第83話:世界の根源と最高のカレーパン
境界を抜けると空気が変わった。
変わった、という言葉では足りなかった。
別の場所だった。
空が見えなかったし、天井がなかった。でも閉じた空間でもなかった。どこまでも続いているような、広さだった。
光があったが、光源がなかった。
場所全体が、薄く発光していた。青でも白でもない、色のない光だった。
地面が光っていた。
草があった。普通の草だった。でも一本一本が光を持っていた。
中央に何かがあった。
遠かった。でも確かにあった。
「……数千年前に一人で来た時は」とにゃん吉が言った。
立ち止まっていた。
珍しかった。にゃん吉が立ち止まる時は滅多になかった。
「どうですか」
「冷たくて重い絶望の空間に思えた」とにゃん吉が言った。
「一人では入れなかった。この場所に跳ね返された。神獣としての力があっても、何かが足りなかった」
「今は」
「温かい」とにゃん吉が言った。
「まるで厨房の中にいるようだ」
「スープが守っています」
「スープだけではない」とにゃん吉が言った。
「お前がいる」
コルトが横に来た。
「ここが世界の根源か」と静かに言った。
「そうだと思います」
「冒険者をやってきて、色々な場所に入った。ダンジョンの最深層まで行った。でもここは全然違う」
「どう違いますか」
「敵意がない」とコルトが言った。
「今まで行った場所は、必ず何かが警戒していた。ここは違う。受け入れてくれている気がする」
「スープのおかげかもしれません。全拠点の素材が体を守っています」
「料理が場所に認めてもらったのか」
「そういうことかもしれません」
中央に向かって歩いた。
地面が光っていて、一歩踏み出すたびに、足元の草が少し明るくなった。
「反応しています」
「場所が感知している」とにゃん吉が言った。
「何者が来たかを判断している」
「通してもらえますか」
「今のところ止まっていない。続けろ」
中央に近づいた。
形が見えてきた。
炉だった。
石で作られていた。作られた、というより生えていた、という感じだった。地面から自然に形成されたような石の構造体で、中が空洞だった。
以前は何かが入っていたのかもしれなかった。今は空だった。
炉の周りに結晶があった。
根源草の巨木の根元で見た結晶と似ていた。ただしこちらははるかに大きく、色が複雑だった。
「これが世界の炉ですか」とリディアは言った。
「そうだ」とにゃん吉が言った。
「世界の魔力を循環させる炉だ。長年、中身がなかった」
「中身というのは」
「食だ」とにゃん吉が言った。
「この炉は世界の命の循環の起点だ。かつては世界中から集まった食の旨味と熱が炉に宿っていた。それが世界の魔力を動かしていた。でも長い時間の中で、その巡りが途切れた」
「途切れた理由は」
「届ける人間がいなくなったからだと思う。世界中の食を集めて、ここまで持ち込む人間が」
「ダンジョンや最深層の魔力の乱れも、それが原因ですか」とリディアは言った。
「そうだ。循環が滞ると、各地に魔力の偏りが生じる。深い場所に溜まりすぎたり、薄い場所が生まれたりする。それが時間をかけてダンジョンの異常として現れた」
「最深層の虚ろの王も、その偏りの影響を受けていたんですか」
「影響を受けていた。あの場所に百年間誰も近づけなかったのも、偏った魔力が濃縮されていたからだ」
「全部が繋がっていたんですね」
「全部が繋がっていた。お前がダンジョンで配信を始めた日から、今日まで」
「この炉に何を捧げればいいですか」とリディアは言った。
「食だ」とにゃん吉が言った。
「世界中の旨味が詰まった、本物の食だ」
「全拠点の素材が手元にあります」
「それだけでは足りない可能性がある」
「何が足りないと思いますか」
「熱だ」とにゃん吉が言った。
「旨味だけでは動かない。揚げたての熱が要る。焼きたての熱が要る。食が完成した瞬間の、あの熱が必要だと思う」
リディアは荷を確認した。
持ってきていた。
全拠点の素材。固形スープの素。山魔胡椒。根源草のアク抜き済みのもの。ガルムの熟成肉。エルダ製フライパン。
そして、カレーペーストの素材。
「作ります」とリディアは言った。
「何を」
「カレーパンです」
コルトが「ここでカレーパンを揚げるのか」と言った。
「揚げます」
「世界の根源でカレーパンを揚げるのか」
「父が待っています。ここが場所として最善です」
「理由になっているのかその説明は」
「なっています」
水晶板の向こうでマリウスが配信を続けていた。
リディアが水晶板に向かって声を出した。
「見ていますか、皆さん」
コメント欄が流れていた。
「見ている」「令嬢が何かを作る」「世界の根源からの配信だ」「スパチャ連打」が続いていた。
父からのメッセージが来た。
「R_F_1より。カレーパンを待っている。——父より」
「見ていましたね。今から揚げます。待っていてください」
