↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/17

第13話 死者の声を売る女

『千鶴さん。あなたの記憶を、別の人間へ渡す実験を始めます』


父の声は、そこで切れていた。


正確には、切られていた。


カセットのA面には、その一文だけが大きな音で複製されている。


雛形が手配した音響技師は、逆方向のトラックに薄く残っていた元の録音を分離した。


雨音。


椅子が軋む音。


若い時雨源一郎の声。


『千鶴さん。あなたの記憶を、別の人間へ渡す実験を始めます』


短い間。


そして、続き。


『――ただし、これは記憶を渡す実験ではありません』


凛音は顔を上げた。


『声によって、存在しない記憶が形成される危険性を検証します。あなたが聞いた言葉を、自分の体験と思い込むことがある。その条件を調べるための実験です』


『途中で苦しくなったら、右手を上げてください。記録より、あなたの意思を優先します』


若い千鶴が、少し笑う。


『研究者って、もっと怖い人だと思ってました』


『私にも娘がいます。娘にできないことは、あなたにもしません』


凛音は、そこで再生を止めた。


父の声は、研究者の声だった。


それでも、『娘』と言ったところだけ、息が柔らかくなっていた。


凛音の知らない場所で、父は自分を思い出していた。


その事実に救われたくなる。


すぐに、そんな一言だけで全部を許してよいのかと、別の自分が止める。


父は、記憶を移そうとしていたのではない。


記憶が作られる危険を調べていた。


最初の一文だけを切り取り、凛音へ父を疑わせる形に変えた人間がいる。


「これも、台本ですか」


凛音は訊いた。


「俺たちが、次に誰を疑うかまで決める編集だ」


黒瀬は、二つの波形を並べた。


「声は嘘をついていない。前後を奪われた」


「人の言葉って、切る場所を変えたら、反対になるんですね」


「小説も同じだ。結末を切れば、だいたい名作になる」


「先生の作品で試しましょうか」


「契約を見直す」


凛音は笑えなかった。


父の声を信じてよい安堵と、誰かに父を疑わされた怒りが、同じ場所にあった。


黒瀬が、再生機を止める。


「今日は、ここまでにするか」


「先生が、そういうこと言うんですね」


「お前が、音を聞けていない」


凛音は返事をしなかった。


自分では、いつも通り聞いていたつもりだった。


黒瀬には、声のことはわからない。


それでも、凛音が父の一言へ引っかかり、次の音を聞けなくなったことはわかったらしい。


「続けます」


「そうか」


止めも、励ましもしなかった。


選ぶ場所だけを残した。


テープの後半には、若い女の声が残っていた。


沢田千鶴。


『先生。妹には、言わないでください』


『なぜですか』


『あの子、私の声を真似するんです。小さい頃から。私がいなくなったら、ずっと私の声で話すかもしれない』


その言葉で、凛音は御厨沙羅の声を思い出した。


講師の低い声。


前世の妻の掠れた声。


二つは別人に聞こえた。


けれど、「待ってる」の最後だけ、舌の位置が同じだった。


声帯ではなく、長く一緒に暮らした人間が持つ癖。


「御厨は、千鶴さんの妹です」


黒瀬は、すでに一枚の戸籍資料を出していた。


御厨沙羅。


旧姓、沢田。


沢田千鶴の九歳下の妹。


「気づいてたなら、先に言ってください」


「お前が声で辿り着くか見ていた」


「実験しないでください」


「確認だ」


「言い換えても同じです」


二人が記憶回帰アカデミーへ戻ると、入口の看板は外されていた。


受付の机から、パソコンと契約書が消えている。


逃げる準備だった。


施術室だけ、昨日のまま残っていた。


御厨沙羅は中央の白い椅子へ座っていた。


左耳の補聴器を外している。


「テープを見つけたのね」


補聴器を通さない声は、講師の声より高かった。


語尾が少し早い。


誰かを安心させるために整えていない、沢田沙羅自身の声だった。


春菜と遼も来ていた。


遼は、沙羅を見ても千鶴の名前を呼ばなかった。


何を信じればよいか決められず、椅子の背へ手を置いている。


黒瀬が言う。


