第79話:最初の珍味
公爵領で一週間過ごした。
この間に、エルザからチーズの状態の報告が来た。ブルンから氷雪根スープの生産量、ラムから山魔胡椒フレークの出荷量について、マルコからもトマトペーストの販売状況が来た。
私がいなくても全部動いていた。
マリウスに連絡を入れた。
【新大陸への海路について相談したいです。カイロスで会えますか。——リディア】
返信が速かった。
【待っていました。実は以前から新大陸への取引を考えていました。一緒に行きましょう。——マリウス】
出発前夜、父が来た。
「また行くのか」
「行きます」
「いつ戻る」
「分かりません。ただし戻ります」
「カレーパンを持っていけ」とヴィランが横から言った。
「閣下がそうおっしゃっていました」とヴィランが続けた。
「言っていない」と父が言った。
「昨夜、私にそうおっしゃっていました」
「……言ったかもしれない」
翌朝、移動厨房車で出発し、カイロスへの道を走った。
にゃん吉が荷台に乗った。
「また旅が始まるな」
「始まります」
「今回は海か」
「海を越えます」
「海の上での調理は経験があるか」
「ありません。どうなるか分かりません」
「分からないのに行くのか」
「行ってから分かります」
カイロスに着くとオルセンが港で待っていた。
「来たか」とオルセンが言った。
「来ました。マリウスさんはどこですか」
「あそこだ」
港の端に大きな船があった。
マリウスの商会の船で、帆が三枚ついていた。荷を積む空間が広かった。
マリウスが甲板から降りてきた。
「準備できています」とマリウスが言った。
「いつでも出航できます」
「今日出航できますか」
「できます。風向きが良いです」
「では今日にします」
荷を積んだ。
移動厨房車は船の荷室に積み込み、固定した。
「船が揺れても厨房車が動かないようにします」とマリウスが言った。
「海の上でも調理できますか」
「穏やかな日なら可能です。ただし嵐の日は難しい」
「嵐の日は別のものを作ります」
「別のものというのは」
「固形スープの素があります。お湯で飲めれば十分です」
「そういう考え方をするのか」
「状況に合わせます。良い状況なら良い料理を。難しい状況なら基本の食事を。どちらにも対応します」
オルセンが見送りに来た。
「また来るか」と言った。
「来ます。新大陸の素材を持って帰ります」
「それは試食させてもらうぞ」
「もちろんです」
出航し、港が遠くなり、カイロスが小さくなった。
海は広くて、今まで見た景色とは全然違って、遠くの地平線までずっと海水だった。
「広いですね」とリディアは言った。
「この広さは慣れるものではない」とにゃん吉が言った。
「数千年生きてきて、海を見るたびに広さに驚く」
「来たことはありますか、この海に」
「来たことはある。ただし向こう側まで行ったことはない」
「新大陸は」
「噂では知っている。ただし神獣として確認したことはない。俺にも未知の場所だ」
「にゃん吉さんにも未知の場所があるんですね」
「あって当然だ。世界は広い」
水晶板を起動した。
「カイロスを出港しました。新大陸に向かっています」とリディアは言った。
コメント欄に「出た」「海路編が始まった」「新大陸とはどんな場所だ」が流れた。
「海の上からの配信です。見えているのは全部海水です」
「令嬢の冒険が海に出た」とコメントが来た。
「ダンジョンから始まって、各地を回って、最深層まで行って、今度は海です。行ける場所に行きます」
「まだ届けていない人間がいるからか」
「そうです」
一日目の夜は穏やかだった。
波が静かで、船が緩やかに揺れていた。
甲板で食事を作ることにした。
「今夜は船上調理の試作です」とリディアは言った。
「何を作るんだ」とマリウスが来た。
「持参した素材で作ります。ただし今日は別のものも試したいです」
「何ですか」
「漁師に聞いたのですが、この海域で取れる素材があると聞きました」
「ああ、それか」とマリウスが言った。少し顔が変わった。
「何か問題がありますか」
「問題ではないですが、変わったものです。船乗りは食べますが、普通の人間にはクセが強いと言われています」
「見せてください」
マリウスが甲板の端にある木箱を示したので開けると海藻だった。
ただし普通の海藻ではなかった。
