第10話:震える手と流れる感覚
朝、リディアは魔石灯の炎を消した。
次に灯した。消した。灯した。
単純な作業だった。でも今のリディアには単純ではなかった。昨夜から続く手の震えを意識しながら、指先に魔力を集める量を調整する。多すぎれば炎が大きくなりすぎる。少なすぎれば点かない。
四十回ほど繰り返したところで、にゃん吉が寝床から声をかけた。
「それをいつまでやる」
「震えが完全に止まるまで」
「それは違う」
リディアは手を止めた。
「魔力は力で押さえ込むものじゃない。流れを作るものだ。今のお前は震えを抑えようとしている。そうじゃなくて、震えごと流れに乗せろ」
「流れに乗せる、というのが分かりません」
「料理で考えろ」とにゃん吉が言った。
「強火で全部押し切ろうとすれば焦げる。素材に合った火加減があるだろう」
リディアはもう一度魔石灯を見た。
炎を消さずに、揺らし続けてみた。大きくして、小さくして、また大きくして。一定にしようとするのをやめた。揺れるものを揺れたままにしながら、その揺れを自分で動かす。
手の震えが、少し変わった。
抑えようとしていた時より、むしろ落ち着いた感覚がある。
「……なるほど」
「分かったか」
「完全にではないですが、方向は分かりました」
「それで十分だ」とにゃん吉は言って、また目を閉じた。
「飯を作れ。修行は手を動かしながらやれ」
午前中に水晶板が鳴った。
ユリウス商会からだった。
文面を開くと、冒頭から文字数が多かった。
【昨夜のコラボ配信以降、弊商会への問い合わせが殺到しております。魔界キノコの追加在庫が本日中に完売する見込みで、仕入れの追加手配を急いでいます。ついては、リディア様に改めてご相談したいことがございます。調理に使用されている魔導具について、特注品の製作をご希望でしたら弊商会で職人を手配できます。お時間をいただけますか。——ユリウス】
リディアはにゃん吉を見た。
「来ました」
「何がだ」
「魔導具の話です。昨日頭の中で考えていた件を向こうから言ってきました」
「お前が先に考えていたのか」
「コラボ中に魔力制御が追いつかなかった時、道具の問題だと思いました。私の体の問題でもありますが、道具が魔力を上手く分散してくれれば体への負荷が減る」
「それを商会に言うつもりだったのか」
「このタイミングで向こうから言ってきたので、交渉がしやすくなりました」
返信を打った。
午後に映像通話を繋いだ。画面に映ったユリウスは、五十代ほどの小太りの男だった。服が良い。話し方が丁寧すぎるくらい丁寧だった。長く商売をやってきた人間の、相手を値踏みする目だけが素顔を出していた。
「コラボ配信、拝見しました。素晴らしい内容でした」
「ありがとうございます。早速ですが本題に入ります」
ユリウスが少し目を細めた。世間話を飛ばされたことへの反応だった。悪い反応ではない。時間を大切にする商人は、遠回りを嫌う相手を信頼する傾向がある。
「特注の調理用魔導具を作ってもらいたいです。条件を三つ言います」
「どうぞ」
「一つ目、使用者の魔力を均一に分散して素材へ伝える機能。私が火加減を調整する際、今の道具では魔力が偏って伝わります。フライパン全体に均等に熱が入る構造にしてほしい。二つ目、過剰な魔力を逃がすバルブ機能。魔力が多すぎた時に自動で余剰分を逃がして、焦がしたり道具が壊れたりしない仕組みが欲しい。三つ目、配信映像で映えること」
ユリウスが目を上げた。
「三つ目が意外でした」
「見た目の美しい調理器具を使っている映像は、商品として成立します。視聴者が欲しがれば、商会で販売できる。その分の収益はお互いに分け合う取り決めにしましょう」
ユリウスがしばらく考えた。指を組んだ。
「職人への発注費用は」
「プロトタイプ一式分は商会持ちでお願いします。その代わり、配信での使用映像の権利と販売ルートの独占権を差し上げます」
「期間は」
「一年。その後は再交渉」
ユリウスがまた考えた。今度は少し長かった。
「……分かりました。職人を手配します。プロトタイプが出来上がるまで、二週間ほどいただけますか」
「構いません。その間は今ある道具で続けます」
通話を切った後、にゃん吉が「交渉が速い」と言った。
「向こうも速い人だったので合わせました。遅い人には遅く話します」
「器用だな」
「前世の仕事でそうしないと生き残れませんでした」
その夜、配信をした。