「御厨沙羅。本名は沢田沙羅。前世療法に使った音声は、姉が残したテープだな」


「姉は、家出なんかしていない」


沙羅の声が強くなった。


「警察も、新聞も、家族まで、そう言った。男と揉めて、恥ずかしくなって逃げたんだろうって。二十六歳の女がいなくなっても、誰も探さなかった」


失踪の二日前、千鶴は実家へ来ていた。


長袖だった。


真夏なのに、手首まで隠していた。


沙羅が袖を引くと、青黒い痣があった。


千鶴は階段から落ちたと言った。


その夜、留守番電話へ声を残した。


『沙羅。私が家出したって言われても、信じないで』


翌日には、そのテープだけが部屋から消えていた。


沙羅は、姉の交際相手が持ち去ったと思っている。


男は地元の有力者の息子で、警察へ相談した記録も残らなかった。


「姉は、逃げたんじゃない。逃げられなかったの」


沙羅は九歳下だった。


姉が失踪したとき、十七歳。


千鶴の部屋には、留守番電話のテープ、日記、発声練習に使ったカセットが残っていた。


千鶴は、地元の劇団で役者を目指していた。


台詞を何度も録音し、聞き直す癖があった。


沙羅は、その声を捨てられなかった。


毎日聞いた。


同じ台詞を繰り返し、姉の息継ぎを覚えた。


やがて、自分の喉から千鶴の声が出るようになった。


「最初は、姉を知っている人に聞かせただけ。誰か一人でも千鶴の名前を口にしてくれたら、姉は、家出した女のまま消えないと思った」


記憶回帰アカデミーの前身は、小さな聞き取り会だった。


失った家族の声を、残された録音から再現する。


遺族は泣いた。


礼を言った。


その評判を聞きつけた『回帰文化研究会』が、資金と場所を提供した。


質問票。


催眠誘導。


土地情報。


相続予定。


最初は、受講者の悲しみを知るためだと言われた。


次に、より深い回帰へ必要だと、戸籍と資産の資料を求められた。


補聴器も、聴力を補う新型機器として研究会から渡された。


沙羅の耳へ届いたのは、受講者が言いそうな言葉ではない。


言わせるべき言葉だった。


『母親を見捨てた罪を思い出させる』


『現住所への執着を、前世の障害として扱う』


『抵抗した場合、家族は魂の成長を妨げる存在と説明する』


姉の声を聞かせる会は、前世の償いを売る事業へ変わった。


「途中で、気づいたでしょう」


凛音が言う。


「受講者が家を売っている。遺産を渡している。お姉さんを探すためじゃない」


「研究会は、情報を持っていた。十七番のロッカーも、赤い傘も。従えば、姉に近づけると言われた」


「だから、遼さんの人生を使ったんですか」


「この人の家の土地に、雨倉駅の記録が埋まっている。研究会は、そう言った」


遼が、ようやく口を開く。


「千鶴は、僕の前世の妻じゃないんですね」


沙羅は答えなかった。


代わりに、机の下のスイッチを押した。


室内の明かりが落ちる。


壁の奥から、千鶴の声。


『遼。待ってる』


次に、別の声。


凛音は、立ち上がれなかった。


十四歳の自分の声だった。


『私は、時雨凛音ではありません』


暗号化フォルダの記録にあった、失われた三か月。


自分が聞いたことのない、自分の声。


『名前を呼ばないでください。私は、借りた声です』


沙羅の口が、台詞に合わせて動いている。


だが、声は襟元の小さなスピーカーから出ていた。


「この音を、どこで手に入れたんですか」


凛音の地声が震える。


「研究会から。あなたが来たら、聞かせろと言われた」


「誰に」


「名前は知らない。K・Sとだけ」


黒瀬の表情が固くなる。


沙羅は続けた。


「姉の記録を持っている人。あなたの記録も、全部」


凛音は、目を閉じた。


一度だけ聞いた十四歳の声を、喉へ戻す。


『私は、時雨凛音ではありません』


同じ高さ。


同じ震え。


次に、千鶴の録音。


『遼。待ってる』


そして、御厨沙羅が講師として使う低い声。


「前世とは、心が忘れるしかなかった物語です」


三つの声を、順番に並べた。


最後に、補聴器を外した沙羅自身の声を再現する。


「姉は、家出なんかしていない」


沙羅の肩が揺れた。


姉の声。


講師の声。


研究会から渡された凛音の声。


その下に、ずっと押し込められていた、妹の声。


