第13話 死者の声を売る女
『千鶴さん。あなたの記憶を、別の人間へ渡す実験を始めます』
父の声は、そこで切れていた。
正確には、切られていた。
カセットのA面には、その一文だけが大きな音で複製されている。
雛形が手配した音響技師は、逆方向のトラックに薄く残っていた元の録音を分離した。
雨音。
椅子が軋む音。
若い時雨源一郎の声。
『千鶴さん。あなたの記憶を、別の人間へ渡す実験を始めます』
短い間。
そして、続き。
『――ただし、これは記憶を渡す実験ではありません』
凛音は顔を上げた。
『声によって、存在しない記憶が形成される危険性を検証します。あなたが聞いた言葉を、自分の体験と思い込むことがある。その条件を調べるための実験です』
『途中で苦しくなったら、右手を上げてください。記録より、あなたの意思を優先します』
若い千鶴が、少し笑う。
『研究者って、もっと怖い人だと思ってました』
『私にも娘がいます。娘にできないことは、あなたにもしません』
凛音は、そこで再生を止めた。
父の声は、研究者の声だった。
それでも、『娘』と言ったところだけ、息が柔らかくなっていた。
凛音の知らない場所で、父は自分を思い出していた。
その事実に救われたくなる。
すぐに、そんな一言だけで全部を許してよいのかと、別の自分が止める。
父は、記憶を移そうとしていたのではない。
記憶が作られる危険を調べていた。
最初の一文だけを切り取り、凛音へ父を疑わせる形に変えた人間がいる。
「これも、台本ですか」
凛音は訊いた。
「俺たちが、次に誰を疑うかまで決める編集だ」
黒瀬は、二つの波形を並べた。
「声は嘘をついていない。前後を奪われた」
「人の言葉って、切る場所を変えたら、反対になるんですね」
「小説も同じだ。結末を切れば、だいたい名作になる」
「先生の作品で試しましょうか」
「契約を見直す」
凛音は笑えなかった。
父の声を信じてよい安堵と、誰かに父を疑わされた怒りが、同じ場所にあった。
黒瀬が、再生機を止める。
「今日は、ここまでにするか」
「先生が、そういうこと言うんですね」
「お前が、音を聞けていない」
凛音は返事をしなかった。
自分では、いつも通り聞いていたつもりだった。
黒瀬には、声のことはわからない。
それでも、凛音が父の一言へ引っかかり、次の音を聞けなくなったことはわかったらしい。
「続けます」
「そうか」
止めも、励ましもしなかった。
選ぶ場所だけを残した。
テープの後半には、若い女の声が残っていた。
沢田千鶴。
『先生。妹には、言わないでください』
『なぜですか』
『あの子、私の声を真似するんです。小さい頃から。私がいなくなったら、ずっと私の声で話すかもしれない』
その言葉で、凛音は御厨沙羅の声を思い出した。
講師の低い声。
前世の妻の掠れた声。
二つは別人に聞こえた。
けれど、「待ってる」の最後だけ、舌の位置が同じだった。
声帯ではなく、長く一緒に暮らした人間が持つ癖。
「御厨は、千鶴さんの妹です」
黒瀬は、すでに一枚の戸籍資料を出していた。
御厨沙羅。
旧姓、沢田。
沢田千鶴の九歳下の妹。
「気づいてたなら、先に言ってください」
「お前が声で辿り着くか見ていた」
「実験しないでください」
「確認だ」
「言い換えても同じです」
二人が記憶回帰アカデミーへ戻ると、入口の看板は外されていた。
受付の机から、パソコンと契約書が消えている。
逃げる準備だった。
施術室だけ、昨日のまま残っていた。
御厨沙羅は中央の白い椅子へ座っていた。
左耳の補聴器を外している。
「テープを見つけたのね」
補聴器を通さない声は、講師の声より高かった。
語尾が少し早い。
誰かを安心させるために整えていない、沢田沙羅自身の声だった。
春菜と遼も来ていた。
遼は、沙羅を見ても千鶴の名前を呼ばなかった。
何を信じればよいか決められず、椅子の背へ手を置いている。
黒瀬が言う。
「御厨沙羅。本名は沢田沙羅。前世療法に使った音声は、姉が残したテープだな」
