第76話:虚ろの王との対峙
二日目だった。
コメント欄で時間を確認していた。
外では時間の感覚が狂っていた。体では三時間程度だと思っていたが、コメント欄の記録では六時間が経過していた。
「倍以上のズレがありますね」とリディアはにゃん吉に言った。
「最深層の核に近づくほど、時間の感覚がずれる。外の記録を見続けることが重要だ」
「分かりました」
進みながら、昨日残った深層幻草のペーストを全員に配った。
「朝食の代わりです。体の耐性を維持します」
コルトが受け取った。
「最深層で飯を配るのが日常になってきた」とコルトが言った。
「日常にする方が良いです。食事が止まれば体が止まります」
「調理師の言葉とは思えない威厳があるな」
「料理人の言葉です」
環境がさらに変わった。
魔力の濃度が上がり、空気が重かった。呼吸が少し重くなった感覚があった。
「体に影響が出始めています」
「最深層の核に近い。耐性が要る」とにゃん吉が言った。
「全員、山魔胡椒のフレークを少量舌の上に乗せてください」とリディアは言った。
「効果がありますか」とコルトの仲間の一人が言った。
「ミストルで確認しています。過剰な魔力を中和します」
全員がフレークを少量摂った。
「しばらく待ってください」
三分後、呼吸が楽になった感覚があった。
「効きましたね」
「体が軽くなった」とコルトが言った。
「山魔胡椒の解毒作用です。最深層でも機能しています」
その時、にゃん吉が止まった。
「来た」
全員が止まった。
「どこですか」とリディアは言った。
「前方だ。かなり大きい気配だ。今まで感じた魔獣とは格が違う」
「虚ろの王ですか」
「そうだ」
前方の暗がりに変化が起きた。
光が来た。
青みがかった光ではなく、深い紫の光だった。
光が動き、巨大な輪郭が現れた。
厨房車の三倍以上の大きさがあった。形は龍に似ていたが、翼はなかった。体の表面に紋様が浮かんでいた。魔力が模様として可視化されていた。
二つの目が開き、深い紫に光った。
「……でかい」とコルトが言った。
「百年間、ここにいたんですね」とリディアは言った。
「そうだ」とにゃん吉が言った。
「この場所の核に近い場所にいた。ここが居場所だった」
「動く前に観察させてください」とリディアは言った。
「観察するのか、今の状況で」とコルトが言った。
「戦う前に素材を確認します」
「……料理人だな、本当に」
リディアは虚ろの王を見た。
体の表面の紋様が変化していた。魔力の流れが見えた。
「どこに魔力が集中していますか」とにゃん吉に聞いた。
「頭部と尾の付け根だ。そこが魔力の出力点だ」
「逆に言えば、胴体部分は魔力の密度が相対的に低いですね」
「そうだ。胴体が一番肉が多い部位でもある」
「胴体中央が食材としての主役ですね」
「ここで言うことか、それを」
「調理するために仕留めます。無駄なく、素材を傷めずに」
コメント欄を確認した。
配信が続いていた。
「虚ろの王と対峙しています」とリディアは水晶板に向かって言った。声が平静だった。
コメント欄に「本当に来た」「でかい」「にゃん吉頼む」「令嬢が観察している」「スパチャ連打」が流れた。
「コルトさん、頭部と尾の付け根は攻撃に使われます。胴体中央を狙わないでください」とリディアは言った。
「素材を守るために戦術を指定するのか」
「そうです。胴体中央が食材として最良の部位です。傷をつけないように仕留めてください」
「了解した。聞いたことのない依頼だが、了解した」
虚ろの王が動いた。
尾が振られ、石の床が割れた。
コルトの仲間が散開した。
動きが速かった。巨体に見合わない速度だった。
「にゃん吉さん、お願いします」とリディアは言った。
「分かっている」とにゃん吉は言った。
にゃん吉が前に出た。
尻尾の先が光った。
神力が展開された。
にゃん吉と虚ろの王が向き合った。
虚ろの王が紫の光を放った。
にゃん吉の神力の光が受けた。
ぶつかった。
音が出た。今まで聞いたことのない音だった。石が割れる音でも金属が当たる音でもなかった。魔力同士がぶつかる音だった。
「強い」とにゃん吉が言った。渋い声だったが、驚きが混じっていた。
「百年間、最深層の核の近くにいただけある。魔力の密度が桁違いだ」
「大丈夫ですか」とリディアは言った。
「大丈夫だ。時間がかかる」
コルトが指示を出した。
「挟む。正面はにゃん吉に任せる。俺たちは側面から」