深い紫色だった。光沢があった。触ると弾力があった。
「これは何ですか」
「夜光海草です。夜になると光ります。魔力を含んでいます」とマリウスが言った。
「食べたことはありますか」
「船乗りが塩漬けにして食べます。ただし生では苦くて食べにくい」
一本取って、匂いを嗅ぐと、海の匂いと、少し独特の匂いがした。
端を少し切って口に含むと苦かった。
ただし苦みの奥に、旨味があった。
「処理できます」
「本当に食べるのか、これを」とコルトが来て言った。
「食べられます。苦みを取れば使えます」
「配信します」とリディアは言った。
「海上で食材を見つけたのか」とコメント欄が来た。
「夜光海草という素材です。船乗りが食べるものですが、適切に処理すれば料理になります」
水でさらした。
「苦みの成分を水に溶かします。時間をかけます」
一時間晒した。
「次に固形スープの素の出汁で下煮します。旨味成分を加えながら、さらに苦みを抜きます」
煮ると、色が変わり深い紫から、落ち着いた青緑になった。
「変化しています。苦みが抜けてきました」
仕上げに、ミストルの山魔胡椒を少量振った。
「香りを加えます」
マリウスに渡すとマリウスが食べた。
「……いつも食べている夜光海草と全然違う」と言った。
「苦みが抜けて、旨味が出ています」
「これが同じ素材から出てくるのか」
「処理次第です。素材は変わりません。扱い方が変わります」
コルトが食べた。
「海の旨味がある。昆布に似ているが違う。何か独特のものがある」
「魔力を含んでいるからです。最深層の素材と同じ発想です。処理して魔力を安定させれば、旨味になります」
「最深層で覚えたことが海でも使えるのか」
「使えます。素材の性質は違っても、原理は同じです」
にゃん吉が食べた。
「海の底の旨味だ」
「どういう意味ですか」
「この草は海の深いところで育っている。深いところの成分が入っている。それが旨味として出ている」
「深い場所の素材は旨味が濃い、ということですね」
「そうだ。ダンジョンの深層も、海の深層も、同じかもしれない」
「面白い発見ですね」
「新大陸に着いたら、もっと深い場所の素材があるかもしれない」
「楽しみです」
夜、甲板に出ると星が見えた。
ガルムの高地の星とはまた違う星だった。海の上の星は、どこまでも広い空に広がっていた。
「綺麗ですね」とリディアは言った。
「海の上の星は格別だ」とにゃん吉が言った。
「来たことがありましたよね、この海に」
「来たことはある。ただし今夜のように誰かと見たことはなかった」
「一人でいつも見ていたんですか」
「神獣は基本的に一人だ」とにゃん吉が言った。
「人間と組むことはあっても、長く続くことはなかった。短い命の相手に深く関わっても、すぐに別れが来る。だから関わらないようにしていた」
「でも今は」
「今は違う」とにゃん吉が言った。
「何が違いますか」
「お前が止まらないからだ。行く先が続いている。行く先が続いている間は、別れが来ない。だから続けて見ていられる」
「にゃん吉さんはどこから来たんですか」とリディアは言った。
「神獣に出自はない。ただ生まれた」
「いつから主夜神だったんですか」
「ずっと前だ。覚えていないくらい前から」
「ずっと一人で」
「一人だった」とにゃん吉が言った。
「ダンジョンに入ったのも、一人の方が静かだったからだ。人間が来ない場所で、静かにいた」
「それがあの夜、私が入ってきた」
「入ってきた。画角を邪魔した」
「すみませんでした」
「謝らなくていい」とにゃん吉が言った。
「続きが見たかった。今もそうだ」
星が続いて船が波を切っていた。
新大陸まで、まだ何日もある。
「明日は別の海の素材を探します」とリディアは言った。
「船の中にあるか」
「マリウスさんに聞きます。船の食材庫に何があるか確認します」
「今夜は寝ろ」
「書いてから寝ます」
「短くしろ」
「短くします」
羊皮紙を取り出した。
夜光海草の処理方法を書いた。
水さらしの時間。出汁煮の方法。山魔胡椒との組み合わせ。
書きながら、海の音を聞いた。
波が続いていて、船が揺れて新大陸まで向かっていた。
新しい素材が、新しい人たちが待っていた。
まだ捨てられている食材が、まだ届けていない人間がいた。
移動厨房車は、今度は海の上を進んでいた。




