第77話:百年ぶりの調理
虚ろの王の肉を取り出した。
保管庫から出した瞬間に、空気が変わった。
魔力の気配がした。肉そのものから魔力が放たれていた。触れた手が少ししびれた。
「まだ魔力が活きています」とリディアは言った。
「仕留めてから半日経つが、まだ放出が続いている」とにゃん吉が言った。
「これだけ長く最深層にいた魔獣だ。体内の魔力が抜けるのに時間がかかる」
「それでも調理できますか」
「お前がやると決めたなら、できる方法がある」
「あります」
水晶板を起動した。
「百年ぶりの虚ろの王の調理を始めます」とリディアは言った。
コメント欄が止まった。
一拍後に爆発した。
「ついに来た」「百年ぶりだ」「令嬢が調理する」「スパチャ連打」が画面を埋めた。
「まず下処理から始めます。この肉は魔力が過剰です。そのまま食べると魔力酔いを起こします。最初に魔力のトゲを抑え込む処理が必要です」
ヴェルデの濃縮トマトペーストを取り出した。
「ヴェルデで魔導野菜の過剰な魔力を処理した方法を使います。酸味の成分が魔力の尖った部分を包み込みます」
カイロスの魚骨出汁粉を出した。
「カイロスの出汁の旨味成分が、肉の繊維の隙間に入り込みます。旨味が魔力と結合することで、魔力が食べられる成分に変換されます」
「魔力を食べられる旨味に変えるのか」とコルトが言った。
「変えます。毒を薬にするのと同じ発想です」
トマトペーストと出汁粉を合わせた。
「酸と旨味を一緒に使います。比率が重要です」
水で溶いた。
「肉に塗ります。全面に、均一に」
大きな刷毛で塗った。
肉の表面にトマトと出汁の液体が染み込んでいった。
「一時間置きます。繊維の内側まで染み込ませます」
待つ間に、にゃん吉に聞いた。
「百年前に食べた人間が言葉を失ったというのは、本当の記録ですか」
「本物の記録だ。ただし百年前はこれだけの処理をして食べていたわけではないと思う。どういう方法で調理したかは記録に残っていない」
「適切な処理なしに食べたから言葉を失ったのかもしれませんね」
「そうかもしれない。正確な処理をしたお前の料理はどうなるか、俺にも分からない」
「出会ってから分かります」
一時間後、肉を確認した。
表面の色が変わっていた。
深い赤から、少し落ち着いた色になっていた。
触れた。
しびれが弱まっていた。
「染み込んでいます。魔力が和らいでいます」
「本当に変わっているのか」とコルトが言った。
「触ってみてください。少しだけ」
コルトが触れた。
「……しびれが少ない。昨日と全然違う」
「処理が効いています」
調理の本番に入った。
「エルダ製フライパンを最大出力にします」とリディアは言った。
魔導炉に魔力を通した。
フライパンが熱くなった。
今まで使ったことのない出力だった。フライパンが赤みがかって光った。
「極熱調理で表面を一気に焼き固めます。旨味を内側に閉じ込めます」
肉を乗せた。
今まで聞いたことのない音だった。
ジュアアアアアッという音が、最深層に響いた。
反響した。
石の壁に当たって戻ってきた。
コメント欄に「音が来た」「最深層に響いている」「すごい音だ」が流れた。
一分で返した。
焼き色がついていた。
深い褐色だった。通常の肉の焼き色より深みがあった。魔力が熱で変換された色だった。
「次は低温です」
温度を一気に下げた。
「ガルムの無凍降脂を使います。コンフィの要領でじっくり火を通します。高温で焼き固めた後に、低温でゆっくり内部まで火を入れます」
無凍降脂を鍋に入れた。
「この脂は極寒でも極熱でも安定します。最深層の温度変化が来ても、脂の温度が乱れません」
肉を沈めた。
「時間をかけます。二時間以上です」
待つ間、添え物を作った。
アランヴァルの黒穀を炊いた。
「全拠点の素材が揃っています。エルダのフライパン。カイロスの出汁。ヴェルデのトマトペースト。ガルムの無凍降脂。アランヴァルの黒穀。あとはミストルの山魔胡椒を最後に振ります」
「全部の場所が一皿に入るのか」とコルトが言った。
「入ります。それが今日の料理の形です」
一時間経った。
厨房車から香りが出始めた。
最初は無凍降脂の香りだった。次にトマトの香りが混ざった。出汁の香りが加わった。
全部が混ざって、一つの香りになっていった。
「香りが変わってきました」
「外に出ている」とにゃん吉が言った。
「どこまで届いていますか」
「最深層の空気全体に広がっている。この場所が変わっている」
「配信を続けます」とリディアは水晶板に向かって言った。
「香りが出てきました。全拠点の素材が合わさっています」
コメント欄に「香りが伝わってきそう」「最深層の空気が変わっている」「令嬢がやっている」「スパチャ連打」が流れた。
各地からリアルタイムのメッセージが来た。
「エルダで見ています。フライパンが使われていますね。——セルム、ドラン」
「カイロスで見ています。出汁が使われていますね。——タスカ」
「アランヴァルで見ています。黒穀を持っていってくれた。——イルゼ」
「ガルムで見ています。無凍降脂が最深層で使われている。——マリウス、エルザ」
「ミストルで見ています。山魔胡椒を持っていってくれた。——ラム」
「ヴェルデで見ています。トマトペーストが最深層まで届いた。——マルコ」
「公爵領で見ています。——R_F_1」
「全部の場所で見ていますね」とリディアは言った。
「全世界だな」とにゃん吉が言った。
「全世界が待っています。美味しいものが届けられますように」
二時間後、確認した。
箸を入れた。
スッと入った。
抵抗がなかった。
「火が通っています」