コルトの仲間が動いた。
連携が取れていた。長年一緒に動いてきた仲間の動き方だった。
側面から攻撃が入った。
虚ろの王が反応した。注意が分散した。
「今だ」とにゃん吉が言った。
神力が集中した。
一点に収束した光が放たれた。
虚ろの王が止まり、動きが遅くなった。
追加の攻撃が入った。
ゆっくりと、虚ろの王が傾いた。
倒れた。
音が最深層に響いた。
石の床に、巨大な体が横たわった。
静寂が来た。
コメント欄が止まった。
数秒後に爆発した。
「倒した」「にゃん吉が」「コルトたちが」「令嬢の指示通りに」「スパチャ連打」が止まらなかった。
リディアが近づいた。
虚ろの王の体に触れた。
大きかった。
表面の紋様が消えかかっていた。魔力が収まりつつあった。
胴体中央を確認した。
傷がなかった。
「コルトさんの仲間が指示通りに戦ってくれました」
「あなたの指示が正確だったからだ」とコルトが言った。
「胴体を狙うなという指示を、全員が守った」
「ありがとうございます。解体に入ります」
解体を始めた。
包丁を入れた。
固かった。
今まで触れたどの素材より固かった。
「硬いですね」とリディアは言った。
「エルダのフライパンを使えば通るはずだ」とにゃん吉が言った。
「包丁ではなく、フライパンの熱を使うのですか」
「包丁の刃にフライパンの魔力を通せ。赤鉄鉱の熱浸透性が使える」
「試します」
フライパンを取り出し、魔力を通した。
刃に熱を誘導し、もう一度入れると、今度は通った。
「入りました」
「フライパンの魔力が刃に移ったのか」とコルトが言った。
「そういうことです。エルダの鉱石の特性が解体にも使えました」
丁寧に解体した。
胴体中央の肉を取り出した。
深い赤色だった。
普通の肉とは色が違った。魔力が凝縮した色だった。
匂いを嗅いだが、何とも複雑だった。
今まで嗅いだことのない匂いだった。甘くもなく、辛くもなく、酸っぱくもない。でも確かに食材の匂いだった。
「これが虚ろの王の肉ですね」
「そうだ」とにゃん吉が言った。
「百年間、最深層の魔力を吸収し続けた肉だ。どんな旨味が出るか、俺にも分からない」
「出会ってから決めます」
「そういうものか」
「素材と対話するのが料理です」
「全世界へ報告します」とリディアは水晶板に向かって言った。
「虚ろの王を仕留めました。素材の確保に成功しました。百年ぶりの調理を始めます」
コメント欄が再び爆発した。
「虚ろの王の肉が手に入った」「調理するのか」「令嬢が調理する」「百年ぶりだ」「スパチャ連打」が続いた。
各地からメッセージが来た。
「エルダで見ていました。——セルム」
「カイロスで見ていました。——タスカ」
「ガルムで見ていました。——マリウス」
「公爵領で見ていました。待っています。——R_F_1」
「父が待っています」とにゃん吉に言った。
「カレーパンをか」
「カレーパンと報告を」
「では早く調理して帰れ」
「調理が先です。急ぎません」
「急がないのか、今の状況でも」
「急いで失敗するより、丁寧にやって成功する方が良いです」
羊皮紙を取り出した。
虚ろの王の肉の性質を書いた。
固さ。色。匂い。触感。魔力の感じ方。
「今日の解体で分かったことを全部記録します」
「調理の前に記録するのか」
「素材を理解してから調理に入ります。いつも通りです」
コルトが横に来た。
「令嬢」
「はい」
「今まで一緒に来て良かったです」
「ありがとうございます」
「全部を見てきた。各地の食堂を作るところも、封鎖を突破するところも、最深層に来るところも。全部見てきた」
「一緒に来てくれたからです」
「最後に一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「これが終わったら、また旅に出るのか」
「出ます」とリディアは言った。
「まだ行ったことのない場所があります。まだ捨てられている食材があります。まだ届けていない人達がいます」
「そうですか」とコルトが言った。
「来ますか、また」
「来ます」とコルトは言った。即答だった。
虚ろの王の肉が、厨房車の保管庫に入った。
明日から調理を始める。
にゃん吉が缶を開けた。
「調理の前に少し休め」
「記録を終えてから休みます」
「短くしろ」
「短くします」
最深層の二日目が終わった。
虚ろの王は仕留めた。
次は調理だった。
それが一番大事な工程だった。




