第65話:ガルムの夜空
領主との打ち合わせは午前中で終わった。
領主はフォルツという五十代の男だった。体格が良く、話し方が直接的だった。ガルムの気候と同じで、無駄がなかった。
「要点だけ聞く」とフォルツは言った。
マリウスが通訳した。
「この仕組みをガルム全域に広げるために何が必要か」
「三つです」とリディアは言った。
「一つ目、各都市に現地の指導者を一人置くこと。料理を覚えて、次の人間に教えられる人間です。二つ目、素材の流通ルートを整備すること。固形スープの素の素材と、乳製品の加工に必要なものが各地に届く仕組みです。三つ目、記録を残すこと。マニュアルを文書にして、各地の指導者が持ちます」
「期間はどのくらいかかる」
「各都市に一週間ずつ入れれば、基礎は作れます。後は現地の人間が継続します」
「費用は」
「素材の流通コストは領主の方で持っていただきます。指導は無償でやります」
フォルツが少し目を細めた。
「なぜ無償でやる」
「仕組みが広がれば、ガルムの食材が外に出やすくなります。マリウスさんの取引が増えます。それが回り回って繋がっている拠点全体の利益になります。無償でも損ではありません」
フォルツがマリウスを見た。
「この令嬢は信用できるか」
「信用できます」とマリウスが答えた。
「分かった」とフォルツは言った。
「話を進める」
午後、ヴェルンの石窯に戻った。
三日目のチーズを確認した。
表面に変化が出ていた。
薄い白い膜が出来始めていた。
「良い兆候です」とリディアは言った。
「これは良いものか」とエルザが聞いた。
「良いものです。熟成が進んでいます。このまま続ければ一週間後には食べられる状態になります」
「一週間か」
「待てますか」
「待てる。どうせこれまでも何十年も待ってきた街だ」
エルザの言い方が乾いていた。
笑いを含んでいたが、事実でもあった。
「変わりますよ、一週間後から」とリディアは言った。
「信じる」とエルザは言った。
夕方の配信をした。
「ヴェルンでの仕事が形になってきました」とリディアは言った。
「今日、ガルムの地方領主と正式な話し合いをしました。ガルム全域への展開が決まりました」
コメント欄に「ガルム全域か」「大きくなった」「令嬢の仕組みがまた広がる」が流れた。
「エルダ、カイロス、アランヴァル、ノルド、公爵領に続いて、ガルムが繋がります」
「全部が繋がっていくな」とコメントが来た。
「繋がっています。ガルムの干し肉と乳製品が他の拠点に届き、他の拠点の素材がガルムに届きます。輪が広がります」
夜、マリウスが最後の確認に来た。
「明日から各都市への訪問を始めますか」
「はい。ヴェルンで基礎を作りました。次の都市に移ります」
「案内をします。ガルム内陸部の道は複雑なので」
「お願いします」
マリウスが帰った。
コルトが残っていた。
「俺たちはどうする」
「一緒に来てもらえますか。ガルムの内陸は治安が安定していない地域もあると聞いています」
「それが俺たちの仕事だな」とコルトは言った。
「了解した」
全員が宿に入った後、にゃん吉と二人になった。
暖炉の前に座った。
外から風の音がした。
昨日より強い風だった。
「今夜は星が見えないかもしれません」とリディアは言った。
「見えないかもしれない」とにゃん吉が言った。
「ただし晴れれば見える。この高地の星は格別だ」
「来たことがあるんですか、ガルムの高地に」
「数百年前だ。あの頃はここも別の名前の領地だった。領主も違った」
「星は変わりませんね」
「星は変わらない。人間と街と名前が変わる。でも星だけは同じだ」
しばらく黙っていた。
暖炉の音がした。
「一つ聞いていいですか」とリディアは言った。
「何だ」
「ここに来てから、何度か感じていることがあります」
「何を感じている」
「寒冷地での調理と、ダンジョンの深層の環境が似ているということです」
にゃん吉の耳が動いた。
「どう似ていると思う」
「外気温が低い。素材の状態を保温しながら扱う必要がある。保存食の重要性が高い。道具の耐久性が問題になる。全部が、最深層に挑む時の条件と重なります」
「言われてみればそうだな」とにゃん吉は言った。
「最深層は特殊な環境だ。極端な温度変化がある。素材の扱いが難しい」
「詳しく教えてもらえますか。最深層の環境を」
にゃん吉が少し間を置いた。
「俺が最後に最深層に近い場所にいたのは百年以上前だ。細かいことは変わっているかもしれない。ただし基本的な環境は変わらないと思う」
「聞かせてください」
にゃん吉が話し始めた。
