第9話:伝説のコラボ
配信開始の三十分前、ガルムがダンジョンの入口に立っていた。
画面越しに見るより、実物は大きかった。頭ひとつ分どころか、肩幅からして違う。背中に担いだ大剣の刃渡りがリディアの身長に近い。狼の耳が天井すれすれのところにある。
「思ったより狭いな、このダンジョン」
「中層より奥は広くなります」とリディアは答えた。
「ご案内します」
「案内は要らん。深層の地形は頭に入っている」
「では機材の確認をさせてください」
ガルムが持参した水晶板は、リディアのものより一回り大きかった。自撮り棒も三本ある。冒険者仕様の頑丈な作りで、戦闘中でも固定できる専用の台座がついていた。
「こちらの水晶板と映像を同期しますか」とリディアは聞いた。
「もうやってある。通話した時に設定した」
手際が良かった。戦闘だけやっているように見えて、配信の準備は几帳面にやる人間だとリディアは判断した。
「にゃん吉さん、合図の確認を」
にゃん吉がカウンターの端から答えた。
「尻尾を立てたら動く。それだけだ」
「ガルムさん、確認ですが」
「分かってる」とガルムが言った。
「俺が甲羅に手こずり始めたら合図を出す。その後は猫に任せる」
「手こずり始めたら、ではなく、手こずり始めてから少し粘ってください。視聴者に本当に厳しい相手だと分からせる時間が必要です」
ガルムが眉を上げた。
「俺に演技をしろと」
「本気でやってください。ただし仕留めるタイミングを少し引っ張る。それだけです」
「……Sランク冒険者にそれを言うか」
「コンテンツに必要なので言います」
ガルムはしばらくリディアを見てから、低く笑った。牙が出た。
「お前と仕事するのは初めてだが、こういう人間と組んだことはある」
「どういう人間ですか」
「絶対に退かない交渉人だ」
リディアは答えず、羊皮紙のチェックリストに戻った。
開始と同時に、数字が跳ねた。
ガルムのチャンネルとリディアのチャンネルが同時配信の形をとったため、双方の視聴者が一箇所に集まった。開始三分で同時接続が三十万を超えた。リディアは横目で数字を確認しながら、調理道具の最終確認を続けた。
「すごい数字ですね」
「うちの視聴者はイベントに飢えてる」とガルムが言いながら大剣を構えた。
「行くぞ」
深層の通路を進んだ。
ギガントクラブは最深の広間にいた。
でかかった。
全長の話は聞いていた。三メートルという数字も頭に入れていた。でも実際に目の前にすると数字の意味が変わる。甲羅の表面が岩石そのもので、継ぎ目がほとんど見えない。八本の脚がそれぞれリディアの胴体ほどの太さがある。
コメント欄に「でかい」「これを倒すのか」「無理じゃないか」が流れた。
ガルムが前に出た。
最初の一撃から本気だった。大剣が甲羅を叩いた音は金属同士がぶつかる音で、石の床に火花が散った。ギガントクラブが反応して爪を振り回す。ガルムがそれを半歩で躱して、また叩く。速い。
コメント欄が「はや」「Sランクは格が違う」「でも甲羅に傷がついてない」に変わった。
一分ほど攻防が続いた。ガルムは確かに優れていた。被弾を最小限に抑えながら、甲羅の継ぎ目を狙って刃を入れようとしている。ただ入らない。甲羅が硬すぎて角度を作れない。
ガルムが一歩引いた。
呼吸を整えている。本当に手こずっている。演技ではない。
リディアは尻尾を見た。
にゃん吉がこちらを見ていた。
リディアが小さく頷いた。
にゃん吉が欠伸をした。
ゆっくりと前足を踏み出した。カメラに向かって一歩、また一歩。ギガントクラブの前に来た。丸々とした猫が、三メートルの甲殻類の前に立った。
コメント欄が止まった。
誰も何も書かなかった。全員が画面を見ていた。
にゃん吉の尻尾が一度だけ光った。
音がしなかった。
次の瞬間、ギガントクラブが静止した。そのまま、ゆっくりと横に倒れた。甲羅が石床に当たる音だけが、広間に響いた。
静寂。
コメント欄が、一拍遅れて爆発した。
「え?」「何が起きた」「見えなかった」「猫が何かした」「Sランクが手こずってたやつを一瞬で」「神獣マジ神獣」「ガルムの顔を見ろ」。
ガルムが固まっていた。大剣を持ったまま、倒れたギガントクラブを見て、にゃん吉を見て、また倒れたギガントクラブを見た。
「……」
「ワンパンです」とリディアは言った。
「見た。見たが」
「想定通りです」
「お前は想定していたのか、これを」
「していました」
ガルムがにゃん吉を見た。にゃん吉は前足を舐めていた。
「強い」とガルムが言った。他に言葉が出ない顔だった。
「ありがとう」とにゃん吉が渋い声で答えた。
「調理に移れ」
甲羅を開けたのはガルムだった。
さすがにその力仕事は本物だった。継ぎ目に大剣を差し込んで、体重をかけてこじ開ける。ギシギシと音がして、甲羅が割れた。中から蒸気が上がった。
