第66話:氷雪根
夜明け前に出発した。
エルザが見送りに来た。
「また来るかい」
「来ます。チーズの熟成を確認しに来ます」とリディアは言った。
「楽しみにしている」
「エルザさん、一つお願いがあります」
「何だ」
「チーズが完成したら、街の人間に作り方を教えてください。私が作ったものではなく、ヴェルンの人間が作ったものにしてください」
エルザが少し間を置いた。
「分かった」と言った。
「お前に言われなくてもそうするつもりだった」
「エルザさんらしい返事ですね」
「さっさと行け。寒くなる前に出発しろ」
道が上に向かっていた。
ヴェルンを出ると、すぐに傾斜が始まった。荷馬が慎重に歩いた。
標高が上がるにつれて、気温が落ちた。
吐く息が白かった。体が厚着をしていても、冷気が隙間から入ってきた。
「寒いですね」とリディアはにゃん吉に言った。
「ヴェルンより下がっている」とにゃん吉が言った。荷台の端で丸まっていた。
「この高さからさらに上か」
「ケセルはヴェルンよりさらに標高が高いとマリウスさんが言っていました」
「覚悟はできているか」
「できています。耐寒改修をした厨房車があります」
「道具の問題だけではないぞ。体の問題もある」
「途中で温かいものを作ります。移動しながら体温を保ちます」
水晶板を起動した。
「ケセルへの移動中です。標高が上がっています」とリディアは言った。
コメント欄に「ガルム編が続いている」「さらに高い場所に行くのか」「寒そうだ」が流れた。
「今日は移動しながら保温調理の配信をします。寒い場所での調理の工夫を見せます」
厨房車の魔導炉を起動した。
耐寒補正が機能していた。外気温が下がっても、出力が安定していた。
「レオンさんの改修が効いています」とリディアは言った。
「普段と変わらない出力か」とコメントが来た。
「変わっていません。外が寒くても内部の温度は安定しています」
固形スープの素を溶いた。
「移動中の保温として、スープを飲みます。コルトさんたちにも配ります」
コルトが御者台から手を伸ばしてきた。椀を受け取った。
「温かい」とコルトが言った。
「体温が落ちないように、定期的に温かいものを取ります。寒冷地での基本です」
「ダンジョンの長期遠征でも同じだ」とコルトが言った。
「体が冷えると判断力が落ちる。定期的に温かいものを取るのは遠征の基本だ」
「同じ原理です」
昼過ぎ、ケセルが見えてきた。
岩肌に張り付くように建っていた。建物が低く、窓が小さかった。ヴェルンより更に防寒を意識した作りだった。
街に入ると、人が少なかった。
外にいる人間が非常に少なかった。ヴェルンでは少なかったが、ケセルはさらに少ない。外気温が低すぎて、用事がなければ外に出ないということだった。
数少ない外の人間を見た。
顔が白かった。血色が悪かった。手を擦り合わせて歩いていた。寒さで体が機能していない人間の動き方だった。
「ヴェルンより厳しいですね」とリディアはにゃん吉に言った。
「鉱夫の顔を見ろ」
坑道から出てきたらしい鉱夫が数人いた。全員が防寒着を重ねていた。それでも顔が固まっていた。手が動きにくそうだった。
「寒さで体が動かなくなっています」
「これで仕事をしているのか」とコルトが言った。
「しています。ただし限界に近いと思います」
マリウスが地元の世話役を連れてきた。
世話役はブルンという四十代の男だった。顔が赤く、肌が荒れていた。極寒の中で長年働いてきた顔だった。
「来てくれたのか」とブルンが言った。マリウスが通訳した。
「ヴェルンで食事が変わったと聞いた。ここでも同じことができるか」
「できます」とリディアは言った。
「ここで捨てられているものを教えてください」
「捨てているもの?」
「使い道が分からないものでも構いません。余っているもの、困っているもの、全部教えてください」
ブルンが少し考えた。
「一つある。坑道の近くに生える根菜だ。氷雪根という。掘り出すのも大変で、辛味が強すぎて食べられない。ただ生えてくる。邪魔だから処分している」
「見せてもらえますか」
ブルンに案内された。
坑道の入口近くの地面に、根菜が生えていた。
白かった。
地面から白い根が出ていた。触ると固かった。引き抜くと抵抗があった。かなりの力が必要だった。
表面を削って匂いを嗅いだ。
強くて、刺激的な香りだった。生姜に似ているが、もっと強い。鼻の奥まで来る香りだった。
少量を切って口に含んだ。
辛かった。
口の中が一瞬で燃えるような感覚があった。唾液が出た。目が少し潤んだ。
ただし。
体の中から熱が来た。
口だけでなく、食道から胃にかけて、温かさが広がった。
「これです」とリディアは言った。
「食えるのか、これが」とブルンが言った。
「このままでは辛すぎます。加工します」
水晶板を向けた。
「氷雪根です」とリディアは言った。
「生のままでは辛すぎて食べられません。ただし加工すれば使えます」
コメント欄に「生姜みたいなやつか」「それを料理にするのか」「辛すぎるものをどうするんだ」が流れた。
「辛味の成分は熱で変化します。加熱すると刺激が和らいで、代わりに甘みと温熱効果が残ります」
「温熱効果というのは」とコメントが来た。
「体を内側から温める効果です。この根菜の成分が血行を促進します。寒冷地での労働者に特に向いています」
調理を始めた。
氷雪根を薄切りにした。
「薄く切ります。厚いと辛味成分が残りやすいです。薄くすれば早く熱が入ります」
ハンスの保存脂を鍋に入れた。
