第68話:毒草
ガルムを出る朝、ブルンとエルザが見送りに来た。
マニュアルを二人に渡した。
「全工程が書いてあります。無凍降脂グラタンの加工手順も入れました」
ブルンが受け取った。
「また来るか」
「来ます。フロストボアの脂の定期採取が軌道に乗ったか確認しに来ます」
「待っている」とブルンは言った。短かった。ガルムの人間らしい別れ方だった。
エルザが「体に気をつけるんだよ」とだけ言った。
荷車が動き出した。
南に向かった。
標高が下がっていくにつれて、景色が変わった。
岩肌が減り、草が増え、木が増えた。
ただし空気が変わった。
湿っていた。乾いていたガルムの空気とは正反対だった。しっとりとした重みのある空気が増えてきた。
「湿気が出てきましたね」
「アランヴァルの水源に近づいている」とにゃん吉が言った。
「川の源流は常に湿気が高い」
「ガルムから来ると余計に感じます」
「寒冷地の乾燥した空気に体が慣れていたからだ。変化を感じるのは当然だ」
昼過ぎ、イルゼから通信が来た。
【ミストルに向かっているんですね。一つ伝えておきたいことがあります。あの集落は昔から湿気と霧に悩まされています。特に村の奥のダンジョン、霧毒の森林と呼ばれている場所から流れ出す霧のせいで、作物が腐りやすい。村人は困っています。山魔胡椒の情報もそこから来ています。——イルゼ】
「イルゼさんから情報が来ました」とリディアはにゃん吉に言った。
「霧毒の森林か」とにゃん吉が言った。
「知っていますか」
「名前は知らなかったが、この辺りに霧を出すダンジョンがあることは感じていた。近づくにつれて気配がある」
「毒霧ですか」
「毒というより、ダンジョンの魔力が霧と混ざって外に出ているものだ。人間には有害ではないが、植物の成長には影響する」
「作物が腐りやすいのはそのせいですね」
「そうだ。ダンジョンが近いと、周囲の環境が変わる」
ミストルが見えてきた。
霧が出ていた。
昨日とは違う霧だった。
白くはなかった。薄い灰色で、低く、地面を這うように流れていた。
「独特な霧ですね」
「ダンジョンから出ている分が混じっている」とにゃん吉が言った。
「色が違う理由だ」
「体に影響はありますか」
「短時間なら問題ない。長時間いると頭が重くなる場合がある。配信の間は気をつけろ」
「分かりました」
集落に入った。
湿気が強くて、建物の壁に苔がついていた。木の扉が膨張していた。全体的に古びて見えたが、建物自体は丈夫そうだった。長年この湿気と戦ってきた集落だと分かった。
人が出てきた。
前回と同じだった。警戒した顔で見ていた。
「また来ました」とリディアは言った。
ラムが出てきた。
「戻ってきたか」
「山魔胡椒の件もありますが、ダンジョンのことも確認したいことがあります」
「霧毒の森林のことか」
「そうです。長老に会えますか」
長老の家に通された。
ラムの父親だった。前回と同じく、物静かな顔をしていた。
「ダンジョンの話を聞きたいのか」とラムが通訳した。
「はい。霧毒の森林について教えてください」
「村の奥に小規模なダンジョンがある。三十年前に突然現れた。最初は普通の洞窟だったが、霧を出し始めた。その霧のせいで作物が傷みやすくなった。今では村の東側の畑は使い物にならない」
「中に入った人間はいますか」
「数人が入った。出てきたが、頭が重くなって動けなかった。それ以来は入っていない」
「私たちが入ります」
長老が「なぜ」とラムを通じて聞いた。
「山魔胡椒がダンジョンの近くに生えているからです。ダンジョンの影響を受けているはずです。その性質を確認したいです。それと」
「それと?」
「霧の原因を理解できれば、対処法を考えられます」
準備を整えた。
コルトに状況を話した。
「入るのか、そのダンジョンに」
「浅層だけです。頭が重くなるという症状は、長時間いなければ避けられます」
「装備は」
「通常の装備で問題ないとにゃん吉さんが言っています」
「にゃん吉が言うなら信じる」とコルトが言った。
「護衛する」
水晶板を起動した。
