第63話:石窯のチーズ
朝、女将のエルザが来た。
六十代ほどの大柄な女性だった。昨夜の様子から、長年この街で宿屋をやってきた人間の顔をしていた。働き者の手だった。
「約束通り来た」とエルザが言った。
「お待ちしていました。まず昨日の煮込みから始めます」
「その前に一つ聞いていいかい」
「どうぞ」
「あんたは何者だ。商人でも冒険者でもないだろう」
「料理をする人間です」
「それだけか」
「配信もしています」
エルザが水晶板を見た。すでに起動していた。
「これが配信というやつか。噂には聞いていた」
「見たことはありますか」
「ない。水晶板は持っていない」とエルザは言った。
「ただし昨夜、宿の若い男が騒いでいた。令嬢の配信が見られるようになったと」
「ガルムでも見られます」
「そうか」とエルザは言った。それ以上は聞かなかった。
「まあいい。料理を教えてくれればそれでいい」
煮込みの工程から始めた。
昨日の手順を一つずつエルザに確認させながら進めた。
「茹でこぼしが一番大事です。ここを省くと臭みが残ります」
「面倒だな」
「面倒ですが、省けません。ここが全部の基礎です」
エルザが鍋に向かった。手際が良かった。長年料理をしてきた人間の動き方だった。
「茹でこぼしの回数は毎回同じか」とエルザが聞いた。
「素材によって変わります。穴熊型は一回。岩蜥蜴は三回。羽なし鳥は一回」
「どうやって判断する」
「匂いです。湯が白く濁って臭みが強い間は繰り返します。湯が透明に近くなって匂いが落ち着いたら次に進みます」
「匂いで判断するのか」
「計れないものは感覚で判断します。繰り返せば分かってきます」
エルザが頷いた。
「分かった。続けて」
煮込みを火にかけた。
待つ間に、リディアは別の準備を始めた。
「乳の話をします」とリディアは言った。
「エルザさん、余っている乳はどこで手に入りますか」
「牧夫のサムのところだ。山羊と魔羊の乳が毎日余っている。もらいに行けばただでくれる。捨てているよりましだと言っている」
「今日もらいに行けますか」
「行ける。量はどのくらい要る」
「まず試作なので少量でいいです。大きな桶で一つ分ほど」
「伝えてくる」とエルザが言って、外に出た。
配信を続けた。
「今日は二つ進めます。煮込みの続きと、乳の加工です」とリディアは水晶板に向かって言った。
コメント欄に「乳の加工とはチーズか」「ヴェルンで乳が余っているのか」「また廃棄素材が出てきた」が流れた。
「余っている乳をチーズにします。保存が利いて、栄養もある。固いパンと合わせれば食事になります」
「チーズの作り方を知っているのか」とコメントが来た。
「知識があります」とリディアは言った。
「基本的な方法は単純です。乳を温めて、固める成分を加えて、水分を抜く。それだけです」
「固める成分とは」とコメントが来た。
「本来は凝乳酵素を使いますが、代わりになるものがあります。酸です。酢や魔果実の汁を使えば乳が固まります。本格的なチーズより風味は落ちますが、まずはこれで始めます」
エルザが戻ってきた。
大きな桶を抱えていた。中に白い液体が入っていた。
「サムが喜んでくれた。余っているから好きなだけ使えと言っていた」
「ありがとうございます。作り方を見せますね」
乳を鍋に移した。
弱火にかけた。
「温度が大事です。熱しすぎると固まる前に変質します。体温より少し高いくらいが目安です」
「どうやって測る」とエルザが聞いた。
「手首の内側で確認します。触って温かいと感じる程度です。熱くなったら一歩手前です」
温めながら魔果実の汁を少量加えた。
「酸を加えます。少しずつです。多すぎると酸味が強くなりすぎます」
混ぜた。
しばらくすると変化が出てきた。
乳が分離し始めた。白い固形物と、薄い黄色の液体に分かれていく。
「分離しました」
「白いものが固まったのか」とエルザが言った。
「そうです。タンパク質が固まっています。これがチーズの素になります」
布で漉した。
固形物が残った。
柔らかい、白い塊だった。
「これがカッテージチーズに相当するものです。今日はここまでです」
「食べられるのか、今すぐ」とエルザが言った。
「食べられます。塩を少量加えて食べてみてください」
塩を振った。
エルザが一口食べた。
少し考えた顔をした。
「柔らかい。酸味がある。クセがない」
「そうです。そのまま食べても美味しいですが、固いパンに乗せるとよく合います」
エルザがパンを取ってきた。
チーズを乗せた。一口かじった。
「……パンが食べやすくなった」
「チーズの水分がパンに入ります。固さが和らぎます」
「なぜ今まで誰もこれをしなかったんだ」
「乳が固まることを知らなかったか、方法が分からなかったかです」
「簡単なことじゃないか」
「知っていれば簡単です。知らなければ分かりません」
コメント欄に「チーズができた」「カッテージチーズか」「固いパンとの組み合わせが良さそう」「エルザさんの反応が良い」が流れた。
にゃん吉がチーズを一口食べた。
「酸味がある」
「乳の種類と酸の量で変わります。今日は試作なので酸味が少し強いです。調整します」
「調整できるのか」
「加える酸の量を変えます。次回は少し減らして、もう少し穏やかな味にします」
「回数を重ねれば良くなるのか」
