第64話:マリウスの涙
翌朝、石窯を見に行った。
街の外れだった。
歩いて十分ほどの距離に、石造りの建物があった。外壁が苔むしていた。扉が重かった。マリウスが鍵を開けた。
中に入ると、石窯が二つあった。大きい方と小さい方。どちらも石造りで、内部がしっかりしていた。
触ると壁が厚かった。熱を蓄える構造だった。内部の温度が安定しやすいはずだった。
「使えます」とリディアは言った。
「長年使っていなかったが、壊れていないか」とマリウスが言った。
「壊れていません。掃除をすれば今日から使えます」
「掃除ならエルザに頼めば人を出してくれる」
「お願いします」
水晶板を起動し、「今日は石窯を使います」とリディアは言った。
「チーズの熟成に使います」
コメント欄に「石窯熟成か」「本格的だ」「どんなチーズになるんだ」が流れた。
「熟成チーズは時間が必要です。ただし石窯の特性を使えば、普通より条件が整います」
「どういう特性ですか」とコメントが来た。
「石は熱を蓄えます。外気温が変わっても、内部の温度が安定します。チーズの熟成には温度と湿度の安定が重要です。石窯はその条件を自然に満たします」
エルザが人を三人連れてきた。
若い男たちだった。鉱夫の仕事が休みの日らしかった。
「令嬢が石窯を使うと聞いて、手伝いに来た」と一人が言った。
「昨日の煮込みを食べたのですか」とリディアは聞いた。
「食べた。あれから体が温まったままだった」
「それで来てくれたんですか」
「役に立てることがあれば」と男は言った。
三人が石窯の掃除を始めた。
手際が良かった。体を動かすことに慣れている人間の動き方だった。三十分で内部が綺麗になった。
乳の準備をした。
今日はサムから二桶届いていた。山羊の乳と魔羊の乳を別々にしておいた。
「二種類を別々に試します。どちらが熟成に向いているか確認します」
まず山羊の乳から始めた。
昨日と同じ工程で固めた。カッテージチーズの状態にした。
「ここから先が昨日と違います」
塩を加えた。
「塩を混ぜます。量が重要です。多すぎると辛くなります。少なすぎると腐敗を防げません」
計りながら加えた。
「全体に均一に混ぜます。塩が行き渡らないと、偏った熟成になります」
型に入れた。
「形を作ります。今日は布で包んで丸い形にします。型があれば均一になりますが、今日は試作なので布で代用します」
石窯に入れた。
「温度を確認します」
手を入れた。
「体温より少し高い程度です。これが熟成に適した温度帯です」
「どのくらい置くんですか」とコメントが来た。
「本格的な熟成には週単位から月単位かかります。ただし今回は石窯の温度を少し上げて、期間を短縮します」
「短縮できるのか」
「温度を上げれば熟成が進む速度が上がります。ただし高すぎると品質が落ちます。適切な範囲で上げます」
エルダ製フライパンで石を温めた。熱くした石を石窯の中に置いた。
「これで内部の温度を少し上げます。魔導炉を直接使うより、蓄熱した石の方が温度が安定します」
「自然の熱を利用するのか」とコメントが来た。
「自然の特性を使う方が、道具を使うより安定することがあります。ここでの素材は石窯と石の蓄熱性です」
魔羊の乳も同じ工程で処理した。
山羊の乳と並べて石窯に入れた。
「どちらが向いているか、数日後に確認します」
「待つのか」とエルザが言った。
「熟成は待つ仕事です。急いでも良いものができません」
「煮込みも待つ仕事だったな」
「そうです。良いものには時間がかかります」
エルザが「そういうものか」と言った。
昼、エルザの宿で昼食を出した。
煮込みとカッテージチーズを組み合わせた。
鉱夫の男が昨日より多く来ていた。
全員が食べた。
静かだった。
食べている間、誰も話さなかった。食べることに集中していた。
食べ終わった後に声が出た。
「体が違う」と一人が言った。
「どう違いますか」とリディアは聞いた。