仕込みを始めた。
生地を作った。
アランヴァルの黒穀を粉にしたものと、新大陸の穀物を合わせた。
「旧大陸と新大陸の穀物を合わせます。二つの大陸が一つの生地になります」
水を加えこねた。
世界の炉の近くだった。魔力が漂っていた。生地が少し温かく感じた。
「発酵が速い気がします」
「ここの魔力が手伝っているのかもしれない」とにゃん吉が言った。
カレーペーストを作った。
全要素の結晶スープを濃縮したものをベースにした。
「全拠点の旨味が入っています。エルダの出汁、カイロスの海の旨味、ガルムの大地の旨味、ミストルの山魔胡椒、ヴェルデの野菜の旨味、根源草の古い旨味。全部が一つのペーストに入っています」
香りが広がった。
今まで作ったどの料理の香りとも違う、でも全部が混ざった香りだった。
生地が膨らみ、ペーストを包んだ。
「成形します」
丸く形を作り、パン粉をまぶした。
エルダ製フライパンを熱した。
ノルドの油を入れた。
温度が上がった。
「揚げます」とリディアは言った。
カレーパンを入れた。
音が出た。
ジュワァァッという音が、世界の根源に響いた。
反響した。
世界の炉に届いた。
炉が反応した。
内側が光った。
「光っています」とコルトが言った。
「炉が反応しています」
「カレーパンの音に反応しているのか、世界の炉が」
「熱と旨味が届いています」
揚げながら、香りが広がった。
カレーの香りと、揚げパンの香りと、全拠点の素材の香りが混ざった。
その香りが、世界の根源の空間全体に広がっていった。
光が強くなっていった。
炉の光が空間全体に広がっていった。
「ここで揚げているだけで良いのですか」とコルトが言った。
「揚げることが目的ではないです」とリディアは言った。
「届けることが目的です。熱と旨味が届けば良いです」
「誰に届けるんだ、この場所で」
「世界に」とリディアは言った。
「世界の根源に届けます。ここが循環の起点なら、ここで作った食が世界中に届きます」
引き上げた。
黄金色だった。
完璧な色だった。
叩くとカリッと音がした。
「できました」
炉に向かった。
一つ、炉の前に置いた。
炉の熱が来た。
カレーパンの熱と炉の熱が混ざった。
香りが一気に広がった。
炉が光を強めた。
光が波紋のように広がっていった。
空間全体が温かくなっていた。
「にゃん吉さん」とリディアは言った。
「食べろ」とにゃん吉が先に言った。
「分かっていましたか」
「お前がそう言う前に言いたかった」
カレーパンをにゃん吉の前に置いた。
にゃん吉が一口かじった。
音が出た。
サクッという音が世界の根源に響いた。
にゃん吉の体が光った。
薄く、温かい光だった。
神力の光だった。
炉の光と同じ色だった。
「……」
にゃん吉が何も言わなかった。
「にゃん吉さん」
「……これが」とにゃん吉がやっと言った。
「どうですか」
「全部の場所の熱が来た」とにゃん吉が言った。
「エルダの炉の熱。カイロスの海の温かさ。ガルムの暖炉の火。ミストルの焚き火。ヴェルデの畑の日差し。新大陸の密林の空気。全部が一つのカレーパンの中に来た」
「届きましたね」
「届いた」とにゃん吉が言った。
「数千年前に一人でここに来た時、足りなかったものが今分かった。熱だった。誰かが作った食の熱だった」
炉が完全に光を満たした。
光が波になった。
世界の根源から、外に向かって広がっていった。
空間が変わり、温かくなった。
コルトが「体が軽くなった」と言った。
「循環が戻っている」とにゃん吉が言った。
「世界の魔力が動き始めた。各地の偏りが解消されていく」
コメント欄が止まっていた。
長い静寂があった。
それから爆発した。
「何が起きた」「光が見える」「世界の根源が動いた」「令嬢が世界を動かした」「スパチャ連打」が止まらなかった。
各地からメッセージが来た。
「エルダです。今、坑道の魔力が安定しました。何かが変わりました。——セルム」
「カイロスです。海の色が変わりました。魔力の流れが穏やかになっています。——オルセン」
「ガルムです。氷雪根の群生地が光っています。マリウスより転送、ブルンより」
「ミストルです。霧毒の森林の霧が薄くなっています。——ラム」
「公爵領です。ダンジョンの魔力が落ち着いています。——ヴィラン」
「R_F_1より。早く帰ってこい。——父より」
「全部の場所で変化が起きています」とリディアは言った。
「世界の循環が戻った証拠だ」とにゃん吉が言った。
「各地の偏りが解消されていく。これから時間をかけて、世界の魔力が正常に巡るようになる」
「カレーパンが届きましたね、世界中に」
「届いた」とにゃん吉が言った。
「コルトさんも食べてください」とリディアは言った。
コルトが受け取った。
一口食べた。
「……美味い」とだけ言った。
「それだけですか」
「美味いという言葉以外が出ない。それだけ美味い」
