第81話:数千年の旨味
朝、長老と案内役が二人ついていた。二十代の男たちだった。体格が良く、密林に慣れた動き方をしていた。
マリウスが通訳した。
「案内役のカイとルカです。禁足地の入口まで案内できます。ただし入口から先は自分たちの判断で進んでほしいと言っています」
「なぜですか」
「先祖からの禁忌だと言っています。禁足地の中に入ることは集落の人間には許されていない。ただし外から来た者を止める権限もない」
「分かりました。入口まで案内してもらいます」
移動厨房車を集落の端に停めた。
必要なものだけ持った。
エルダ製フライパン。固形スープの素。ガルムの熟成チーズ。カイロスの出汁粉。山魔胡椒。熟成肉の保存分。
「重いな」とコルトが言った。
「調理道具は必要です」
「最深層でも同じことを言っていたな」
「どこでも同じです」
集落の裏手に向かった。
木が密になっていった。
最初は管理された林だった。次第に人の手が入っていない密林になっていった。
木が高かった。
ガルムの山とも、ミストルの霧の森とも違う高さだった。光が地面まで届いていなかった。
「暗いですね」
「古い森は暗い」とにゃん吉が言った。
「人間が入らない分、木が育ち続けている」
「発光している苔がありますね」
壁面に苔が生えていた。薄く光っていた。青白い光だった。
「魔力を含んでいる苔だ」とにゃん吉が言った。
「この大陸特有のものだと思う。古い魔力が地面から染み出していて、苔が吸い込んでいる」
「食べられますか」
「後で確認する。今は先を急げ」
水晶板を起動した。
「禁足地に入りました」とリディアは言った。
「新大陸の集落の奥にある、百年以上誰も入らなかった場所です」
コメント欄に「禁足地の配信か」「映像が幻想的だ」「光る苔がある」が流れた。
「にゃん吉さんの記憶を頼りに進みます。数千年前の記憶です」
「正確かどうかは行ってみないと分からん」とにゃん吉が言った。
「そういうものです」
カイとルカが入口と言った場所で止まった。
石が並んでいた。
人工的に並べられた石だった。古い石だった。苔が生えていた。
「ここから先は集落の人間が入れない場所だと言っています」とマリウスが通訳した。
「ありがとうございます。ここで待っていてください」
カイが何か言った。
「戻ってきたら食事を一緒に食べたいと言っています」とマリウスが通訳した。
「戻ります。必ず食事を作ります」
石の境界を越えると空気が変わり重かった。
魔力の濃度が上がっていた。最深層に近い種類の重さだった。ただし最深層の乱暴な魔力とは違い落ち着いていた。
長い時間をかけて積み重なった魔力の静けさがあった。
「感じますか」とにゃん吉に聞いた。
「感じる。記憶の中の気配に近づいている」
「間違いではないですか」
「間違いではない。ただし数千年経っている。場所が正確かどうかは近づいてみないと分からない」
進んだ。
コルトが前を歩いた。道がない場所を、経験で判断しながら進んだ。
魔物の気配があった。
にゃん吉の尻尾が光った。
「近くに魔物がいる。ただし攻撃的ではない。古い森の魔物は縄張りを守るが、侵略はしない」
「最深層の魔物とは違いますね」
「全然違う。ここの魔物は人間を知らないだけだ。知らないから警戒している。ただし敵対はしていない」
「危険はありますか」
「刺激しなければ問題ない」とにゃん吉が言った。
「ただしコルト、剣を抜くな」
「了解した」とコルトが言った。
一時間ほど進んだ。
急に開けた。
巨木があった。
途方もない太さだった。何人で囲んでも届かない太さだった。幹に模様が出ていた。魔力が文様として現れていた。
その根元に、光るものがあった。
青白い光だった。
植物だった。
茎が細く、葉が複数の色をしていた。根の部分が特に光っていた。
小さかった。巨木の根に守られるように、ひっそりと生えていた。
「あれですか」
「……あった」とにゃん吉が言った。
声が変わっていた。
いつもの渋い声ではなかった。何か別の感情が混じっていた。