「姉は、家出なんかしていない」
沙羅の声が強くなった。
「警察も、新聞も、家族まで、そう言った。男と揉めて、恥ずかしくなって逃げたんだろうって。二十六歳の女がいなくなっても、誰も探さなかった」
失踪の二日前、千鶴は実家へ来ていた。
長袖だった。
真夏なのに、手首まで隠していた。
沙羅が袖を引くと、青黒い痣があった。
千鶴は階段から落ちたと言った。
その夜、留守番電話へ声を残した。
『沙羅。私が家出したって言われても、信じないで』
翌日には、そのテープだけが部屋から消えていた。
沙羅は、姉の交際相手が持ち去ったと思っている。
男は地元の有力者の息子で、警察へ相談した記録も残らなかった。
「姉は、逃げたんじゃない。逃げられなかったの」
沙羅は九歳下だった。
姉が失踪したとき、十七歳。
千鶴の部屋には、留守番電話のテープ、日記、発声練習に使ったカセットが残っていた。
千鶴は、地元の劇団で役者を目指していた。
台詞を何度も録音し、聞き直す癖があった。
沙羅は、その声を捨てられなかった。
毎日聞いた。
同じ台詞を繰り返し、姉の息継ぎを覚えた。
やがて、自分の喉から千鶴の声が出るようになった。
「最初は、姉を知っている人に聞かせただけ。誰か一人でも千鶴の名前を口にしてくれたら、姉は、家出した女のまま消えないと思った」
記憶回帰アカデミーの前身は、小さな聞き取り会だった。
失った家族の声を、残された録音から再現する。
遺族は泣いた。
礼を言った。
その評判を聞きつけた『回帰文化研究会』が、資金と場所を提供した。
質問票。
催眠誘導。
土地情報。
相続予定。
最初は、受講者の悲しみを知るためだと言われた。
次に、より深い回帰へ必要だと、戸籍と資産の資料を求められた。
補聴器も、聴力を補う新型機器として研究会から渡された。
沙羅の耳へ届いたのは、受講者が言いそうな言葉ではない。
言わせるべき言葉だった。
『母親を見捨てた罪を思い出させる』
『現住所への執着を、前世の障害として扱う』
『抵抗した場合、家族は魂の成長を妨げる存在と説明する』
姉の声を聞かせる会は、前世の償いを売る事業へ変わった。
「途中で、気づいたでしょう」
凛音が言う。
「受講者が家を売っている。遺産を渡している。お姉さんを探すためじゃない」
「研究会は、情報を持っていた。十七番のロッカーも、赤い傘も。従えば、姉に近づけると言われた」
「だから、遼さんの人生を使ったんですか」
「この人の家の土地に、雨倉駅の記録が埋まっている。研究会は、そう言った」
遼が、ようやく口を開く。
「千鶴は、僕の前世の妻じゃないんですね」
沙羅は答えなかった。
代わりに、机の下のスイッチを押した。
室内の明かりが落ちる。
壁の奥から、千鶴の声。
『遼。待ってる』
次に、別の声。
凛音は、立ち上がれなかった。
十四歳の自分の声だった。
『私は、時雨凛音ではありません』
暗号化フォルダの記録にあった、失われた三か月。
自分が聞いたことのない、自分の声。
『名前を呼ばないでください。私は、借りた声です』
沙羅の口が、台詞に合わせて動いている。
だが、声は襟元の小さなスピーカーから出ていた。
「この音を、どこで手に入れたんですか」
凛音の地声が震える。
「研究会から。あなたが来たら、聞かせろと言われた」
「誰に」
「名前は知らない。K・Sとだけ」
黒瀬の表情が固くなる。
沙羅は続けた。
「姉の記録を持っている人。あなたの記録も、全部」
凛音は、目を閉じた。
一度だけ聞いた十四歳の声を、喉へ戻す。
『私は、時雨凛音ではありません』
同じ高さ。
同じ震え。
次に、千鶴の録音。
『遼。待ってる』
そして、御厨沙羅が講師として使う低い声。
「前世とは、心が忘れるしかなかった物語です」
三つの声を、順番に並べた。
最後に、補聴器を外した沙羅自身の声を再現する。
「姉は、家出なんかしていない」
沙羅の肩が揺れた。
姉の声。
講師の声。
研究会から渡された凛音の声。
その下に、ずっと押し込められていた、妹の声。
