を知らない。
娘の結婚式は、三か月後だった。
招待状の母親欄には、沢田千鶴ではない名前が印刷されている。
二十四年前の事件を公にすれば、守ってきた生活が壊れる。
「どうして、私へ電話したんですか」
凛音が訊く。
「沙羅が連れて行かれる映像を見た。あなたが、あの子の声を奪わずに止めたのも」
千鶴は、濡れた線路を見る。
「昨日から、駅で同じ男を二度見た。昔、あの人の父親の会社にいた男。研究会が、私の居場所を知ったんだと思った。警察へ名乗る勇気はなかった。でも、誰にも言わなければ、また沙羅が私の代わりになる」
探すなと言いながら、音の残る駅から電話をした。
見つけてほしい気持ちと、見つかりたくない恐怖が、同じ一分間に入っていた。
「沙羅を助けたい。でも、私は戻れない」
「戻る必要はありません」
凛音は言った。
「前の名前を名乗らないと、妹を愛していないことになるわけじゃない」
千鶴は、初めて凛音を見た。
そのとき。
駅のスピーカーから、雑音が流れた。
通常の構内放送ではない。
雨音の下に、古いテープの回転音。
『沙羅』
若い千鶴の声だった。
千鶴の身体が固まる。
『私を見つけて。雨倉駅で待ってる』
続いて、家族しか知らない呼び方が流れた。
『さあちゃん。お姉ちゃんの赤いマフラー、勝手に使ったでしょう』
沙羅が幼い頃、千鶴の服を借りたときの留守番電話。
研究会は、姉妹の記憶まで音源にしていた。
本人の目の前で、過去の自分が勝手に妹を呼んでいる。
千鶴は耳を塞いだ。
「やめて。これは、私じゃない」
駅のホーム全体へ、二十四年前の声が響く。
目の前には、年齢を重ねた本人がいる。
それでも、若い声のほうが幽霊のように駅を支配した。
『帰ってきて。沢田千鶴に、戻って』
千鶴が後ずさる。
「見つかった」
声が細くなった。
「研究会に、私の場所が」
黒瀬は放送室へ走った。
駅員が止めるより早く、配線盤の横に付けられた小さな受信機を見つける。
外部から構内放送へ音を割り込ませる装置。
機器には、回帰文化研究会が使っていた管理番号が残っていた。
「音を止めろ」
黒瀬が駅員へ言う。
凛音は、放送室のマイクを取った。
「止めないでください」
「凛音」
「返します。言葉を」
凛音は、若い千鶴の声を喉へ置いた。
一度聞いただけではない。
テープで何度も聞いた、二十六歳の声。
「私は、待っていない」
駅のスピーカーから、同じ若い声が流れる。
けれど、台詞は違う。
「誰かの前世になるために、生き延びたんじゃない。沢田千鶴へ戻るためでもない。私は、ここまで生きた」
凛音はマイクを、千鶴へ差し出した。
千鶴は首を振る。
「いまの声で、同じことを言ってください」
「できない」
「若い声は、私にも作れます。でも、二十四年生きた声は、あなたにしか出せない」
雨音。
ホームへ入る列車の警笛。
千鶴は、震える手でマイクを受け取った。
「私は、待っていません」
低くなった声。
長い時間を通った声。
「誰かの前世になるために、生き延びたんじゃない。私は、ここまで、生きました」
若い声と、いまの声。
違う音だった。
同じ一人の人生だった。
構内放送が切れる。
黒瀬は、受信機を証拠袋へ入れた。
「これで、現在の脅迫は立件できる」
「千鶴さんが名乗らなくても?」
「補聴器への指示ログ、受講者の資産移転契約、偽名口座、再開発会社との共謀メール。詐欺は千鶴の身元を出さずに組める」
黒瀬は、集めた資料を順番に並べた。
土地売却を勧めた担当者の送信記録。
再開発会社から研究会へ支払われた成功報酬。
御厨へ届いた遠隔指示。
駅の放送設備へ接続された受信機。
どれも、千鶴が誰であるかを証明しなくても、現在の犯罪を示せる。
二十四年前の暴力については、赤い傘と当時の相談記録を別件として再調査する。
千鶴の証言は、身元を非公開にした調書へ残す。
一つの大きな物語にまとめれば、世間は理解しやすい。
けれど、その理解のために、千鶴の今の家族を舞台へ上げる必要はない。
赤い傘の血痕は、二十四年前の暴力事件を再調査する物証になる。
千鶴は匿名のまま、警察へ事情を話す。