タイトルは「癒やし回。プリンを作ります」だった。それだけだった。
にゃん吉が「説明が少なすぎる」と言ったが、リディアは「これで十分です」と答えた。シンプルなタイトルは期待値を絞らない。見た人間が自分で中身を想像する余地がある。
素材は魔界産の卵と、ユリウス商会から届いていた高品質な乳脂。砂糖に相当する魔果実のシロップ。バニラに近い香りを持つダンジョン産の香草。
卵を割った。
黄身の色が濃かった。魔界産の卵は通常の二倍近い大きさがあり、黄身の比率が高い。混ぜた瞬間から香りが立つ。
「カスタードを作ります」とリディアは水晶板に向かって言った。「火加減が全てです」
今夜は意図的に魔術の説明をしながらやることにした。視聴者に工程を見せる。何をしているのかを言語化しながら、自分の魔力操作も言葉に落とし込む。
鍋に乳脂を入れて温めた。指先で温度を感じながら、魔力を細く伸ばして底から均等に熱を入れる。力で押し込まない。今朝にゃん吉に言われた感覚を思い出す。流れを作る。
卵液を加えた。
混ぜながら温度を上げる。上げすぎると固まる。直前で止める。止める感覚が、昨夜より少し掴めている。震えがないわけではないが、揺れを抑えようとしていない分、動きが滑らかだった。
型に流した。蒸した。
待つ間、コメント欄に「工程が分かりやすい」「令嬢が喋りながら作るの新鮮」「魔術で料理してるのを解説付きで見るの面白い」が流れた。ガルムのコラボ後に増えた、冒険者系のコメントが混じっている。
「甘いもん見るとは思わなかった」「でも見てしまってる」「なんでだ」という書き込みもあった。
型を取り出した。
表面が黄金色だった。ぷるぷると揺れている。魔石灯の光を受けて、飴色に透き通っている部分がある。
にゃん吉がカウンターから近づいてきた。
「食べてください」
スプーンで一口すくった。にゃん吉が口を開けた。食べた。
目が細くなった。今回は派手な反応ではなかった。ただ静かに、もう一口食べた。
「……柔らかい」
「そうですね」
「甘いのに重くない」
「卵と乳脂の比率です。魔界産の卵は黄身が強いので、乳脂を控えめにしています」
「……もう一口」
「どうぞ」
コメント欄に「癒やされた」「猫がゆっくり食べてる」「んま〜いじゃなくて静かに食べてるのがいい」「心が洗われる」「今日仕事終わりにこれ見てよかった」が流れた。
ガルムのコラボ後に来た荒々しい文体のコメントが、この回では少し丸くなっていた。
「甘党になっちまう」「なんか落ち着く」「来週も見る」。
リディアはその変化を確認しながら、自分の手を見た。
震えていなかった。
完全にではない。意識すればわずかにある。でも鍋を持つ手は安定していた。魔力を流す感覚が、今夜は最初からあった。
(少し、変わった)
配信が終わった後、にゃん吉がマタタビ酒を開けながら言った。
「手が止まっていたな」
「止まってましたか」
「一瞬だが。プリンを型から出す時」
「気づいていませんでした」
「悪い止まり方じゃなかった」とにゃん吉は言った。「集中していた時の止まり方だ」
リディアは羊皮紙を取り出した。今夜の配信の数字を書いた。同時接続は十五万。コラボ回より少ないが、コメントの密度が高かった。投げ銭の平均単価が上がっている。
(固定層が育っている)
一見客より常連の方が長期的な収益になる。前世で何度も確認してきた法則が、この世界でも動いていた。
その夜遅く、水晶板に通知が来た。
差出人の名前を見て、リディアは少し動きを止めた。
【ローゼンベルク公爵家より。令嬢リディアへ。現在の所在と状況について、公爵より直接確認を取りたいとのことです。ご返信ください。——公爵家執事長・ヴィラン】
にゃん吉が缶を置いた。
「実家か」
「父の使いです」
「出るか」
リディアはしばらく文面を見た。
父はリディアを大切にしていた。亡き母に似ているからだと、子供の頃から知っていた。婚約破棄と追放の話が届いていれば、心配するのは当然だった。
でも今夜はまだ返信しないことにした。
「明日にします」
「なぜ」
「今夜の判断は信用しません。プリンを作った後は頭が甘くなる気がします」
にゃん吉が「意味が分からん」と言った。
リディアは水晶板を置いて、羊皮紙の続きを書いた。
王都では今夜も何かが動いているだろう。でも今のリディアにできることは、手を動かし続けることだけだった。
指先に魔力を灯した。
揺れずに、静かに光っていた。