香りが来た。
磯と、甘みが混ざった香りだった。リディアの体が自動的に反応した。いい素材の匂いをかいだ時の、職業的な反射。
「身を取り出してください。できるだけ形を崩さずに」
「分かった」
ガルムの大きな手が、丁寧に動いた。戦闘と同じ集中力で、身を取り出している。意外だったが、考えてみれば当然かもしれない。Sランクの冒険者は解体も技術のうちだ。
蟹味噌は別の器に移した。色が濃い。量が多い。
リディアは中級魔術を使った。
指先で火を起こし、素材の状態を感じながら温度を上げていく。強くしすぎると身が縮む。弱すぎると火が通らない。甲羅の残骸を皿代わりに使って、身を並べた。直火で表面に焼き色をつけながら、内部には穏やかな熱を通す。
蟹味噌にバルト商会から届いたスパイスを加えた。複数種類を組み合わせて、味見しながら比率を調整する。魔果汁を少量加えると、重さがほぐれた。
コメント欄に「令嬢の手が動いてる」「魔術で火を制御してる」「匂いが伝わってきそう」が流れた。
十五分かけた。
皿に身を盛り、蟹味噌タレを別添えで出した。
「どうぞ」
ガルムが受け取った。
コメント欄が「食え」「早く食え」「顔を映せ」「ガルムの顔見たい」に変わった。
ガルムが身にタレをつけて、口に入れた。
噛んだ。
動かなくなった。
五秒ほどそのままだった。
コメント欄に「どうした」「顔が止まってる」「やばいやつきた」が流れた。
「ガルムさん」とリディアは聞いた。
「感想を」
「……」
もう一口食べた。
「……んんま〜〜〜い!!」
声が深層の天井に響いた。Sランク冒険者の声量だった。石壁が震えた。
「甘い! なんで甘いんだ! 蟹味噌がこんなに複雑な味になるのか!」
「スパイスの組み合わせです」
「身がほぐれる! さっきまであんなに硬かった甲羅の中にこんなものが」
「素材が良いので」
「お前、本当に何者だ」
「プロデューサーです」
コメント欄が「ガルムが落ちた」「んんま〜〜〜い草」「最高」「Sランクでも食い物には勝てない」「投げ銭連打」で埋まった。
同時接続数が、五十万を超えた。
配信が終わった。
ガルムは甲羅の残りを全部食べてから帰り支度を始めた。
「またコラボしてくれ」と言った。
「ご連絡ください」とリディアは答えた。
「条件はまたお前が決めるか」
「そうなります」
「構わん」とガルムは言った。
「俺は料理が分からない。分からない分野のことを分かる人間に任せるのは当然だ」
それだけ言って、深層の通路を一人で戻っていった。背中が大きかった。
スタジオに戻ったのは深夜だった。
魔石が積まれていた。今夜の分がまた外に溢れている。にゃん吉が「換算するのが面倒な量になってきたな」と言った。
リディアは水晶板を置こうとして、手が震えていることに気づいた。
小さな震えだった。荷物を持ちすぎた後のような、筋肉の疲弊とも違う。指先から腕の内側にかけて、細かく震えている。
「にゃん吉さん」
「見えてる」とにゃん吉が答えた。
「魔力が増えすぎたな」
「制御が追いついていません。中級魔術を使い続けるだけで精一杯でした。今夜流れ込んだ量を体の中で処理できていない」
「焦るな」
「焦ってはいないですが、このままだと次の配信で支障が出ます」
「だから焦るなと言っている」
にゃん吉が寝床から降りてきた。リディアの手の前に前足を置いた。神力の気配が、かすかにある。震えが少し収まった。
「器を広げるには時間がかかる。魔力量と技術が釣り合うまで、今の倍はかかると思え」
「その間はこのまま耐えるしかないですか」
「美味いものを食って、寝て、配信を続ける。それだけだ。焦って無理に使うと魔力回路が歪む。そうなると厄介だ」
リディアは自分の手を見た。震えはまだある。でも少し落ち着いてきた。
「次の目標は魔力の制御ですね」
「器を広げることだ。量を制御するのはその後になる」
「どうすれば」
「さあな。俺は神獣だから人間の魔力回路の仕組みは専門外だ」とにゃん吉が言った。
「ただ言えることは、お前が今まで十七年間使ってこなかったものが急に動き始めたんだ。時間がかかるのは当たり前だ」
リディアは少し考えた。
「十七年分のツケが来てる」
「そういう言い方もできる」
「なら地道にやるしかないですね」
「そういうことだ」
にゃん吉は寝床に戻った。
リディアは羊皮紙を取り出した。手がまだ微妙に震えているので、字が少し歪んだ。それでも書いた。
次の配信の企画案。魔力制御の練習方法。食材の発注リスト。やることは変わらない。震えていても、手を動かせばいい。
前世でも、締め切りの前日に手が震えたことがあった。それでも動かした。
窓のない石の部屋に、魔石灯の光が満ちていた。




