第80話:新大陸の岸
七日目の朝、陸が見えた。
マリウスが甲板に出てきた。
「あれです」と言った。
「新大陸です」
まだ霞んでいたが、遠くに確かにあった。
緑だった。
遠目から見ても、緑の密度が違った。公爵領の農村とも、ガルムの草地とも、ミストルの霧の森とも違う緑だった。
「植生が全然違いますね」とリディアは言った。
「当然だ」とにゃん吉が言った。
荷台から身を乗り出して前を見ていた。
「別の大陸だ。育つものが違う。土が違う。魔力の流れが違う」
「魔力の流れが違うと分かりますか、ここから」
「感じる。この大陸の魔力は、ダンジョンや公爵領のものとは質が違う。古い。非常に古い魔力だ」
「古いというのは」
「長い時間をかけて積み重なった魔力だ。手つかずの場所に溜まる種類の魔力だ」
近づくにつれて、緑の密度が分かった。
木が高く、海岸線まで木が迫っていた。
港があったが、小さかった。木造の桟橋だで、船が数艘停まっていた。
人が見えた。
出てきた人を見ると、肌の色が違った。服の様式が違った。言葉が聞こえてきたが、分からなかった。
「言葉が通じますか」とリディアはマリウスに聞いた。
「私は少し話せます。以前にここまで来たことがあります。ただし奥地には入っていません」
「現地の言葉を少し話せるのですか」
「商人として必要な言葉だけです。交渉に必要な最低限です」
「通訳をお願いします」
「もちろんです」
桟橋に降りると、現地の人間が三人、こちらを見ていたが、警戒した顔だった。
マリウスが現地の言葉で話しかけた。
三人が聞いて、そのうちの一人が返事をした。
マリウスが通訳した。
「外から来た船は珍しいと言っています。最後に外の船が来たのは十年前だと」
「十年前ですか」
「それくらい隔絶された場所です」
「食材の交易はしていますか」
「していないと言っています。この港は漁師が使うだけです」
「分かりました。まず食事を作って渡します。言葉より先に、食べてもらいます」
水晶板を起動した。
「新大陸に着きました」とリディアは言った。
コメント欄に「ついに新大陸だ」「緑が濃い」「どんな場所だ」が流れた。
「まず現地の人間に食事を届けます。言葉が通じない時でも、食べ物は通じます」
厨房車を桟橋の端に移動した。
持参した素材を使って、固形スープの素のスープを作った。
夜光海草を加えた。
「海の素材を使います。この場所の人間には、海の旨味が馴染みやすいはずです」
山魔胡椒を少量振った。
椀に注いだ。
「渡してください」とマリウスに言った。
マリウスが三人に渡した。
三人が受け取り、匂いを嗅いだ。
一人が一口飲み、止まった。
別の二人を見た。何か言った。
二人が飲んだ。
全員が止まった。
「どうですか」とマリウスが現地の言葉で聞いた。
三人が何か言った。
「海の旨味が分かると言っています。この海域の魚の味がすると」とマリウスが通訳した。
「カイロスの出汁粉と夜光海草の組み合わせです。同じ海の素材なので共鳴しているのかもしれません」
「共鳴という概念を現地の言葉に訳せないですが、三人の顔を見れば伝わっています」
三人が何か言った。
「ついてきてほしいと言っています」とマリウスが言った。
「どこにですか」
「村だと言っています。村の長老に会わせたいと」
「行きます」とリディアは言った。
案内された場所は木の密度が高かった。道が細くて、十分ほど歩くと、開けた場所に出た。
集落があり、木造の建物が並んでいた。形が独特だった。公爵領の建物とは全然違う様式だった。
人が出てきた。
全員がこちらを見た。
子供が興味深そうに見ていた。
長老の家に通された。
中が広く、壁に何かが描かれていた。
絵だった。
料理の絵だった。
様々な素材を調理している絵が、壁一面に描かれていた。
「これは」とリディアは立ち止まった。
「どうしましたか」とマリウスが言った。
「壁の絵を見てください。料理の絵です」
「確かに。素材を処理している絵ですね」
「古い絵ですか」
マリウスが現地の案内役に聞いた。
「百年以上前の絵だと言っています。先祖が描いた料理の記録だと」
「料理の記録を壁に描いていたのか」とコルトが言った。
「マニュアルですね」とリディアは言った。
「文字ではなく絵で記録していた。同じ発想です」
長老が来た。
年齢が分からなかった。非常に老いた顔をしていたが、目が鋭かった。
マリウスが挨拶をした。
長老が返事をした。
長い言葉だった。
「何と言っていますか」とリディアは聞いた。
「外から来た者に告げることがあると言っています。この大陸には古い料理体系がある。先祖が残したものだ。ただし今の世代には伝わっていない部分がある。記録はあるが、解読できていない部分がある」
「解読できていない部分とは何ですか」
マリウスが聞いた。
長老が答えた。
「壁の絵の一部が、何の素材を使っているか分からないと言っています。素材が絶えてしまったのか、場所が分からなくなったのか、百年間誰も再現できていない料理があると」
「見せてもらえますか」とリディアは言った。
長老が壁の一部を示した。
リディアが近づいた。
絵を見た。
素材が描かれていた。