「重さがない。いつもは干し肉を食べた後に、胃が重くなる。今日は軽い」
「処理で余分な成分が取れています。旨味だけが残っています」
「食べた量は同じなのに、重くない」
「消化しやすい状態になっているからです」
午後、マリウスが来た。
「商業の話をしたいのですが」
「どうぞ」
「チーズが完成したとして、どこに売りますか」
「ガルム全体です。ヴェルンから始めて、他の都市に広げます」
「エルダやカイロスには」
「エルダでは乳製品が手に入りにくいと聞きました。送れれば需要があります。カイロスでも同様です」
「流通ルートはどうしますか」
「マリウスさんにお願いできますか。エルダへはドランさん経由。カイロスはタスカさん経由。アランヴァルはイルゼさん経由。既存のルートを使えます」
「つまり令嬢が作った輪に乗せるのですね」
「その通りです」
マリウスが少し間を置いた。
「一つ言っていいですか」
「どうぞ」
「王都の関税が撤廃される前は、こういう話はできませんでした」とマリウスが言った。
「ガルムの素材を王都を通さずに他の国へ送ることは、手続きが複雑でほぼ不可能でした」
「それが変わりましたね」
「変わりました。令嬢のおかげで変わりました」とマリウスが言った。
声が変わっていた。
リディアはマリウスの顔を見た。
目が赤かった。
「マリウスさん」
「失礼しました」とマリウスが言った。目を押さえた。
「商人が人前で泣くのは格好がつかない」
「泣いていいと思います」
「この街に来て三か月になります。最初に来た時は、変えられるのかどうか分からなかった。食事が貧しくて、人の顔が疲れていて、何年もそれが続いてきた」
「今日の顔を見ましたか、鉱夫の人たちの」
「見ました」
「変わっていました」とリディアは言った。
「変わっていました」とマリウスは言った。
「食べた後に重くないと言っていた人がいました。それを聞いた時に」
続きを言わなかった。
言わなくて良かった。
コメント欄に「マリウスさんが」「流通圏が完成したからこそ届けられた」「令嬢が変えた」が流れた。
にゃん吉が静かに言った。
「泣かせたな」
「泣かせたわけではありません」とリディアは言った。
「届いたものが大きかっただけです」
「同じことだ」
「違います。私が作ったのは仕組みです。届けたのは食材と方法です。それが届いて、マリウスさんの中で何かと繋がって、出てきたものです。私が泣かせたのではありません」
「細かいな」
「正確に言いたいです」
夕方、ガルムの地方領主から使者が来た。
マリウスが対応した。
話が終わってから、マリウスが来た。
「領主が会いたいと言っています」
「どういう意図ですか」
「噂を聞きつけたようです。ヴェルンで食事が変わったという話が領主のところまで届いたとのことです。領内全域に仕組みを導入したいと」
「正式な話ですか」
「使者が来た以上、正式な話です」
「明日、会います。条件を持って行きます」
「条件というのは」
「現地の人間が自分で作れること。私がいなくなっても続くこと。その二点が守られれば導入できます」
マリウスが「分かりました」と言った。
「一つお願いがあります」
「何でしょうか」
「通訳をしてもらえますか。ガルムの言葉が完全には分かりません」
「喜んで」とマリウスが言った。
夜、羊皮紙を広げた。
明日の領主との打ち合わせの準備を書いた。
条件の整理。ガルム全域への展開の段取り。素材の流通ルートの確認。マニュアルの複製と配布の方法。
「また準備が増えましたね」とにゃん吉に言った。
「領主が動いてくれれば、ヴェルンだけでなくガルム全域に広がります。範囲が変わります」
「それは大きいな」
「大きいです。ただしやることの基本は変わりません。現地の人間が作れるようにする。それだけです」
「どこでも同じことを言うな」
「同じことが大事だからです」
暖炉の火が続いていた。
石窯の方向には、今夜もチーズが熟成されていた。
時間が仕事をしていた。