凛音は自分の声へ戻った。


「あなたが、お姉さんの声を残したかったことと、他人の人生を、お姉さんの墓標にしたことは、同じじゃない」


「姉は殺されたのよ」


「だから、誰を騙してもいいんですか」


「証拠を探すには、これしかなかった」


沙羅の目から涙が落ちた。


「私がやめたら、千鶴の声は、また誰にも聞かれなくなる」


春菜が、遼の隣で言った。


「でも、夫の声も、聞こえなくなりました」


遼は俯いた。


「僕は、千鶴の声を聞いている間だけ、母の留守番電話を聞かなくて済んだ」


遼は言った。


「母を迎えに行けなかったのは、やり直せない。でも、前世の妻なら、今度こそ迎えに行ける。そう思ったら、少しだけ、息ができた」


春菜は夫を見た。


責める声も、慰める声も出さなかった。


遼が初めて、自分の声で痛みを話している。


その途中へ、別の言葉を入れたくなかった。


沙羅が姉を残すために、遼は自分の悲しみを前世へ渡した。


誰かの声を守るため、別の誰かの声が消えた。


黒瀬は、机へ資料を置いた。


受講者の資産一覧。


寄付先法人。


再開発会社の株主名簿。


補聴器へ送られた遠隔指示のログ。


『相沢遼。母親への罪悪感を強調』『千鶴との再会条件として土地売却を提示』


指示は、沙羅の補聴器へ一行ずつ送られていた。


「姉を探すための会なら、この指示は要らない」


黒瀬が言う。


「回帰文化研究会は、お前の喪失を入口にして、受講者の資産を動かした。お前が姉の声を手放せないことも、台本に入っている」


「私を、逮捕させるの」


「詐欺への加担は消えない」


「そうしたら、姉の事件は、また家出で終わる」


「終わらせない」


黒瀬は、証拠袋に入った赤い傘の写真を見せた。


柄には、血液反応の出る乾いた染みが残っていた。


古い指紋も検出できる可能性がある。


警察は、失踪事件の資料と照合するため、再鑑定を始めていた。


「前世の詐欺と、二十四年前の事件を分ける。お前を無罪にするためではない。千鶴を、お前の罪と一緒に埋めないためだ」


沙羅は、長いあいだ、赤い傘を見ていた。


それから、凛音と黒瀬を交互に見る。


「あなたたち、恋人でしょう」


「違う」


黒瀬の否定は、一拍もなかった。


「違います」


凛音は、そのあとで答えた。


自分でもわかるほど、声が少し沈んだ。


黒瀬は気づかなかった。


「契約上、凛音は音声協力者兼危険物だ」


「後半だけ撤回してください」


「前半はいいのか」


「いま、そこじゃありません」


沙羅は、泣きながら少し笑った。


その日の夜。


回帰文化研究会の事務所へ捜索が入った。


沙羅は、任意の事情聴取へ向かった。


春菜と遼は、別々に帰った。


事件は閉じ始めている。


それでも、沢田千鶴は見つからない。


凛音が自宅へ戻ったのは、午後十一時を過ぎてからだった。


スマートフォンが鳴る。


非通知。


出ると、雨の音がした。


『凛音さん』


女の声。


二十四年前のテープより低く、少し乾いている。


それでも、息を吸う前の舌の音は同じだった。


沢田千鶴の声。


『沙羅を止めてくれて、ありがとう』


「あなたは、誰ですか」


『でも、私を探さないで』


背後で、列車がホームへ入る音がした。


現在の車両が鳴らす電子音。


構内放送。


『上り列車は、雨のため三分遅れております』


誰かが近くを走る足音。


女は、その足音を避けるように一度だけ息を止めた。


録音なら、電話のこちら側へ合わせて息を止めない。


二十四年前の声を再生しているのでもない。


声帯は年齢を重ね、低くなっている。


それでも、言葉の前に舌を小さく鳴らす癖だけは、テープの千鶴と同じだった。


録音ではない。


いま、どこかの駅から話している。


「千鶴さん。生きているんですか」


短い呼吸。


答えの代わりに、電話が切れた。


画面には、通話時間一分十七秒。


凛音は、すぐに黒瀬へ電話をかけた。


「先生。死者から電話が来ました」


「場所は」


「生きている人の声でした」


沢田千鶴は、生きている。


二十四年間、自分が死んだ物語の外で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。