第78話:凱旋とカレーパン
最深層を出た。
帰り道は速かった。
来た時と同じ道だったが、帰りは全員の足が違った。
浅層に入った。
最初に来た時、何時間も彷徨った場所だった。今は十分で通り抜けた。
「早いですね」とコルトが言った。
「来た時より全員の体の状態が良いです。虚ろの王の肉の効果だと思います」
「食べてから体が軽い。最深層での疲れが残っていない」
「高エネルギーの素材でした。体の回復が速い」
ダンジョンの大穴の出口が見えてきた。
地上の光が見えた。
魔石灯の光でも最深層の魔力の光でもない、太陽の光だった。
「久しぶりですね」とリディアは言った。
「何日ぶりだ」とにゃん吉が言った。
「コメント欄の記録で確認しますが、三日以上経っています」
「三日で最深層往復か」
「時間の感覚がずれていたので、もっと長く感じました」
出口に近づくと、音が聞こえてきた。
人の声だった。
複数の声が混ざっていた。
「誰かいますね」
「大勢いる」とにゃん吉が言った。
「外で待っていた人間だ」
出ると、光が来た。
目が慣れるまで少し時間がかかったが、慣れた瞬間、全員が見えた。
大勢いた。
公爵領の兵士が整列していた。
クラウスが、レオンが、ヴィランが来ていた。
そして、その後ろに父がいた。
静寂があった。
一拍の静寂があった。
その後、声が来た。
歓声だった。
全員が声を上げた。
「帰ってきた」「最深層から帰ってきた」「虚ろの王が」という声が重なった。
コメント欄も爆発した。
「地上に出た」「帰ってきた」「無事だった」「スパチャ連打」が止まらなかった。
父が前に出てきた。
いつもの厳格な顔だった。表情が動かなかった。
近づいて、リディアの前で止まった。
「無事だったか」
「無事です」
「虚ろの王を調理したか」
「しました」
「食べた人間が言葉を失ったか」
「私も言葉が出ませんでした」
父が少し間を置いた。
「そうか」とだけ言った。
それだけだった。
ヴィランが目を逸らした。
「カレーパンを揚げます」とリディアは言った。
「今からか」と父が言った。
「約束していました。戻ってきたら揚げると」
「……そうだったな」
「道具を準備します。少し待ってください」
厨房車を広場に停めた。
仕込みを始めた。
水晶板を起動した。
「帰ってきました。約束通り、カレーパンを作ります」とリディアは言った。
コメント欄に「約束の回収だ」「カレーパンだ」「父上が待っている」「スパチャ投げます」が流れた。
生地から作った。
アランヴァルの黒穀を少量、通常の粉に混ぜ込んだ。
「黒穀を入れます。モチモチ感が加わります」
発酵させた。
「発酵させながらカレーを作ります」
カレーはヴェルデの濃縮トマトペーストをベースにした。
「旨味のベースです」
カイロスの出汁粉を加えた。
「海の旨味を加えます」
ミストルの山魔胡椒を振った。
「香りを引き立てます」
そして最後に、保管していた虚ろの王の肉の残りを、極少量加えた。
「隠し味です」
「虚ろの王を入れるのか」とコルトが言った。
「ほんの少しです。全体に旨味が広がります」
「全部の拠点の素材が入っています」とリディアは水晶板に向かって言った。
「アランヴァルの黒穀、ヴェルデのトマトペースト、カイロスの出汁、ミストルの山魔胡椒、そして虚ろの王の旨味」
コメント欄に「全拠点が詰まったカレーパン」「父上に渡すのか」「約束の完成」が流れた。
生地が膨らんだ。
カレーを包み、成形し、パン粉をまぶした。
魔導油鍋を熱した。
入れた。
音が出た。
ジュワァァッという音が広場に響いた。
香りが広がった。
カレーの香りと、揚げパンの香りと、虚ろの王の旨味が混ざった香りが、公爵領の空気に広がった。
コルトが「この匂いは」と言った。
「どうですか」
「最深層の虚ろの王の香りがする。でもカレーパンの香りもする。全部が混ざっている」
「全部入っているからです」
引き上げた。
黄金色だった。
全面が均一な色だった。叩くとカリッと音がした。
「できました」
「お父様」とリディアは言った。
父が前に来た。
リディアがカレーパンを差し出した。
「火傷にご注意ください」
父が受け取った。
大きな手でゆっくり受け取った。
かじった。
音が出た。
サクッという音が広場に響いた。続けてジュワッ。カレーが出てきた。
父が噛んだ。
長い沈黙があった。
全員が見ていた。
飲み込んだ。
目を閉じた。
また沈黙があった。
「……悪くない」と父が言った。
声が少し違った。
いつもの厳格な声ではなかった。
「追放された日のことを覚えているか」と父が言った。
「覚えています」
「あの日、お前を送り出した。止める手段はあった。ただし止めなかった」
「知っています」とリディアは言った。
「ヴィランから聞きました。ダンジョンに神獣がいると、古い記録で知っていたと」
「そうだ」
「だから止めなかった」
「だから止めなかった」と父が繰り返した。
「ただし、それだけが理由ではない」
「どういう意味ですか」
「お前は小さい頃から、決めたことを変えない人間だった」と父が言った。
「母に似ていて、意志が固かった。だから追放という形になっても、どこかで生きていけると思った」
「心配していましたか」
「心配していた」と父が言った。短く、直接的に言った。
