第11話:極上ステーキ
朝、リディアは水晶板の前に座った。
返信を打って、映像通話のリクエストを送った。三分も経たずに繋がった。相手がずっと待っていたのだと分かった。
画面に映ったのは、白髪交じりの老人だった。厳格な顔つきで、公爵家の執事服が完璧に整っている。ただ目の下に影があった。ここ数日、眠れていない顔だった。
「リディア様……!」
ヴィランの声が、一瞬だけ崩れた。すぐに立て直したが、崩れたのを見た。
『ご無事で何よりです。公爵閣下は殿下の所業を聞いた翌日に国王陛下へ直接抗議を申し入れました。婚約破棄はともかく、廃ダンジョンへの追放は公爵家への不当な侮辱だと。今すぐ王都へお戻りください。閣下が迎えを——』
「ヴィラン」
リディアは静かに遮った。
「戻りません」
ヴィランが口を閉じた。
「お気持ちは感謝しています。父が動いてくれたことも。ただ私は今、ここで自分の事業を始めています。それを中断する理由がありません」
『事業……でございますか』
「配信業です」
リディアは水晶板を少し動かした。スタジオ全体が映るようにした。改築された清潔な調理場、整然と並ぶ魔導具、棚を埋める魔石の蓄積。そしてカウンターの端で欠伸をしているにゃん吉。
ヴィランが固まった。
にゃん吉を見て、部屋全体を見て、魔石の量を見た。
『これは……』
「先週の配信で同時接続が五十万を超えました。今は商会との定期取引もあります」
『ご、五十万……?』
「ヴィラン、本題に入ります」
リディアは水晶板を正面に戻した。
「公爵家にお願いがあります。私を『追放された可哀想な被害者』として王都で立ち回ってください」
ヴィランが眉を寄せた。
『それは……どういう意味でしょうか』
「王子の判断は不当な追放でした。その被害者が公爵家の令嬢である以上、公爵家は被害者の立場を取り続ける権利があります。国王への抗議を続けてください。ただし私を連れ戻そうとするのではなく、王家の行いを政治的に問い続けることに注力してほしいのです」
ヴィランは何かを言おうとして、止めた。
「セドリック王子は今、私の配信を面白く思っていません。次に何か仕掛けてきた時、公爵家が表の抗議窓口として機能していれば、王家は動きにくくなります。被害者の実家が声を上げている状態で、さらに追い打ちをかければ世論が黙っていない。私の配信の視聴者数は今や十分な抑止力になっています」
『リディア様は……公爵家を政治的な盾として使うと』
「盾ではなく業務提携です。公爵家にも利があります。王家の横暴を訴え続ければ、国内での公爵家の立場は強くなる。私の事業が成長するほど、その背景にある公爵家の名前の価値も上がります」
ヴィランがしばらく沈黙した。
老執事の目が、画面の中のリディアを見ていた。追放される前の令嬢を見ていた時とは違う目だった。
『……公爵閣下にお伝えします』とヴィランは言った。
『ただし一つだけ確認させてください』
「どうぞ」
『リディア様は、本当に御無事ですか』
リディアは少し考えた。
「食事は毎日しています。魔力も増えました。仕事が面白いです」
『……それは』
「答えになっていますか」
『……なっております』とヴィランは言った。目が細くなった。今度は泣きそうな顔ではなかった。どこか、困ったような顔だった。
『閣下に伝えます。ただし閣下がどうご判断されるかは、私には保証できません』
「それで構いません。父のことは私が一番よく知っています」
通話が終わった。
にゃん吉が缶を開けながら言った。
「実家を動かしたな」
「動いてもらいます。向こうも動きたかったはずなので、方向を示しただけです」
「お前は人を動かす時に罪悪感を覚えないのか」
「向こうの利益になる方向に動いてもらっているので覚えません。損をさせているなら別ですが」
「……そうか」
二週間が経った。
ユリウス商会から木箱が届いた。
開けると、布に丁寧に包まれたフライパンが入っていた。取り出すと、見た目は通常のフライパンに近いが、素材が違った。持った瞬間から魔力の通りが良い。柄の部分に細かい魔法陣が刻まれていて、指で触れると温かかった。
一緒に入っていた羊皮紙に、職人からの説明書きがあった。底面の特殊合金が熱を均等に分散する。柄の魔法陣が使用者の魔力量を感知して、過剰分を自動で逃がす。表面加工が食材の余分な水分だけを飛ばして旨味を閉じ込める。
リディアは素手でフライパンの底を触ってみた。
冷たいのに、魔力を流した瞬間に均等に温まっていく感覚がある。偏りがない。今まで使っていた道具との差が、触れただけで分かった。
「良い仕事です」
その夜、配信をすることにした。
素材はユリウス商会から一緒に届いた魔界産の熟成肉だった。