「ミストルの集落から配信します。これから霧毒の森林に入ります」とリディアは言った。
コメント欄に「ダンジョン回だ」「久しぶりのダンジョン内配信」「霧毒の森林とは」が流れた。
「ダンジョンから出る霧が集落に影響を与えています。素材の確認と、状況の把握のために入ります」
ダンジョンの入口は、集落の東側の森の中にあった。
岩の隙間だった。
そこから霧が出ていた。細く、継続的に流れ出していた。
「ここですね」
「霧の濃度が高い」とにゃん吉が言った。
「入口に近いほど強い。奥に行けばさらに濃い」
「どのくらい入りますか」
「浅層で十分だ。目的は素材の確認だろう。深くまで入る必要はない」
「分かりました」
入った瞬間から霧が濃くなった。
見通しが悪かった。十歩先がぼんやりとしていた。
「足元に注意しろ」とコルトが言った。
「分かりました」
壁を確認しながら進んだ。
苔が生えていた。湿気が高い分、植物が育ちやすいらしかった。壁全体が緑色だった。
「植物が多いですね」
「ダンジョンの魔力が水分を呼んでいる。水分があれば植物が育つ。育った植物がさらに水分を呼ぶ。循環している」
「それが霧の原因ですか」
「一部は。ダンジョン自体が水の魔力を帯びている。それが霧として出続けている」
少し進んだところで、にゃん吉が止まった。
「これだ」
壁際に植物があった。
低く、地面に張り付くように生えていた。葉が小さく、茎が細かった。実が生っていた。
赤黒い実だった。
一粒取った。指が少しピリッとした。
「触れただけで刺激があります」
「そうだ」とにゃん吉が言った。
「この実が山魔胡椒だ。集落では厄介者扱いだが、そうではない」
「どういう成分なんですか」
「毒ではない」とにゃん吉が明確に言った。
「過剰な魔力と刺激成分を含んでいるだけだ。ダンジョン内の魔力を吸収して成長しているから、外で育つものより成分が濃い」
「解毒作用があると聞きましたが」
「ある。というより、この実の刺激成分が魔力を中和する働きをする。だから毒成分に対して有効なんだ」とにゃん吉が続けた。
「最深層の毒沼エリアには、魔力を帯びた沼から毒気が出ている。その場で素材を調理する時、素材に毒気が染み込んでいることがある。山魔胡椒の成分はその毒気を中和できる。最深層での調理に絶対に必要になる知識だ」
「それで覚えておく必要があったんですね」
「そうだ。今日ここに来た意味がある」
コメント欄に「最深層に繋がった」「毒沼エリアの伏線だ」「にゃん吉の解説が毎回重要だ」「スパチャ投げます」が流れた。
コルトが横で聞いていた。
「最深層の毒沼か。冒険者ギルドでも攻略記録がほぼない場所だ」
「行くつもりか、令嬢は」
「いずれ行きます」とリディアは言った。
「その時は俺も連れていってくれ」
「わかりました」
山魔胡椒を採取した。
手に刺激が来たが、慣れてきた。
「これだけあれば今日の試作には十分です」
「長くいると頭が重くなる」とにゃん吉が言った。
「出るぞ」
「分かりました」
洞窟から出た。
外の空気が違った。
新鮮だった。
頭の重さが少しあった。にゃん吉が言っていた通りだった。
「少し重いですね」
「少し吸いすぎた。外の空気を吸えば回復する」とにゃん吉が言った。
「大丈夫ですか」とコルトが聞いた。
「大丈夫です。少し待てば治ります」
五分で回復した。
集落に戻った。
長老が出てきた。ラムが横にいた。
「無事だったか」とラムが言った。
「無事です。山魔胡椒を採取しました。今から加工します」
「あの厄介な草をか」
「厄介ではありませんでした。最高のスパイスになります」
配信を続けた。
「集落に戻りました。加工を始めます」とリディアは言った。
実を並べた。
「まず乾燥させます。生の状態では刺激成分が強すぎます。水分を飛ばすことで刺激が和らぎます」
魔石灯の低温を当てた。
「一時間かけて乾燥させます。急がず、低温でゆっくりです。高温だと香りが飛んでしまいます」
待つ間に、ラムと話した。
「この実を村人は毎年捨てているのか」
「捨てている。引き抜いても根が残ってまた生えてくる。触るとピリピリするから嫌われている」