「数千年前と変わらない気配だ」
近づき、触れた。
根の部分に指をかけると魔力が来た。
最深層の素材よりも、落ち着いた種類の魔力だった。ただし密度は高かった。
「大地の根源草です」とリディアは水晶板に向かって言った。
「にゃん吉さんが数千年前に見た素材と同じものです」
コメント欄に「マジで実在した」「光ってる」「にゃん吉の記憶が正確だった」「スパチャ投げます」が流れた。
「採取します」
根が深かったが丁寧に引き抜いた。
慎重に全部を傷めないように取り出した。
根の部分には結晶があった。
根の繊維の間に、小さな結晶が詰まっていた。魔力が物質化した結晶だった。
「旨味の成分が結晶になっています」とリディアは言った。
「長い時間をかけて積み重なったものです」
「どのくらいの時間で形成されるんだ」とコルトが言った。
「にゃん吉さん、数千年前にこの草はどんな状態でしたか」
「今より小さかった。結晶も今の半分程度だった」とにゃん吉が言った。
「数千年で倍になったということですね。それだけの時間が詰まっています」
生のまま端を少し口に含んだ。
渋かった。
非常に強い渋みが来た。舌が痺れた。
ただし奥に何かがあった。
渋みの奥に、深い旨味があった。
「アクが強いですね。ただし旨味があります。処理できます」
「壁画を描いた先祖も、このアクを抜けずに諦めたのかもしれません」とマリウスが言った。
「当時の技術では難しかったかもしれません。ただし今は各地の素材と技術があります」
別れた場所に戻るとカイとルカが待っていた。
根源草を見て、二人が目を見開いた。
マリウスに通訳してもらった。
「古い伝説の植物だと言っています。先祖の絵に描かれているものだと」
「そうです。持って帰りました。今夜、調理します」
仕込みを始めた。
まずアク抜きの方法を考えた。
「アクの成分は渋み物質です。酸性とアルカリ性の両方に反応する性質があります」とリディアは言った。
「どういう意味だ」とコルトが言った。
「どちらかだけでは抜けません。両方を順番に使います。まず酸性で一回目のアクを抜いて、次にアルカリ性で二回目を抜きます」
「酸性は何を使う」
「ガルムの熟成チーズのホエイです。チーズを作る時に出る液体で、酸性です。これに漬けます」
「一段階目です」とリディアは水晶板に向かって言った。
「ガルムの熟成チーズのホエイに根源草を漬けます。酸がアクの一部を中和します」
漬けた。
「一時間置きます」
待つ間に、出汁の準備をした。
「カイロスの出汁粉を溶かします。この出汁はアルカリ性に近い成分を含んでいます。二段階目に使います」
「酸の次にアルカリを使うのか」
「順番が重要です。逆にしたり、一方だけでは効果が出ません。二段階で挟み込むことでアクが完全に取れます」
一時間後、根源草を取り出した。
色が落ち着いていた。
「一段階目が終わりました。次は出汁に入れます」
カイロスの出汁に入れた。
弱火にかけた。
「弱火でゆっくりです。急ぐと旨味まで逃げます」
「時間をかけるのか」とコルトが言った。
「三十分です。待ちます」
待つ間に、持参していた熟成肉を処理した。
「一緒に煮込みます。熟成肉の旨味と根源草の旨味を合わせます」
「二つの旨味を合わせるとどうなるんだ」とコルトが言った。
「相乗効果があります。一つより二つが合わさった方が旨味が深くなります。出汁を取る時も同じ原理です」
三十分後、根源草を確認した。
口に含んだ。
渋みが消えていた。
「抜けました」
「本当にアクが取れたのか」とコルトが言った。
「取れています。食べてみてください」
コルトが少し食べた。
「……渋くない。出汁の旨味が入っている」
「二段階で挟み込んだ結果です」
「本番の調理です」とリディアは言った。
鍋に出汁を張り、根源草と熟成肉を入れた。
「煮込みます。根源草の結晶が溶けていきます。結晶に詰まっていた旨味が出汁に溶け出します」
弱火にかけると、香りが出てきた。
今まで嗅いだことのない香りだった。
甘くもなく、辛くもなく、でも確かに食欲を刺激する香りだった。古い、深みのある香りだった。
