第62話:煮込みの時間
朝、市場に行った。
開いたばかりの時間だった。売り手が少なかった。客もほとんどいなかった。
干し肉の売り場に向かった。
種類が多かった。
マリウスが言っていた通りだった。鉱山から出る魔物の肉が主だった。大きさも形も色も違う干し肉が並んでいた。全部が塩漬けにして乾燥させたものだった。
一種類ずつ触った。
固さを確認した。匂いを嗅いだ。
売り手の男が怪しそうに見ていた。
「買うのか買わないのか」と男が言った。
「全種類を少量ずつ買います。試したいので」
「試すというのは何だ」
「料理に使います。どれが何の肉かを教えてもらえますか」
男が説明してくれた。
坑道の岩蜥蜴の肉。穴熊に似た魔物の肉。鉱山近くに出る羽なし鳥の肉。深部に生息する節足類の胴体部分。
四種類あった。
「全部をひと切れずつください」
宿に戻って確認した。
水晶板を起動した。
「今日は素材の確認から配信します」とリディアは言った。
「ヴェルンで手に入った干し肉が四種類あります。全部を試します」
コメント欄に「ガルム編始まった」「四種類の干し肉か」「どれが一番使えるんだ」が流れた。
一種類目、岩蜥蜴の肉を熱湯に入れた。
「まず茹でて臭みを確認します。最初の湯は捨てます」
茹でた。湯が黒くなった。独特の匂いが出た。
「臭みが強いです。二回茹でこぼします」
二回目。湯が薄くなった。匂いが落ちてきた。
「良くなっています。ただしもう一回必要です」
三回目。湯が透明に近くなった。匂いが許容範囲に入った。
「岩蜥蜴の肉は三回の茹でこぼしが必要です。時間がかかります」
二種類目、穴熊型魔物の肉を同じ方法で試した。
「一回で匂いが落ちました。こちらは処理が楽です」
「種類によって違うのか」とコメントが来た。
「肉の成分が違います。食べているものが違うので、脂と血の成分が変わります。処理方法も変わります」
三種類目、羽なし鳥の肉を試した。
「これは臭みが少ないです。鶏系の素材は比較的処理が簡単です」
四種類目、節足類の胴体を試した。
「これは匂いではなく、固さが問題です」
触ると岩のように固かった。
「殻があります。剥くのに工夫が要ります」
マリウスが来た。
「見ていました。四種類を全部試したのですか」
「確認してから料理を決めます。今日は穴熊型と羽なし鳥を使います」
「なぜその二種類を」
「処理が効率的です。臭みが取りやすくて、量が安定して手に入るなら、その二種類が現地での定番になります」
「節足類は使わないのですか」
「殻の剥き方を確認してから判断します。固くても剥ければ使えます」
「岩蜥蜴は」
「三回の茹でこぼしが必要です。手間がかかる。ただし使えないわけではないです。特別な料理に使う素材として位置づけます」
午後から本格的な調理を始めた。
穴熊型の干し肉を処理した。
一度茹でこぼした肉を取り出した。切った。筋が太かった。繊維が固い方向に走っていた。
「筋の方向を確認します。繊維に沿って切るか、繊維を断ち切る方向で切るかで、食感が変わります」
「どちらがいいのか」とコメントが来た。
「煮込みにするなら繊維を断ち切る方向です。繊維が短くなると、煮込んだ時に柔らかくなりやすい」
切った。
エルダ製の二重構造魔導鍋に入れた。
水を張った。
「ここからが肝心です」とリディアは言った。
「水ではなく、固形スープの素を溶いた出汁を使います」
固形スープの素を三個溶いた。
「出汁で煮ることで、素材に旨味が入ります。水で煮ると素材の旨味が出ていくだけですが、出汁で煮ると双方向になります。素材から旨味が出ながら、出汁の旨味が素材に入っていく」
「双方向というのが大事なのか」とコメントが来た。
「仕上がりが全然違います。水煮と出汁煮を比べると分かります」
火を入れた。
弱火だった。
「時間をかけます。急ぎません」
「どのくらいかかるんだ」とコメントが来た。
「二時間から三時間です。固い肉を柔らかくするには時間が必要です」
「エルダの岩角豚の時も時間をかけていたな」とコメントが来た。
「同じです。固い素材は時間が解決します。火力ではなく、時間です」
保存脂を少量加えた。
「ハンスさんの保存脂です。隠し味として加えます。脂が全体に丸みを加えます」
コメント欄に「公爵領の素材がガルムで使われている」「ハンスさんの豚がここまで来た」が流れた。