「最深層は三つの特徴がある。一つ目は温度だ。上層から降りるにつれて温度が変化する。ただし単純に冷えるわけではない。場所によって極熱の地帯と極寒の地帯が交互に現れる」
「交互にですか」
「魔力の濃度が高い場所は熱を持つ。薄い場所は冷える。最深層は魔力の流れが複雑なので、温度が安定しない」
「調理の時に問題になります」とリディアは言った。
「火力の確保が難しい。保温も難しい」
「そうだ。二つ目は素材の変質だ。最深層の素材は魔力を多く含んでいる。加熱すると通常の食材とは違う反応をする場合がある」
「具体的にはどういう反応ですか」
「例えば、普通なら固まるはずのものが固まらない。あるいは逆に、液体のままにしたいものが瞬時に固化する。魔力が化学反応に干渉するからだ」
「厄介ですね」
「厄介だ。三つ目は時間の感覚だ。最深層は魔力濃度が高すぎるため、人間の感覚が狂う場合がある。長くいると時間の経過が分からなくなる」
「それで、虚ろの王の話です」とリディアは言った。
「前に少し聞きました。食べた者が言葉を失ったという」
「そうだ」とにゃん吉は言った。
「百年前の記録だが、虚ろの王は最深層の核に近い場所に生息している。それ自体が強大な魔力を持っていて、倒すことができた冒険者がほぼいない」
「倒すのはにゃん吉さんがやると思います」
「俺がやる前提か」
「やってくれますよね」
「…まあ、そうなるだろうな」とにゃん吉は言った。渋い声だったが、否定しなかった。
「肉の性質はどうですか」
「魔力が凝縮されているため、密度が高い。通常の調理法では火が通らない可能性がある。最深層の特殊な環境に対応した調理法が必要になる」
「特殊な環境に対応した調理法」とリディアは繰り返した。
「それが今回の旅で身につけているものと同じです」
「どういう意味だ」
「エルダで岩角豚を低温長時間煮込みで柔らかくしました。カイロスで海産素材の出汁の取り方を学びました。アランヴァルで固い殻の黒穀を処理する方法を覚えました。ガルムで極寒の環境での保温調理を学んでいます。全部が積み重なっています」
にゃん吉がしばらく静かにしていた。
「お前は最深層を意識しながら旅しているのか」
「意識していたわけではありません。ただ振り返ると、全部が繋がっています」
「偶然か」
「偶然だと思います。ただし偶然でも積み重なれば力になります」
「そうだな」とにゃん吉は言った。
「俺がダンジョンに入ってから、お前と組んでいたのは偶然だった。あの夜、画角に入り込んできたのも偶然だった。でも今はこうして最深層の話をしている」
「偶然が続いて必然になります」とリディアは言った。
「詩的なことを言うな」
「事実を言っているつもりです」
窓の外を見た。
風が止んでいた。
星が見えていた。
にゃん吉が言っていた通りだった。高地の星は格別だった。数が多く、光が強かった。
「綺麗ですね」
「こういう夜は久しぶりだ」とにゃん吉が言った。
「星を見ながら話したのはいつ以来ですか」
「覚えていない。長く生きすぎると、いつが最後だったか分からなくなる」
「今夜が覚えているもので一番新しくなりましたね」
「そうなるな」
缶を開ける音がした。
にゃん吉がマタタビ酒を飲んでいた。
「一つだけ確認しておく」とにゃん吉が言った。
「何ですか」
「最深層に行く時、覚悟はあるか」
リディアは少し考えた。
「あります」
「怖くないのか」
「あります。ただし怖くても行く理由がある」とリディアは言った。
「何だ」
「虚ろの王を食べてみたい」
にゃん吉が少し間を置いた。
「……それだけか」
「それだけです。百年前に食べた人間が言葉を失ったと聞きました。どんな味がしたのか知りたいです」
「言葉を失うほどの食材を食べたいのか」
「そのために道具と技術を積み重ねています」
にゃん吉が缶を傾けた。
「お前らしい理由だ」
「そうですか」
「神獣として数百年生きてきたが、食材のために最深層に行くという人間は初めて見た」
「面白いですか」
「面白い」とにゃん吉は言った。
「だから続きが見たいと思っている」
星を見ながら少しの間、何も言わなかった。
暖炉の音がした。
外の風が時々窓を叩いた。
ガルムの夜が深くなっていった。
「そろそろ寝ます」とリディアは言った。
「明日は次の都市か」
「はい。マリウスさんが案内してくれます」
「また新しい素材があるのか」
「あると思います。行ってみないと分かりません」
「それがお前の旅だな」とにゃん吉は言った。
「そうです」
魔石灯を暗くした。
星が窓から見えていた。
最深層はまだ先だった。
でも今夜、確かに近くなった気がした。
目を閉じた。