「毒ではないと分かれば態度が変わりますよ」
「本当にそうなるか」
「なります。今日の夕食で分かります」
一時間後、乾燥した実を確認した。
触った。
ピリピリが和らいでいた。
「乾燥しています。次は焙煎です」
エルダ製フライパンで乾煎りした。
音が出た。ぱちぱちという音が続いた。
香りが変わった。
最初は刺激的だった香りが、熱を受けて複雑な香りに変わっていった。木の香り、柑橘系の香り、土の香りが重なった。
「香りが変わりました。焙煎が香りを引き出しています」
コメント欄に「良い香りがしそう」「ガルムの石窯チーズの時みたいだ」「焙煎で化けるのか」が流れた。
砕いた。
石で丁寧に砕いた。粗挽きと細挽きの二種類にした。
「粗挽きは肉料理向けです。細挽きはスープやソース向けです」
砕いた山魔胡椒を手に取って匂いを嗅いだ。
「加工できました」
ハンスの保存脂でヴェルンの干し肉を炒めた。
仕上げに粗挽きの山魔胡椒を振った。
パラリとかけた。
香りが変わった。
干し肉の脂の重みが、一瞬で消えた。代わりに山魔胡椒の爽やかで刺激的な香りが立った。
「食べてください」とラムに渡した。
ラムが受け取った。
一口食べた。
目が大きくなった。
「……脂っこくない」とラムが言った。
「山魔胡椒が脂の重みを消しています」
「爽やかだ。舌の上で弾けている」
「刺激成分が脂の分子を分解する働きをしています。同時に香りが旨味を引き立てます」
村人が集まってきた。
干し肉が変わった匂いがしたからだった。
「食べてみてください」
数人が食べた。
全員が同じ顔をした。
一人が「これが」と言いかけた。
「どうしましたか」
「これが……あの厄介な草なのか」
「そうです」
「毎年引き抜いて捨てていたやつが」
「毎年捨てていたものです」
別の村人が「信じられない」と言った。
「脂っこさが消えた。干し肉がこんな風に食べられるとは思っていなかった」
長老が来た。
ラムが「食べてみてください」と促した。
長老が一口食べた。
長い沈黙があった。
ラムが通訳した。
「父が言っている。三十年間、あの草を引き抜き続けた。毎年戻ってくるから諦めていた。今日初めて、引き抜かなくて良かったと思った」
「これからは引き抜かなくて済みます」とリディアは言った。
「収穫して加工します。スパイスとして使います。アランヴァルの水運ルートで外に出せます」
「外で売れるのか」
「ガルムの濃厚な肉料理に合います。カイロスの魚料理の臭みを消します。需要があります」
「毒草ではありません」とリディアは水晶板に向かって言った。
「アランヴァルからガルム、カイロス、全世界の料理を変える最高の香辛料です」
コメント欄に「令嬢が言い切った」「世界の料理を変える、か」「それが今まで捨てられていたのか」「スパチャ連打」が流れた。
夜、ラムが来た。
「明日から加工の方法を教えてもらえるか」
「教えます。一日で基礎を覚えてもらいます」
「三日あれば完全に覚えられるか」
「覚えられます。あなたの習得速度なら一日半で十分だと思います」
「一日半か」
「繰り返せば確実に覚えます」
ラムが少し考えてから言った。
「村の若い人間にも教えたい。私だけでなく、複数の人間が作れた方が良い」
「その通りです。明日は希望する人全員を集めてください。一緒に教えます」
「分かった」
羊皮紙を広げた。
「また書いているのか」とにゃん吉が言った。
「明日の指導の計画です。それと最深層のメモも追加します」
「毒沼エリアの件か」
「山魔胡椒の解毒作用を記録しておきます。最深層に向かう時の準備資料になります」
「今から準備するのか、最深層に行く前の段階で」
「今のうちに書いておかないと忘れます。行く時になって慌てたくない」
「お前らしいな」とにゃん吉が言った。
「いつもそうしています」
霧の集落の夜が深くなった。
ダンジョンの方向から、薄い霧が流れてきていた。
でも今日の山魔胡椒の香りがまだ残っていた。
爽やかで、刺激的な香りだった。
捨てられていたものが、今日から価値を持った。
それだけで十分な一日だった。