取り出しすと、表面が光っていた。無凍降脂が馴染んで、艶が出ていた。
切ると、断面が出た。深い赤だった。魔力が旨味に変換された色だった。中央まで均一な色が通っていた。
「完璧なミディアムです」
盛り付けてから、黒穀の炊き込みを皿の隣に置いた。
「仕上げです」
ミストルの山魔胡椒を手に取った。
「最後に振ります」
パラリとかけた。
瞬間、香りが変わった。
それまでの複雑な香りに、山魔胡椒の爽やかな刺激が加わった。
全部の香りが一つになった。
その香りが最深層に広がった。
広大な空間に満ちていった。
コルトが立ち止まった。
「……なんだ、この匂いは」
「虚ろの王のステーキです。全拠点フルコース仕立てです」
「こんな匂いがするのか、百年前の伝説の食材が」
「処理と調理が正しければ、素材本来の良さが出ます」
皿を持った。
「コルトさんから食べてください」とリディアは言った。
「俺からか」
「一緒に戦ってくれました。最初に食べてもらいます」
「……受け取ります」とコルトが言った。
皿を受け取り、ナイフを入れた。
断面からわずかに湯気が出た。
口に運んだ。
コメント欄が止まった。
全員が待っていた。
「……」
コルトが何も言わなかった。
噛み続けた。
飲み込んだ。
「コルトさん」とリディアは言った。
「…………」
また何も言わなかった。
「感想を」
「……言葉が」とコルトが言った。
「言葉が?」
「言葉が出ない」
コメント欄が爆発した。
「百年前の記録通りだ」「言葉を失った」「伝説が本当だった」「令嬢がやった」「スパチャ連打」が止まらなかった。
「にゃん吉さん、食べてください」とリディアは言った。
にゃん吉が近づいた。
一口食べた。
動かなくなった。
長い沈黙があった。
にゃん吉が何か言おうとした。
止まった。
また言おうとした。
止まった。
「…………」
「にゃん吉さん」
「……お前は」とにゃん吉がやっと言った。
「本当に」
「本当に?」
「……とんでもないことをした」
「はい」
「この味は」
「どんな味ですか」
にゃん吉が長い間、答えなかった。
最深層の空気が静かだった。
「言葉にならない」とやっと言った。
「神獣として数千年生きてきた。色々な素材を食べてきた。でもこれは全部違う。全部の旨味が一つになっているのに、それぞれが分かる。複雑なのに調和している。食べた後に最深層の全部の魔力が体に届いてくる感覚がある。これが虚ろの王だ」
「リディア、お前も食べろ」とにゃん吉が言った。
「自分の分が残っています」
一切れ切って、口に入れた。
噛んだが、言葉が出なかった。
何も出てこなかった。
口の中に全部の場所の記憶が来た。
エルダの炎の音。カイロスの波の音。アランヴァルの水の音。ノルドの人の声。ガルムの風の音。ミストルの霧の静けさ。ヴェルデの畑の広さ。
全部が一口の中に来た。
飲み込んだ。
体の内側から熱が来た。最深層の魔力が変換された栄養が広がった。
しばらく、何も言えなかった。
「リディア様」とコルトが言った。
「……はい」
「感想は」
「言葉が出ません」
「百年前の記録通りだ」
「そうですね」とリディアはやっと言った。「言葉が出ません。でも美味しいということだけは分かります」
水晶板に向かった。
「虚ろの王の調理に成功しました」とリディアは言った。声がまだ少し変だった。
「百年ぶりの調理です。食べた人間が言葉を失いました。私も言葉が出ませんでした。ただし美味しいです。確かに美味しいです」
コメント欄が止まらなかった。
「令嬢が言葉を失った」「百年前の記録が本当だった」「虚ろの王が調理された」「伝説が今日になった」「スパチャ連打」が続いた。
父からメッセージが来た。
「R_F_1より。早く帰ってこい。カレーパンを待っている。——父より」
「見ていましたか、父上は」とにゃん吉に言った。
「見ていたな」
「カレーパンを待っているそうです」
「それが公爵の言い方だ」とにゃん吉が言った。
「帰ります」とリディアは言った。
「虚ろの王を調理しました。次は地上に帰ります」
コルトが「いつ出発しますか」と言った。
「今夜、準備をします。明日の朝に最深層を出ます」
「分かりました」
夜、全員が食事を終えた。
厨房車の中に、虚ろの王の香りが残っていた。
リディアは羊皮紙を出した。
「調理の記録を書きます。処理の方法、使った素材の比率、温度と時間の目安。全部を書きます」
「それが次の人のためになるのか」とコルトが言った。
「百年後かもしれません。でも記録があれば再現できます」
「百年後まで考えているのか」
「書いておけば残ります」
書いた。
全工程を書いた。下処理の方法。トマトペーストと出汁の比率。極熱調理の時間。低温コンフィの時間。山魔胡椒を振るタイミング。
「書き終わりました」
「それだけか」とにゃん吉が言った。
「今日分はこれだけです。後は眠ります」
「珍しいな、書いてすぐ眠るのか」
「今日は疲れました」
「正直だな」
「百年分の調理をしました。疲れても良いです」
にゃん吉が缶を開けた。
「一杯だけ」と言った。
「今夜は本当に一口だけもらいます」
缶を受け取った。
飲んだ。
マタタビ酒の甘い発酵の香りが、虚ろの王の余韻と混ざった。
変な組み合わせだったが、悪くなかった。
「明日、帰りましょう」とリディアは言った。
「そうだな」とにゃん吉は言った。
「始まりの場所を通って、帰る」
「そうです」
魔石灯を暗くした。
最深層の夜が続いていた。
明日、地上に帰る。
ペンを置いた。
今夜は書かなかった。
帰ってから書くことが待っていた。