凛音は自分の声へ戻った。
「あなたが、お姉さんの声を残したかったことと、他人の人生を、お姉さんの墓標にしたことは、同じじゃない」
「姉は殺されたのよ」
「だから、誰を騙してもいいんですか」
「証拠を探すには、これしかなかった」
沙羅の目から涙が落ちた。
「私がやめたら、千鶴の声は、また誰にも聞かれなくなる」
春菜が、遼の隣で言った。
「でも、夫の声も、聞こえなくなりました」
遼は俯いた。
「僕は、千鶴の声を聞いている間だけ、母の留守番電話を聞かなくて済んだ」
遼は言った。
「母を迎えに行けなかったのは、やり直せない。でも、前世の妻なら、今度こそ迎えに行ける。そう思ったら、少しだけ、息ができた」
春菜は夫を見た。
責める声も、慰める声も出さなかった。
遼が初めて、自分の声で痛みを話している。
その途中へ、別の言葉を入れたくなかった。
沙羅が姉を残すために、遼は自分の悲しみを前世へ渡した。
誰かの声を守るため、別の誰かの声が消えた。
黒瀬は、机へ資料を置いた。
受講者の資産一覧。
寄付先法人。
再開発会社の株主名簿。
補聴器へ送られた遠隔指示のログ。
『相沢遼。母親への罪悪感を強調』『千鶴との再会条件として土地売却を提示』
指示は、沙羅の補聴器へ一行ずつ送られていた。
「姉を探すための会なら、この指示は要らない」
黒瀬が言う。
「回帰文化研究会は、お前の喪失を入口にして、受講者の資産を動かした。お前が姉の声を手放せないことも、台本に入っている」
「私を、逮捕させるの」
「詐欺への加担は消えない」
「そうしたら、姉の事件は、また家出で終わる」
「終わらせない」
黒瀬は、証拠袋に入った赤い傘の写真を見せた。
柄には、血液反応の出る乾いた染みが残っていた。
古い指紋も検出できる可能性がある。
警察は、失踪事件の資料と照合するため、再鑑定を始めていた。
「前世の詐欺と、二十四年前の事件を分ける。お前を無罪にするためではない。千鶴を、お前の罪と一緒に埋めないためだ」
沙羅は、長いあいだ、赤い傘を見ていた。
それから、凛音と黒瀬を交互に見る。
「あなたたち、恋人でしょう」
「違う」
黒瀬の否定は、一拍もなかった。
「違います」
凛音は、そのあとで答えた。
自分でもわかるほど、声が少し沈んだ。
黒瀬は気づかなかった。
「契約上、凛音は音声協力者兼危険物だ」
「後半だけ撤回してください」
「前半はいいのか」
「いま、そこじゃありません」
沙羅は、泣きながら少し笑った。
その日の夜。
回帰文化研究会の事務所へ捜索が入った。
沙羅は、任意の事情聴取へ向かった。
春菜と遼は、別々に帰った。
事件は閉じ始めている。
それでも、沢田千鶴は見つからない。
凛音が自宅へ戻ったのは、午後十一時を過ぎてからだった。
スマートフォンが鳴る。
非通知。
出ると、雨の音がした。
『凛音さん』
女の声。
二十四年前のテープより低く、少し乾いている。
それでも、息を吸う前の舌の音は同じだった。
沢田千鶴の声。
『沙羅を止めてくれて、ありがとう』
「あなたは、誰ですか」
『でも、私を探さないで』
背後で、列車がホームへ入る音がした。
現在の車両が鳴らす電子音。
構内放送。
『上り列車は、雨のため三分遅れております』
誰かが近くを走る足音。
女は、その足音を避けるように一度だけ息を止めた。
録音なら、電話のこちら側へ合わせて息を止めない。
二十四年前の声を再生しているのでもない。
声帯は年齢を重ね、低くなっている。
それでも、言葉の前に舌を小さく鳴らす癖だけは、テープの千鶴と同じだった。
録音ではない。
いま、どこかの駅から話している。
「千鶴さん。生きているんですか」
短い呼吸。
答えの代わりに、電話が切れた。
画面には、通話時間一分十七秒。
凛音は、すぐに黒瀬へ電話をかけた。
「先生。死者から電話が来ました」
「場所は」
「生きている人の声でした」
沢田千鶴は、生きている。
二十四年間、自分が死んだ物語の外で。




