第71話:ローゼンベルク・リングの完成
公爵領に戻ったのは昼過ぎだった。
城門をくぐった時、いつもの匂いがした。
農村の土と、ギルド食堂の煙と、公爵領固有の魔力の濃度。
「帰ってきましたね」とリディアは言った。
「また言うのか、それを」とにゃん吉が言った。
「毎回言います。帰ってくるたびに実感があります」
「そういうものか」
「そういうものです」
ヴィランが門のところで待っていた。
「お帰りなさい」とヴィランが言った。
「ただいまです。父はいますか」
「お待ちです。今日の夕方、時間をいただけますか」
「取っています」
スタジオに荷を下ろした。
旅の荷が多かった。
各地から持ち帰った素材の残りが積まれた。ガルムの無凍降脂。ミストルの山魔胡椒。ヴェルデの濃縮トマトペーストのサンプル。
「全部の拠点の素材が一か所に集まりましたね」とリディアはにゃん吉に言った。
「感慨深いか」
「少しだけあります」
「珍しいな」
「たまにあります」
各拠点への通信を確認した。
エルダから。
「フライパンの量産が月産五十個を超えました。ドランさんが工房を拡張しました。ヴォルク支部長が元気です。——セルム」
カイロスから。
「オイルサーディンの三か月物が完成しました。タスカさんが『次に令嬢が来た時に最高の状態のものを出す』と言っています。——漁師組合」
アランヴァルから。
「水運組合の食材部門が独立採算になりました。グレンが部門長になりました。山魔胡椒の最初の荷がミストルから届きました。——イルゼ」
ミストルから。
「今週、山魔胡椒フレークの二回目の生産をラム一人でやりました。品質が安定しています。——ラム」
ノルドから。
「固形スープの素の流通が安定しています。コルトさんが先ほど帰還しました。——ヘンドリック」
ガルムから。
「ヴェルンのチーズがケセルに届いています。ブルンが毎日スープを出しています。——マリウス」
ヴェルデから。
「マルコさんが昨日から加工を始めました。廃棄予定だったトマトが全部ペーストになっています。——ヴィラン経由」
「全部から連絡が来ました」とリディアはにゃん吉に言った。
「全部動いているのか」
「動いています。私がいなくても」
「それが目的だったな」
「そうです。最初からそれが目的でした」
夕方、父の部屋に通された。
父が席についていて、ヴィランが隣に立っていた。
「座れ」と父が言ったので座った。
「報告を聞く。全部話せ」
話した。
エルダから始めた。
岩角豚の下処理から角煮丼へ。フライパンの開発と量産。エルダが鉱石産地から調理器具産地へ変わったこと。
カイロスへ。
廃棄されていた海産物の頭と骨から出汁を取る方法。オイルサーディンの開発。港の封鎖を水路で突破したこと。
アランヴァルへ。
黒穀の加工。水運組合への技術移転。山魔胡椒のスパイスルート開通。
ノルドへ。
封鎖を受けながら止まらなかったこと。王都の城壁の前での炊き出し。セドリックの審議開始。
ガルムへ。
フロストボアと無凍降脂。熟成チーズ。氷雪根スープ。領主フォルツとの正式な協定。
ミストルへ。
山魔胡椒の発見と加工。霧毒の森林から採れたスパイスが解毒作用を持つこと。竹筒での輸送。スパイス燻煙農法。
ヴェルデへ。
魔導野菜の問題。煮詰めて形をなくすことで規格の壁を突破した方法。濃縮トマトペーストの開発。
全部話した。
三十分程かかった。
父は黙って聞いていた。
ヴィランがメモを取っていた。
全部話し終えた。
沈黙があった後に父が口を開いた。
「地図を出せ」
ヴィランが大きな地図を広げた。
父が立ち上がった。地図を見た。
「エルダがここだ」と指さした。
「カイロスがここ。アランヴァル。ノルド。ガルム。ミストル。ヴェルデ」
全部の場所を指さした。
「全部が繋がっているのか」
「繋がっています」
「一つ一つは遠い場所だ。単独では弱い場所もある。ただし繋がれば」
「繋がれば輪になります」
ヴィランが言った。
「閣下、私から申し上げてよろしいですか」
「言え」
「ローゼンベルク・リングと呼んで良いかと思います」とヴィランが言った。
「リディア様が作り上げた広域食糧流通網です。エルダ、カイロス、アランヴァル、ノルド、ガルム、ミストル、ヴェルデが全部繋がっています。これで王都を通さずに物資が動きます。王都の旧態依然とした貴族勢力も、この輪には手出しできません。地上の基盤は整いました」
父が地図を見ながら言った。
「お前が作ったのはただの料理ではないな」
「料理が起点でした」とリディアは言った。
「料理が起点で、これが出来たのか」
「廃棄されていたものを使って、作り方を教えて、仕組みを残してきました。その積み重ねです」