「百年前の記録と同じですね。言葉が出なくなる」
「カレーパンで言葉が出なくなるとは思わなかった」
「水晶板の向こうの皆さんへ」とリディアは言った。
「私たちの食卓は、どこまでも繋がっています」
「ダンジョンから始まって、各地を回って、最深層まで行って、新大陸まで来て、世界の根源まで来ました。追放された日の夜から、ずっとそうでした」
「届けたい人がいました。だから動きました。動いた先に次の人がいました。次の人がいたからまた動きました」
「全部が繋がっていました。食卓が繋がっていました」
コメント欄に「令嬢が言い切った」「全部が繋がっていた」「食卓がどこまでも続いている」「ありがとう令嬢」「スパチャ連打」が続いた。
父からのメッセージが来た。
「R_F_1より。悪くない。早く帰ってこい。——父より」
「悪くない、と言っています」とリディアはにゃん吉に言った。
「それが公爵の最高の褒め言葉だな」
「そうです」
炉の光が安定していた。
激しい光ではなかった。
穏やかに、継続して光っていた。
「これが本来の状態ですか」とリディアはにゃん吉に聞いた。
「そうだ。激しくなくていい。穏やかに続けばいい。世界の循環は派手である必要はない。ただ続けばいい」
「料理と同じですね」
「同じだ。毎日の食事が続くことが大切だ。特別な料理も必要だが、毎日が続くことが本当の意味だ」
世界の根源を出た。
境界を抜けた。
禁足地の密林が戻ってきた。
光る苔があった。
空が見えた。
新大陸の空だった。
青かった。
集落に戻ると、カイとルカが走ってきた。
何か言った。
マリウスが通訳した。
「今朝から、ずっと枯れていた畑の端に草が生えてきたと言っています。今まで何も育たなかった場所です」
「循環が戻ってきている」とにゃん吉が言った。
「これから少しずつ変わります」とリディアは言った。
夜、集落でまた食事をした。
今夜は特別なものを作らなかった。
普通の食事だった。
固形スープの素で作ったスープ。新大陸の魚を焼いたもの。根源草を少量加えた副菜。
「特別なものではないですね」とコルトが言った。
「毎日続けられるものの方が大切です」とリディアは言った。
「世界の根源でそれを言うか」
「世界の根源でも変わりません。毎日の食事が全部の起点です」
夜遅く、にゃん吉と二人になった。
「帰るのか」とにゃん吉が言った。
「帰ります。父が待っています。各地に報告することがあります。レオンとドランに世界の根源の話を伝えます」
「それだけか」
「それだけではありません。帰ってから次を考えます」
「次があるのか、まだ」
「あります」とリディアは言った。
「世界の根源が動き始めました。循環が戻れば、今まで育たなかった場所に新しい素材が生まれます。行ったことのない場所にまた行けます。まだ届けていない人がいます」
「終わらないのか」
「終わりません」とリディアは言った。
「にゃん吉さん」
「なんだ」
「数千年前に一人でここに来た時、何を思っていましたか」
にゃん吉が少し間を置いた。
「入れなかった場所だったから、諦めた」とにゃん吉が言った。
「また来ることもないだろうと思っていた」
「今日来ました」
「来た。お前と一緒に来た。カレーパンを揚げて入った」とにゃん吉が言った。
「数千年前の俺が聞いたら笑ったと思う。カレーパンで世界の根源に入るとは」
「でも入れました」
「入れた。それが全てだ」
にゃん吉が缶を開けた。
「今夜は少し多めに飲む」と言った。
「今夜は私も少し多めに飲みます」
「珍しいな」
「今日くらいは良いです」
缶を受け取った。
飲んだ。
甘い発酵の香りが、新大陸の夜の空気と混ざった。
「美味しいですね、今夜は特に」
「そうだな」とにゃん吉が言った。
新大陸の夜が続いていた。
集落が静かだった。
遠くで波の音がした。
船がそこにあった。
帰る船だった。
でも今夜はまだここにいた。
羊皮紙を取り出した。
「また書くのか」とにゃん吉が言った。
「少しだけ」
「何を書く」
「帰ってからやることです。父への報告。レオンとドランへの連絡。各拠点の現状確認。新大陸との流通の第一便の段取り」
「世界の根源を抜けた夜に、帰ってからの仕事を書くのか」
「書いておかないと忘れます」
「変わらないな、お前は」とにゃん吉は言った。
「変わりません」とリディアは言った。
「それが全部の起点です。変わらないことが大切なことがあります」
ペンが動いた。
羊皮紙に次のことが並んでいった。
炉の光が、遠くの禁足地の方向から薄く漏れていた。
世界が動いていた。
でも今夜はここで書いていた。
明日、帰る準備をする。
明後日、船に乗る。
その先に、父が待っていた。
各地の仲間が待っていた。
そしてまた次の場所が待っていた。
手が止まらなかった。
移動厨房車は止まらない。
どこまでも、続いていた。