梱包を開けると、深い赤色の塊が出てきた。断面の脂の入り方が均一で、熟成による旨味の凝縮が表面の色に出ている。指で押すとしっかり弾力があった。
「今夜は魔界熟成肉のステーキです」とリディアは水晶板に向かって言った。
「新しい調理器具も使います」
コメント欄に「肉だ」「でかい」「新しい道具来た」「商会のやつか」が流れた。
まず肉を室温に戻した。その間にスパイスを合わせた。岩塩と黒胡椒に相当するダンジョン産の香辛料、乾燥させたハーブ。押しつけるように全面にまぶす。
魔導フライパンを熱した。
指先で魔力を流した瞬間、フライパンが均等に温まっていく感覚があった。今まで端と中央で温度がばらついていたのが、完全に揃っている。魔法陣がかすかに光った。
肉を置いた。
音が来た。
ジュアアァと、腹に響く音だった。表面が当たった瞬間の、完全に均一な接触音。端も中央も同じ温度で焼き始めている。
コメント欄に「音が違う」「いつもと違う気がする」「なんか今日の焼き音は格が違う」が流れた。
リディアは圧をかけなかった。肉を押さえつけると旨味が逃げる。ただ置いて、魔力の流れで温度を微調整する。強くしすぎない。流れを作る。
二分経って、返した。
焼き色が完璧だった。
きれいなキャラメル色が全面についている。焦げた部分がない。まだら焼きがない。均等に、隅から隅まで同じ色が出ている。
コメント欄が「うおっ」「焼き色が綺麗すぎる」「プロの焼き方だ」に変わった。
反対面を一分半。それからフライパンを火から外して余熱で火を通した。魔力を弱めに保ちながら、内部の温度が上がりすぎないよう感じる。
この感覚が、先週の自分とは違う。押し込もうとしていない。流れに乗っている。
三分置いた後、切った。
断面がルビー色だった。中心にかけてグラデーションになっている。完全なミディアムレアだった。肉汁が刃に光を反射して赤く輝いた。
コメント欄が止まった。
止まってから、爆発した。
「やばい」「断面が芸術」「肉汁が」「深夜に見せるな」「スパチャ投げます」。
ガーリックバター醤油ソースは別で作った。魔物脂にガーリックに相当する球根系の魔草を炒めて、発酵調味料と合わせる。フライパンの余熱で仕上げた。
肉に乗せた。
ソースが絡んで、香りが変わった。
「どうぞ」
にゃん吉が前足を伸ばした。フォークを器用に掴んで、肉を一切れ刺した。口に入れた。
噛んだ。
ゆっくり噛んだ。
目が細くなった。静かな目だった。プリンの時の静かさとは少し違う。何かを確かめているような動きだった。
もう一口噛んだ。
飲み込んで、しばらく止まった。
「……肉の旨味が閉じ込められている」
「ありがとうございます」
「お前の火加減も、道具も合格だ」
低い声だった。演技のない声だった。にゃん吉が合格と言う時は本当に合格の時だけだとこの二週間で学んでいた。
「次を食べていいか」
「どうぞ」
コメント欄に「神獣が合格と言った」「これは本物だ」「令嬢の腕が上がってる」「道具変えてから格が違う」「商会に予約注文した」「魔導フライパンほしい」が流れた。
配信終了後、ユリウス商会から通知が来た。
【プロトタイプの魔導フライパン、配信終了から一時間で予約注文が二百件を超えました。量産体制の検討に入ります。——バルト】
リディアは数字を見て、羊皮紙に書いた。
「商会が動きます。次は量産品の品質管理の取り決めをしなければなりません」
「休む気はないのか」とにゃん吉が言った。
「ステーキを食べながら考えます」
残った肉を一切れ食べた。冷めていたが、まだ美味かった。旨味がしっかり閉じ込められているから、時間が経っても逃げない。
翌日、ヴィランから短い通信が来た。
【公爵閣下より。了解した。王家への抗議を継続する。ただし一点だけ。——ヴィラン】
続きがあった。
【閣下が「娘の配信とやらを見たい」と仰っております。見方を教えていただけますか。——ヴィラン】
リディアは少し止まった。
にゃん吉が背後から覗き込んで「隠れリスナーになるつもりか、親父さんは」と言った。
「そうなりそうですね」
「止めるか」
「止めません」とリディアは言った。
「ただし視聴者は視聴者です。特別扱いはしません」
返信を打った。水晶板の基本的な使い方と、チャンネルの見つけ方を簡潔に書いた。
一時間後、視聴者リストに新しいアカウントが増えた。
アカウント名は「R_F_1」だった。何の略かは分かった。
次の配信の最中、コメント欄の流れの中に「料理が上手くなっているな」という一文が混じった。他のコメントとは文体が違った。
リディアはそれを見て、少しだけ表情が動いた。
それから水晶板に向き直って、今夜の説明を続けた。父がどこかで見ているとしても、カメラの前でやることは変わらない。