「国境を越えた輪だ」と父が言った。
「ガルムもミストルも王都の管轄外の場所だ。それでも繋がっている」
「食材は国境を選びません」
父が長い沈黙の後に言った。
「一つだけ言う」
「はい」
「お前は追放された日から一度も止まらなかったな」
「止まる理由がありませんでした」
「それが分かった」と父は言った。
「公爵家として、このリングを正式に認定する。流通の保護と、法的な支援を行う」
「ありがとうございます」
「礼は要らん」とまた父が言った。
それから父がリディアを見た。
「次は何をする」
リディアは少し間を置いた。
「地上の仕組みは皆さんに任せます」と言った。
「皆さんとは誰だ」
「ヴィランさん、レオンさん、クラウスさん、各拠点の指導者たち。全員が動けます。私がいなくても続きます」
「ではお前は」
「ダンジョンの最深層に向かいます」とリディアは言った。
部屋が静かになった。
「最深層か」と父が言った。
「虚ろの王という素材があります。百年前に食べた人間が言葉を失ったと聞きました。その味を知りたいです」
「それが理由か」
「それが理由です」
父がヴィランを見た。
ヴィランが「以前からそのつもりだったのだと思います」と言った。
「ダンジョンが始まりだったからな」と父が言った。
「追放された場所が、また終着点になるのか」
「終着点ではありません」とリディアは言った。
「次の起点です」
「最深層の先に何がある」
「まだ分かりません。行ってから分かります」
父が少し考えた。
「準備は何が要る」
「レオンさんとドランさんに依頼があります。厨房車の最終改修です。最深層の環境は特殊です。今の装備では対応できない部分があります」
「期間は」
「一週間から二週間だと思います」
「その間にできることがある」と父が言った。
「何ですか」
「公爵家として、最深層挑戦の正式な記録を残す。お前が戻った時に使えるように」
「ありがとうございます」
「礼は」
「言います」とリディアは言った。
部屋を出たら、廊下でヴィランが言った。
「閣下は昨夜、一睡もされておられませんでした」
「最深層の件が気になっていましたか」
「おそらく。ただし今朝、水晶板でミストルの配信を見ておられました。山魔胡椒の回です」
「配信は続けていたので」
「三回見返しておられました」とヴィランが言った。
リディアは少し止まった。
「心配しているんですね」
「閣下なりの形で」
「分かっています」
スタジオに戻った。
「父が最深層の件を認めてくれました」とにゃん吉に言った。
「どんな顔をしていた」
「いつもの顔でした。ただしヴィランさんに聞いたら、昨夜一睡もしていなかったそうです」
「素直でないな」
「そういう人です」
にゃん吉が缶を開けた。
「いよいよか」
「いよいよです。明日からレオンとドランへの依頼を始めます。厨房車の最終改修をしてもらいます」
「どのくらいかかるんだ」
「一週間は最低限かかります。その間に最深層への持参素材を整理します」
「全拠点の素材を積んでいくのか」
「全部持っていきます。エルダのフライパン、カイロスの出汁、アランヴァルの黒穀、ミストルの山魔胡椒、ガルムの無凍降脂、ヴェルデのトマトペースト。全部が必要になります」
羊皮紙を広げた。
持参素材のリストを書き始めた。
「また書いているのか」とにゃん吉が言った。
「準備が必要なものを全部出します。見落としがあれば後で困ります」
「最深層では何が一番難しいと思うか」
「温度の変化への対応です。極熱と極寒が交互に来る環境で、素材の状態を保つことが一番の課題です。それと最深層の素材に含まれる魔力の処理です。ヴェルデで学んだ煮詰めの技術が使えるはずですが、密度が全然違うと思います」
「ガルムで学んだ無凍降脂も役立つな」
「役立ちます。全部が繋がっています」
魔石灯の光が部屋を照らしていた。
窓のない石の部屋だった。
追放されてこの部屋に来てから、ずっとこの場所が起点だった。
「この部屋に戻るのも、これで何回目でしょうか」とリディアは言った。
「数えていないが、何回もある」とにゃん吉が言った。
「最初に来た時は、ドレスのままでお腹が空いていました」
「覚えている。画角に入り込んできた」
「そうでした」とリディアは言った。
「それからここまで来ました」
「遠くまで来たな」
「でもまた出発します」
「それがお前だ」とにゃん吉は言った。
ペンが動いた。
明日からの準備が羊皮紙に並んでいった。
レオンへの連絡。ドランへの素材リスト。コルトへの同行依頼の打診。各拠点への出発連絡。
全部書いた。
今夜の分が終わった。
魔石灯を少し暗くした。
最深層が、また少し近くなった気がした。