失踪記録は、生存確認、本人の希望により非公表。
沙羅の加担した罪は消えない。
それでも、姉の事件まで沙羅の罪へ埋める必要はない。
「真実を、全部書けばいいわけじゃないんですね」
凛音が言う。
「隠すために削るのと、本人の人生を守るために分けるのは違う」
黒瀬は答えた。
「俺は、昔、その違いを間違えた」
湖のホテルで、真実を小説へ変えた男の声だった。
午後。
沙羅が、弁護士と捜査員に付き添われて駅へ来た。
手には、新しい赤い傘があった。
姉が失踪した年、誕生日に渡せなかったものと同じ色だという。
姉妹は、線路を挟んだ反対側のホームに立った。
沙羅は、姉の現在の名前を知らない。
千鶴は、妹へ近づかなかった。
二人は、一度だけ目を合わせた。
沙羅の唇が動く。
『お姉ちゃん』
声は、列車の接近音に消えた。
千鶴も何かを言った。
凛音には、口の形だけが見えた。
『生きて』
そう見えた。
長い車両が、二人の間を通る。
窓の一枚一枚に、姉と妹の姿が交互に映った。
列車が去ったあと、向こうのホームに千鶴はいなかった。
沙羅は追わなかった。
赤い傘を、ベンチへ立てかける。
それから補聴器を外し、自分の耳で雨の音を聞いていた。
遼と春菜も、駅へ来ていた。
遼は、ベンチで長く黙ったあと、言った。
「僕は、前世を信じたかったんじゃない」
春菜は何も言わず、待った。
「母の電話を切ったことを、やり直したかった。子どもができないかもしれない未来も、怖かった。千鶴を迎えに行けば、誰かを救える人間になれると思った」
「私は、あなたに救ってほしかったわけじゃない」
春菜の声は静かだった。
「一緒に、怖いって言ってほしかった」
遼は泣いた。
前世の妻の名前を呼ばずに。
春菜は、「帰ってきて」とは言わなかった。
「自分の声で話せるようになったら、連絡して」
二人は、別々の列車へ乗った。
元に戻ったのではない。
自分たちで、次を決める場所へ戻った。
夕方の駅舎。
ベンチに、赤い傘が一本、残っていた。
誰も取りに戻らなかった。
帰りの列車で、凛音は黒瀬の隣へ座った。
窓を雨が流れている。
「先生。私が消えたら、探しますか」
「家賃債権者から先に見つかる」
凛音は黙って睨んだ。
「その前に、俺が見つける」
黒瀬は即答した。
「仕事が滞るからだ」
付け足したところだけ、声が少し硬かった。
嘘だった。
凛音は窓へ顔を向けて笑った。
「見つけてくださいね」
「契約の範囲内ならな」
「そこ、広げておいてください」
青波駅を離れる直前、千鶴から小さな封筒を渡されていた。
中には、一本のカセットテープ。
「十年前、黒瀬誠司さんが私を訪ねてきた」
千鶴は言った。
失踪者として暮らしていた千鶴を、誠司は一人で見つけた。
居場所を誰にも知らせない代わりに、一本のテープを預かってほしいと頼んだ。
『息子だけが来ても渡さないでください』
誠司はそう言った。
『時雨凛音だけが来ても、渡さない。二人が、自分で同じ場所まで来たときに』
「どうして二人だと」
千鶴が訊くと、誠司は笑った。
『一人なら、まだ私の台本の中です。二人で来たなら、少なくとも一度は、私の書いた順番を外れた』
それ以上は話さなかった。
「これを、あなたたちが一緒に来たときだけ渡してほしいって」
なぜ二人が一緒に来ると知っていたのか。
なぜ、父自身が台本を書いたような言い方をしたのか。
千鶴も聞いていない。
黒瀬は、封筒を受け取るとき、礼を言えなかった。
父に先回りされた怒りと、十年前まで生きていた証拠を得た安堵が、同じ沈黙になっていた。
ラベルには、こう書かれていた。
『第三研究室――時雨凛音』
黒瀬は、車内で再生機へ入れた。
ノイズ。
機械の動く音。
十四歳の凛音の声。
『私は、時雨凛音ではありません。今日から、声を返します』
凛音は、息を止めた。
続いて、少年の声が入った。
『やめろ。凛音を、台本にするな』
若い男の声。
怒りで掠れ、息が切れている。
凛音は、隣の黒瀬を見た。
黒瀬の顔から、血の気が引いていた。
「先生。この声を、知ってるんですか」
黒瀬は答えなかった。
列車だけが、雨の中を進んでいた。