「良い香りですね」
「古い旨味の香りだ」とにゃん吉が言った。
「数千年分の時間が溶けている」
コメント欄に「香りが伝わってくる気がする」「古い食材の旨味とはどんなものか」「令嬢が調理している」「スパチャ連打」が流れた。
二十分後、完成した。
椀に注いだ。
深い琥珀色のスープだった。透明感があった。光を通すと美しかった。
「にゃん吉さん、最初に食べてください」
「なぜ俺が最初なのか」
「数千年前に見ていたからです。最初に食べる権利があります」
にゃん吉が椀を受け取った。
一口飲んだ。
動かなくなった。
長い沈黙があった。
「……この味だ」とにゃん吉が言った。
「どんな味ですか」
「数千年前、まだ世界が若かった頃の旨味だ」とにゃん吉が言った。
「あの頃の記憶が来た。世界がまだ静かで、至る所にこういう素材が育っていた頃の記憶が」
「覚えていたんですか、その頃のことを」
「忘れていた。でも今思い出した」とにゃん吉は言った。
「味が記憶を呼んだ」
コメント欄が止まった。
全員が静かに見ていた。
「マリウスさん、カイさんとルカさんに渡してください」とリディアは言った。
椀を二つ、カイとルカ渡した。
二人が受け取った。
一口飲んだ。
カイの目が赤くなった。
マリウスが通訳した。
「先祖が求めた味が、今ここで蘇ったと言っています。百年間、誰も再現できなかったものが今日戻ってきたと」
「壁の絵を描いた料理人に届きましたね」とリディアは言った。
「形は違いますが」
夜、長老の家に戻り、マニュアルを書いた羊皮紙を長老に渡した。
「アク抜きの全工程を書きました。ガルムの熟成チーズのホエイとカイロスの出汁を使う方法です。材料が手に入れば同じものが作れます」
「チーズと出汁はどこで手に入れるか」とマリウスが通訳した。
「マリウスさんの交易ルートで届けることができます。ローゼンベルク・リングとこの集落を繋ぎます」
長老が何か言った。
「受け取ると言っています。集落として、リングに入ると」とマリウスが言った。
「ありがとうございます。これで新大陸とも繋がります」
その夜遅く、にゃん吉が言った。
「リディア、一つ言いたいことがある」
「どうぞ」
「根源草がまだ芽吹いていた。数千年経ってもあの場所にあった」
「そうですね」
「ということは」とにゃん吉が言った。
「あの場所も残っているかもしれない」
「あの場所というのは」
「世界の根源だ」とにゃん吉は言った。
「根源草が育つ場所の、さらに奥にある。世界の循環を司る場所だ。数千年前に俺が一度だけ近づいたことがある。ただし入れなかった」
「なぜ入れなかったんですか」
「当時の俺の神力では足りなかった。今なら違うかもしれない」
「行けますか」
「お前がいれば行けるかもしれない」とにゃん吉は言った。
「私がいれば、というのはどういう意味ですか」
「数千年前に一人で近づいた時に感じたことがある。あの場所は神獣だけでは入れない。何かが足りなかった。今日、根源草のスープを飲んだ時に分かった。足りなかったのは料理人だったと思う」
「料理人が必要な場所ですか」
「世界の循環を司る場所だ。循環には食が関わっている。食を扱う者が一緒にいれば、入れるかもしれない」
「行きます」とリディアは言った。
「急がなくていいのか」
「準備してから行きます。まずこの集落との関係を固めます。マニュアルを渡しました。次は実際に一緒に作ります。それが終わってから」
「順番を守るのか、どんな状況でも」
「守ります。急いで失敗するより、確実に進む方が良いです」
にゃん吉が缶を傾けた。
「そうか」とだけ言った。
石の床に羊皮紙を広げた。
「世界の根源への準備を書きます」
「始まったな、また」とにゃん吉が言った。
「始まります」
「どこまで行くつもりだ」
「行ける場所まで行きます」とリディアは言った。
「まだ届けていない人間がいます。まだ出会っていない素材があります。それだけです」
ペンが動いた。
新大陸の夜が深かった。