「ラードで炒めます。脂が辛味成分を包んで、刺激を和らげます」
薄切りにした氷雪根を入れた。
ジュアッという音が出た。香りが立った。刺激的な香りだったが、熱が入ると変化した。甘みが出てきた。
「香りが変わりました。辛味が落ちて、香ばしさが出ています」
アランヴァルの黒穀を加えた。
「黒穀を加えます。炊き込みにします。黒穀が出汁を吸って、全体に旨味が広がります」
固形スープの素を三個溶いた出汁を加えた。
「出汁を加えます。全拠点の素材が入っています。エルダの出汁成分、カイロスの海の旨味、アランヴァルの穀物、公爵領の肉。全部がこの一鍋に入っています」
コメント欄に「全拠点が繋がっている」「ガルムでこの鍋が完成するのか」「スパチャ投げます」が流れた。
弱火で煮た。
二十分経つと、香りが変わっていた。
氷雪根の香りがスープ全体に溶け込んでいた。刺激的な香りではなく、体を刺激する温かみのある香りに変わっていた。
一口飲んだ。
温かかった。
温かいだけでなく、飲み込んだ後に体の内側から熱が来た。胃から全身に広がる感覚だった。
「できました」
「飲んでください」とブルンに渡した。
ブルンが受け取った。
一口飲んだ。
「……熱い」と言った。
「熱すぎましたか」
「いや、外から熱いのではなく」とブルンは言った。言葉を探していた。
「体の中から来る。内側から熱くなっている」
「氷雪根の効果です。血行が良くなっています」
ブルンが二口目を飲んだ。
「手が動いてきた」と言った。
「手先まで血が行き渡っています」
「これが毎日飲めれば」とブルンは言った。言いかけて止めた。
「飲めます。氷雪根はここに大量に生えています。素材は足りています」
コルトが受け取って飲んだ。
「体の芯が温まる。ダンジョンの深部に入る前にこれが飲めれば、体の状態が全然違う」
「冒険者にも向いています」
「向いている。持ち運べるか、これを」
「固形スープの素と同じ方法で、氷雪根の成分を濃縮して固形にすることができます。お湯で溶かせば同じものが飲めます」
「量産できるのか」
「マニュアルを作れば現地の人間が作れます」
坑道から鉱夫が何人か出てきた。
匂いで来たらしかった。
ブルンが声をかけた。全員に椀を渡した。
一人が飲んだ。顔が変わった。白かった顔に赤みが戻ってきた。
「顔色が変わっています」とリディアは言った。
「血色が出てきた」とにゃん吉が言った。
「血行が改善されています。体の表面まで血が届いています」
別の鉱夫が「手が動く」と言った。マリウスが通訳した。
「どういう意味ですか」
「冬になると手先の感覚が薄くなる。細かい作業ができなくなる。それが今、感覚が戻ってきた」
「氷雪根の効果です。炒めることで有効成分が引き出されました。出汁に溶けています」
コメント欄に「鉱夫の顔色が変わった」「体の中から温まるというのが見えた気がする」「薬膳スープだ」「スパチャ連打」が流れた。
ブルンがリディアのところに来た。
「頼みがある」
「どうぞ」
「この作り方を教えてくれ。俺たちで作れるようにしてくれ」
「それが目的で来ています」とリディアは言った。
「何日あれば覚えられる」
「三日あれば基礎は覚えられます。指導者を一人選んでください。その人間を中心に教えます」
「俺がやる」とブルンが言った。
「ブルンさん自身が」
「指導者を選べと言ったが、俺がやる。この街を一番知っているのは俺だ。俺が覚えれば俺が伝えられる」
「分かりました。では明日から始めます」
夕方、水晶板を閉じた。
ブルンが宿を手配してくれていた。
部屋に入ると、暖炉があった。
「ヴェルンと同じですね」とリディアはにゃん吉に言った。
「どこも寒い場所では暖炉が必要だ」
「氷雪根のスープを作っておきました。夜に飲めるように」
「気が利く」
「体温を保つためです」
にゃん吉が椀を受け取った。一口飲んだ。
「今日も良いものを見つけた」
「捨てられていましたね、氷雪根は」
「毎回そうだな。お前が行く先には必ず捨てられているものがある」
「あると思って探しています」とリディアは言った。
「捨てられているものに価値があるのは、処理方法が分かっていないからです。分かれば使えます。分からなければ捨て続けます」
「それを見つけるのが仕事か」
「それが全部の起点です。スライムモドキから始まって、ずっとそうでした」
羊皮紙を広げた。
ブルンへの指導の計画を書いた。
三日間の工程。一日目は氷雪根の処理と基本のスープ。二日目は応用と固形化の方法。三日目はマニュアルの確認と復習。
「三日で覚えられるのか」とにゃん吉が言った。
「覚えられます。ブルンさんは長年この街で生きています。素材への理解が速い。土台がある人間は覚えが早いです」
「エルザと同じだな」
「同じです。長年の経験がある人間は、新しい知識が既存の経験と繋がります。繋がれば定着します」
「なるほど」
外の風が強かった。
窓が鳴った。
ケセルの夜は、ヴェルンより静かだった。人が少ない分、街の音が少なかった。
風だけが続いていた。
「明日から三日間です」とリディアはにゃん吉に言った。
「急ぐのか」
「急ぎません。ただし三日で形を作って、次の都市に向かいます。ガルム全域を回るには時間が必要です」
「急がないのに時間を気にするのか」
「確実に進むためです。急ぐのと、効率的に進むのは違います」
にゃん吉が「そうか」と言った。
ペンが動いた。
明日の準備が羊皮紙に並んでいった。
暖炉の火が続いていた。
氷雪根のスープの香りが部屋に残っていた。