一時間経った。
蓋を開けた。
香りが変わっていた。最初の肉の匂いが、深みのある煮込みの香りに変わっていた。
「変化しています。あと一時間以上かかります」
マリウスが蓋を開けた瞬間に近づいてきた。
「匂いが変わりましたね」
「変わっています。良い方向に変化しています」
「これが毎日の干し肉になるのですか」
「なります。処理方法とレシピが分かれば、ヴェルンの人間が自分で作れます」
「ここでも仕組みを作るつもりですか」
「作ります。私がいなくなった後も続くものでないと、意味がありません」
にゃん吉が鍋の隣に座っていた。
蒸気が断続的に出るたびに鼻を動かしていた。
「確認しているんですか」
「匂いの変化を追っている。最初は生臭さがあった。今は消えた。代わりに旨味の香りが出てきた」
「正確に追えますか」
「神獣の嗅覚だ。人間の何倍も感知できる」
「では今の状態はどうですか」
「もう少しだ。あと三十分ほど経てば繊維が十分に緩む。そこで火を止めれば良い」
「正確ですね」
「感覚だ。計れるものではない」とにゃん吉は言った。
「ただし経験と感覚を組み合わせれば、数値がなくても判断できる」
「それが料理人の技術ですね」
「お前もそれでやっているのではないか」
「私は知識と感覚の両方を使っています。知識が土台で、感覚が調整です」
三十分後、にゃん吉が「今だ」と言った。
火を止めた。
蓋を開けた。
香りが満ちた。
出汁と肉の旨味が混ざった、重みのある香りだった。宿の部屋全体に広がった。
「取り出します」
肉を箸で触った。
スッと入った。
抵抗がなかった。
「柔らかくなっています」
器に移した。
出汁を一緒に注いだ。濃い褐色の液体が肉を覆った。
「マリウスさん、食べてください」
マリウスが受け取った。
肉に箸を当てた。
崩れた。
「……崩れた」とマリウスが言った。
「柔らかくなっています。食べてください」
一口食べた。
止まった。
しばらく動かなかった。
「これが」とマリウスが言った。
「あの固い干し肉が」
「そうです」
「噛み切れなかったものが、口の中でほどける」
「時間と出汁の効果です」
「ヴェルンの人間はこれを毎日食べられるのですか」
「材料はあります。方法を伝えれば作れます」
コメント欄に「柔らかくなった」「マリウスさんの顔が」「ガルムにも届いた」「スパチャ連打」が流れた。
コルトが受け取って食べた。
「体が温まる」と言った。
「寒い場所ではこういう料理が必要です。温かくて、栄養があって、柔らかい」
「これが毎日食べられれば、体の状態が変わってくる」
「変わります。体が温まれば仕事の質も変わります」
夕方、ヴェルンの宿屋の女将が来た。
匂いを嗅ぎつけて来たと言った。
「何を作っているんだ」
「干し肉の煮込みです」
「あの固い肉がこんな匂いになるのか」
「なります。食べてみますか」
女将が食べた。
目が大きくなった。
「うちで出せるか、これを」と言った。
「作り方を教えます」
「本当か」
「明日、一緒に作りましょう。覚えれば毎日出せます」
女将が「ありがとう」と言った。
声が少し震えていた。
「どうかしましたか」
「この街の食事を二十年やってきた。ずっとこれしかないと思っていた。変えられると思っていなかった」
夜、羊皮紙を広げた。
今日の工程をマニュアルにまとめた。
茹でこぼしの回数。切り方の方向。出汁の比率。煮込みの時間の目安。
「また書いているのか」とにゃん吉が言った。
「明日、女将さんに教えます。書いておかないと漏れが出ます」
「女将に教えるのか、最初から」
「現地の人間が一番最初に覚えるべきです。宿屋が作れれば、客に提供できます。客が食べれば広まります」
「エルダと同じ順番だな」
「同じです。まず一人に教えます。その一人が次の人に教えます。私がいなくなっても続く」
にゃん吉が缶を開けた。
「今日は上手くいったな」
「上手くいきました。ただし乳の問題がまだ残っています。明日以降に進めます」
「焦らないな」
「焦っても乳の処理は今夜では終わりません。今夜は今日分のことをします」
暖炉の火が続いていた。
外の風が窓に当たっていた。
ヴェルンの夜は冷えた。
でも部屋の中は煮込みの余熱が残っていた。
話が飛んでた…m(_ _)m