木のような形をしていた。ただし普通の木ではなかった。根の部分が光っていた。葉が複数の色をしていた。
「にゃん吉さん」とリディアは言った。
「見ている」とにゃん吉が言った。じっと壁の絵を見ていた。
「分かりますか」
「……」
にゃん吉が黙った。
「にゃん吉さん」
「知っている」とにゃん吉が静かに言った。
「この絵の素材を知っている」
「何ですか」
「大地の根源草だ。世界樹に近い性質を持つ植物だ。非常に古い時代に存在していた。俺が若かった頃に、この大陸で見たことがある」
「若かった頃というのは」
「数千年前だ」とにゃん吉が言った。
コメント欄が止まった。
静寂があった。
「数千年前……」とコメントが来た。
「にゃん吉の年齢が……」
「神獣の時間軸だ」
「スパチャ投げます」が続いた。
「今もあると思いますか」とリディアはにゃん吉に聞いた。
「分からない。数千年経っている。ただし大地の根源草は通常の植物より生命力が長い。可能性はある」
「どこにあったか覚えていますか」
「この大陸の中心部だった。山の中だった。当時はここから三日ほど歩いた場所だった」
「案内できますか」
「数千年前の記憶だ。地形が変わっているかもしれない。ただし魔力の気配は覚えている。感じれば分かる」
「長老に聞いてください」とリディアはマリウスに言った。
「この大陸の中心部、山の方向に古い植物が残っていないか。大地の気配が強い場所を知っているか」
マリウスが聞いた。
長老が答えた。
「山の奥に、誰も入らない場所があると言っています。魔力が強すぎて近づけない。先祖の時代から禁足地とされている場所だ」
「そこかもしれない」とにゃん吉が言った。
「行けますか」
「行く。ただし急がない。まずこの集落で関係を作れ。信頼があれば禁足地への案内を頼める」
「そうですね」とリディアは言った。
「今日は食事を作ります」とリディアは水晶板に向かって言った。
「新大陸の最初の夜を、この集落の人たちと過ごします。言葉より先に、食べ物で関係を作ります」
コメント欄に「令嬢らしい順番だ」「新大陸でも変わらない」「何を作るんだ」が流れた。
持参した素材と、港で手に入った海産物を合わせた。
夜光海草の処理は既にできていた。
現地の漁師が置いていった魚が何種類かあった。
触って匂いを嗅いだ。
カイロスの魚と似ているが違う成分があった。
「面白い素材ですね」とリディアは言った。
「何が面白い」とにゃん吉が言った。
「この魚には見たことのない成分が混じっています。古い大陸の魚だからかもしれません。古い魔力が入っています」
「料理にして安全か」
「確認してから使います」
山魔胡椒を少量、魚の表面に振った。
「反応を見ます。解毒作用がある山魔胡椒が反応すれば、有害な成分がある」
反応しなかった。
「安全です」
「確認方法が確立されているな」とコルトが言った。
「ミストルで覚えました」
魚を焼いた。
もちろんエルダ製フライパンを使った。
音が出た。
ジュアアッという音が集落に響いた。
子供たちが集まってきた。
匂いが広がり、大人も出てきた。
「人が来ています」とコルトが言った。
「来てください。全員に渡します」
三十人ほどいた集落の全員に渡した。
全員が食べたが言葉が分からなかった。
でも顔が分かった。
最初に食べた鉱夫の顔。エルザの顔。ヴォルクの顔。ブルンの顔。
全部と同じ顔をしていた。
温かいものが届いた時の顔だった。
「届きましたね」とリディアは言った。
「届いた」とにゃん吉が言った。
「言葉がなくても届きます」
「それが食事だ」とにゃん吉は言った。
集落が静かになった夜、長老が来て、マリウスが通訳した。
「明日、禁足地の方向を案内すると言っています。全部まで案内はできないが、入口まで連れて行けると」
「ありがとうございます」
「食事への礼だと言っています。百年間、誰もあんな食事を作らなかったと」
「百年前の料理人に届いたんですね」
「どういうことですか」
「壁の絵を描いた先祖の料理人へ。形は違いますが、同じ気持ちで作りました」
羊皮紙を広げた。
新大陸の最初の素材の記録を書いた。
新大陸の魚の性質。夜光海草との組み合わせ。山魔胡椒での安全確認の方法。
「書いているのか」とにゃん吉が言った。
「新大陸の最初の記録です。書いておきます」
「大地の根源草の話も書くのか」
「書きます。あなたが数千年前に見たということも」
「それを書くのか」
「重要な情報です」
「数千年前の話だぞ」
「でも今に繋がっています」
にゃん吉が缶を開けた。
「新大陸まで来ても飲むのですか」とリディアは言った。
「どこでも飲む。それが俺だ」
「そうですね」
「お前も一口飲め」
「今夜も一口だけ」
缶を受け取った。
飲んだ。
甘い発酵の香りがした。
新大陸の夜の空気と混ざった。
「明日から奥地に向かいますね」
「そうだ。数千年前の記憶を辿る。合っているかどうかは分からない」
「合っていなくても、何かがあります」
「根拠はあるか」
「いつもそうだったからです。行った先に必ず何かがありました」
「そうだったな」とにゃん吉が言った。
集落が静かで木の葉の音と波の音がした。
古い大陸の夜だった。