「毎日心配していた。配信が始まってからは毎日見ていた。スパイスを送ってくれと聞いて送ったのも、心配していたからだ」
「でも止めに来なかった」
「来なかった。お前が選んだ場所を、お前が選んだ方法で動いていた。それを止める理由がなかった」
「お父様」とリディアは言った。
「何だ」
「追放された日から今まで、全部が正しかったとは思いません。ただし、今の私がいるのは全部があったからです」
「そうだな」
「ありがとうございます。止めなかったことに」
父が少し間を置いた。
「礼は要らん」とまた言った。
ヴィランが目を押さえていた。
コルトが「公爵家って」と言いかけて止まった。
にゃん吉が静かに言った。
「素直でないが、全部伝わっている」
コメント欄が静かになっていた。
静かな状態が続いた。
それから少しずつ流れ始めた。
「父と娘の話だ」「令嬢が戻ってきた」「追放からここまで来た」「スパチャ投げます」が続いた。
夜、祝勝の食事会があった。
公爵領の人間が集まった。クラウス、レオン、ヴィラン、コルトと仲間たち。
全員で食事をした。
各地の素材を使った料理を並べた。
エルダのフライパンで焼いた肉。カイロスの出汁で作ったスープ。アランヴァルの黒穀の炊き込み。ガルムの熟成チーズ。ミストルの山魔胡椒を振った野菜料理。ヴェルデのトマトペーストのソース。
「全拠点が一つの食卓に並びました」とリディアは言った。
「ローゼンベルク・リングの食卓だな」とにゃん吉が言った。
「そうですね」
父が一通りの料理を食べた後、ヴィランを呼んだ。
「正式な発足を宣言する。明日、書面を作れ」
「何の発足ですか」とヴィランが聞いた。
「ローゼンベルク・リングだ。エルダ、カイロス、アランヴァル、ノルド、ガルム、ミストル、ヴェルデを繋ぐ食と魔導の流通網を、公爵家として正式に認定する」
「承知いたしました」
「名前はそのままリングとする。お前が作ったものだ」と父がリディアを見た。
「名前もお前がつけた方が良い」
「ローゼンベルク・リングで構いません」
「そうするか」
夜が深くなった。
全員が帰った後、スタジオに戻った。
窓がなく、魔石灯が灯っている石の部屋だ。
全部が最初と同じだった。
でも全然違った。
「これからどうする」とにゃん吉が言った。
「少し休みます。一週間は公爵領にいます」
「その後は」
「行ったことのない大陸があります」とリディアは言った。
「大陸か」
「この国の外に、まだ食べたことのない素材があります。まだ捨てられている食材があります。まだ届けていない人間がいます」
「最深層を踏破して、次は大陸に行くのか」
「行けるなら行きます」
「船が要るな」
「マリウスさんに相談します。カイロスからの海路が使えます」
「一つ聞いていいか」とにゃん吉が言った。
「どうぞ」
「お前は満足したか。虚ろの王を調理して」
リディアは考えた。
「しました。言葉を失いました。それが証拠だと思います」
「それで終わりか」
「終わりではありません」とリディアは言った。
「満足した。だから次が見たくなりました。もっと先に何があるか知りたくなりました」
「満足が次の起点になるのか」
「そうです。スライムゼリーポンチを最初に作った時も、満足したから次を考えました。一つ届けるたびに、次が見えてきます」
「そうか」とにゃん吉が言った。
缶を開けた。
「今夜は一緒に飲め」と言った。
「今夜は少しだけ飲みます」
「少しだけでいい」
缶を受け取った。
飲んだ。
甘い発酵の香りがした。
最深層から帰ってきた夜に飲む味は、また少し違った。
「美味しいですね」
「そうか」
「マタタビ酒が美味しいと思ったのは初めてかもしれません」
「それは良かった」とにゃん吉が言った。
石の部屋が静かだった。
追放された夜も、この部屋は静かだった。
あの夜はお腹が空いていた。
今夜は満ちていた。
虚ろの王の旨味がまだ体に残っていた。
羊皮紙を取り出した。
「また書くのか」とにゃん吉が言った。
「少しだけ」
「何を書く」
「次の場所の候補です。行ったことのない大陸の話を、マリウスさんから聞いていました。その記録を出します」
「もう次を考えているのか」
「書いておかないと忘れます」
「帰ってきた日の夜に、次の旅の計画を立てるのか」
「そういうものです」とリディアは言った。
書いた。
行ったことのない大陸の名前。マリウスから聞いた情報の断片。海路の可能性。
書きながら、窓のない壁を見た。
この部屋からまた出発する。
この部屋がいつも起点だった。
最初の夜に入ってきた場所。
次の旅の出発点。
変わらない場所が一つある。それが良かった。
「にゃん吉さん」
「なんだ」
「ダンジョンに入ってきた夜から、ずっとありがとうございました」
「礼は要らん」
「言います」
にゃん吉が缶を傾けた。
「続きが見たかっただけだ」と言った。
「最初に言ったな。画角に入り込んできたお前の続きが見たかった」
「見えましたか、続きが」
「見えた」とにゃん吉は言った。
「まだ続いている」
「続きます」とリディアは言った。
「大陸に行って、また続きます」
「では俺も続きを見る」
「お願いします」
朝になれば外に出る。
大陸の話をマリウスに聞く。レオンに海路用の準備を相談する。コルトに声をかける。
やることが、また増えた。
次の旅が、もう始まっていた。