「必ずなります」
昼前、煮込みが仕上がった。
エルザに確認させた。
「箸を入れてください」
エルザが箸を入れた。
崩れた。
「昨日と同じになりました」とエルザが言った。
「同じ手順でやれば同じものができます」
「私でもできたのか」
「できました。あとは繰り返して体に覚えさせます」
エルザが煮込みを器に盛った。
宿の客に出した。
最初の客が食べた。
五十代の鉱夫だった。毎日この宿で昼食を取っているらしかった。
一口食べて止まった。
「エルザ、何をした」と言った。
「令嬢に教わった」とエルザが答えた。
「いつものじゃないな」
「いつもの肉だ。料理の仕方が変わっただけだ」
「柔らかい。口の中でほどける」
「そうだ」
鉱夫がもう一口食べた。また止まった。
「温かい」と言った。
「温かいのはいつも同じじゃないか」とエルザが言った。
「温かさが違う。中から来る温かさだ」
コメント欄に「中から来る温かさ」「鉱夫の言い方が詩的だ」「届いてる」「スパチャ連打」が流れた。
午後、マリウスが来た。
「噂が広まっています」とマリウスが言った。
「エルザの宿で食事が変わったと、街の人達が話しています」
「一日でですか」
「この街は小さいので広まるのが早い。昼に食べた鉱夫が仲間に話したようです。夕食に来たいと言っている人間が増えています」
「エルザさん、夕食の量を増やせますか」
「材料が要る」とエルザが言った。
「干し肉を追加で買ってきます。乳ももう一桶もらいに行きます」
「私が行く」とエルザが言った。
「サムには私の方が話が通りやすい」
エルザが出ている間、リディアは次の段階を考えた。
カッテージチーズの次は熟成チーズだった。
熟成させれば保存期間が延びる。栄養密度も上がる。固いパンと合わせて食べれば、一食で必要な栄養が取れる。
「次は熟成チーズに進みます」とにゃん吉に言った。
「時間がかかるのか」
「本格的な熟成には時間がかかります。ただしここでは石窯が使えます。石窯の温度と湿度を利用すれば、熟成の速度を上げられます」
「石窯があるのか」
「エルザさんに聞いたら、街の外れに古い石窯があると言っていました。昔はパンを焼くのに使っていたが、今は使っていないそうです」
「使えるのか」
「明日確認に行きます。使えれば熟成チーズの試作を始めます」
夕方、エルザが戻ってきた。
乳を二桶持ってきた。
「サムが今日から毎日持ってくると言っていた。令嬢が使うなら喜んで渡すと」
「ありがとうございます。明日から乳の加工を本格的に始めます」
「石窯の件も話してきた」とエルザが言った。
「石窯のことを聞きましたか」
「街の古い石窯のことを知っているか聞いたら、何の用かと聞き返された。チーズを熟成させると言ったら、鍵を渡してくれた。好きに使えと言っていた」
「話が早いですね」
「この街の人間は無駄なことを言わない。寒い場所では言葉が少なくなる」
夜の配信で今日の成果を伝えた。
「今日、カッテージチーズの試作に成功しました。固いパンと合わせて食べました。明日は石窯を使って熟成チーズに進みます」
コメント欄に「一日で進んだ」「石窯熟成チーズか」「ガルムで食文化が変わっていく」が流れた。
「ヴェルンの素材は少ないですが、使えるものがあります。干し肉と乳があれば、タンパク質は取れます。あとは調理の方法です」
「それを届けるのが令嬢の仕事か」とコメントが来た。
「そうです。届けて、教えて、仕組みを残します。それだけです」
夜、エルザが煮込みの残りを持ってきた。
「夕食に全部出したら全部なくなった。明日も作るから教えてくれ」
「明日も一緒に作ります」
「チーズも出した。全部なくなった」
「一日で」
「少ない量だったからな。もっと作れば良かった」
「明日から量を増やします」
エルザが「頼む」と言って部屋を出た。
マリウスが残っていた。
「令嬢」とマリウスが言った。
「はい」
「一つ言ってもいいですか」
「どうぞ」
「カイロスで初めて会った時から、あなたは止まらないと思っていました。今日もそれを確認しました」とマリウスが言った。
「ありがとうございます。この街に来てくれて」
「素材があったので来ました」
「素材を見つけるのがあなたの仕事ですね」
「そうです」
マリウスが「そうですね」と言って、立ち上がった。
「明日も来ます」
「来てください。石窯を見に行く時に一緒に来てもらえると助かります」
夜、羊皮紙を広げた。
石窯チーズの熟成工程を書いた。
温度の目安。湿度の確認方法。熟成期間の目安。表面に出るカビの種類と対処法。
「随分詳しく書いているな」とにゃん吉が言った。
「前世の知識を全部出しています。正確に伝えないと失敗します。チーズの熟成は繊細です」
「繊細なのか」
「温度と湿度が合わなければ良いものができません。ただし石窯は蓄熱性が高いので、温度が安定しやすい。条件が整えば上手くいきます」
「また新しい場所で新しいものを作るのか」
「そうです」
「楽しそうだな」とにゃん吉が言った。
「楽しいです」とリディアは言った。
暖炉が続いていた。
外の風が窓を叩いていた。
ヴェルンの夜は深かった。
でも宿の中は温かかった。
煮込みとチーズの香りが残っていた。
ペンが動いた。
明日の準備が羊皮紙に並んでいった。




